Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

究極の表現主義芸術実践

2024-03-24 | 
復活祭初日に開幕レセプションから出かけた。何はともあれ初日の新制作楽劇「エレクトラ」について、火曜日には第二回公演もあり、週明けにはヴァ―クナーガラもあるので、まずはその印象だけをメモしておきたい。

前作「サロメ」のその青年様式の作品に対して人気もなく上演回数も一桁以上少ない作品であり、その上演の困難を乗り越えた時にどうなるか。所謂表現主義の音楽芸術作品として、頂点に君臨する作品であるのかどうか。

少なくとも今回のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーと歌手陣の音楽はその頂点に立つ音楽であることを示していた。

上演の実践で乗り越えなければいけなかったのは如何にあれだけ分厚い管弦楽を越えて声が飛ぶのか、そして歌詞が聴き取れるのかでしかない。先ず今回は演出家がトリックを使った。それは通常の字幕以外にギリシャの円形劇場から発想を得たとするスライドする階段状にしたその舞台装置の階段に通常の字幕テロップに加えて独語歌詞を独自の大文字強調を加えて映し出したことである。これはとても大きな効果を得て、少なくとも独語を解する聴衆にとってはホフマンスタールの文章を読む以上に芝居的な説得力があった。これは芝居劇場では通常の手法でもあるのだろうが、演出家の大勝利であり、音楽的な大きな支持となっていた。

開幕早々の女中の場面でその階段の最上階で、「素手便器」ならず雑巾がけをさせた ― 「素手便器」は演出家シュテルツル作映画「ノルトヴァント」でも最初のシーンだった。勿論声のファンダメンタルは出ずに歌には不利になる。そこで猫のようなとして登場する主役のエレクトラもその下の段で歌う。可也分厚い管弦楽が付けられていて、通常はそこからその楽劇の流れが停まって仕舞って、最初から鬱陶しくなるところでもある。ここだけでも前作「サロメ」と比較して成功しない。

しかし流石にペトレンコは、音量を抑えるだけでなくて、ニナ・シュテムメの丁寧なアーティキュレーションに綺麗に合わせて演奏させる。到底あれだけの分厚い管弦楽は容易に制御できないのは、最晩年のベーム指揮のヴィーナーフィルハーモニカーでも決して叶うものではなかった。しかしそこでは映画映像と当て振りという技術的な方法で克服しているだけに過ぎない。それゆえに恐らくその制作が現在までの模範的な映像とされるものだったであろう。

アガメノンの動機で始まり、そしてそれで終わる、そこへのクライマックスにこの作品の全てがある。それを可能にするのは最初の女中の場面に全てが凝縮されていたのは、同じ演出家の「ノルトヴァント」と同じ構成であった。そして、その背景にはフロイトが活躍するヴィーンの精神世界がヴィーナーヴァルツァーとして示されている。

だから1996年にザルツブルクで浅利圭太が演出したギリシャの明るい海岸風景がコテンパンに叩かれたのである。何も文化的背景の分からない日本人が、台本通りになんて考えても如何に表層的な認識でしかないことがそこで分かる筈である。そのようなことでは何世紀掛かってもこの楽劇は理解できないであろう。(続く



参照:
律動無しのコテコテ停滞 2024-03-22 | 音
ヴィーンでの家庭騒乱 2024-02-20 | 音
コメント
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