Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

水風呂で「覚醒」を促される

2010-07-19 | マスメディア批評
漸く水風呂に浸かる時間が出来た。湖よりも少し冷たいぐらいだろうか。長く入っていると頭がちりちりとして来た。予定してした交響曲作家グスタフ・マーラーの記事に目を通していたからだ。

指揮活動オフシーズンの避暑地であり作曲小屋のあるケルンテンのヴェルター湖の写真が少々涼しいぐらいで、必ずしも夏らしい内容ではなかったが、二三面白いことが書いてあった。一つは、出生の環境についてであり、当時のオーストリア帝国内のユダヤ人を増やさないために正式には一家に一男しか家督相続出来ないことになっていたとある。要するに、百五十年前にボヘミアで生まれた作曲家の父親らは違法なユダヤ人であったとなる。アドルノが指摘するように、そうした貧困ユダヤ人の辛苦への不安感が悲哀の歌になっていると言うのである。これは一般的に流浪の民とか言う史実よりもその環境に迫っている。

こうした生い立ちがどれだけその芸術内容に繋がるかどうかは全く美学的な問題であるが、蒸留家として成功して「文字の出来るユダヤ人の家庭」に育つこの作曲家はユダヤ人都市プラハで高等教育を受けることになる。そして新古典派の権威であった作曲家ブラームスに傾倒して、自らその大家に推されてヴィーンの楽友協会の指揮者となる。そして出世に伴って、ユダヤ人であることがしばしば問題となり、カトリックに改宗するが、それがなんらの手助けにならなかったことは周知の事実である。

そのユダヤ文化への西欧音楽文化の抵抗は、音楽分野に限ってもリヒャルト・ヴァーグナーに代表される「ユダヤ人は、音楽的にも文化的寄生虫であり、その言葉を鸚鵡返ししているに過ぎない」とのメンデルスゾーンやマイヤーベーアへの手厳しい批評は、第三帝国のプフィッツナー連の「精神的に錯乱、びしょぬれのセンチメンタリズム、救いようの無い荒廃」としてマーラーにも投げ掛けられた。

それでは現在の状況は如何なるものであるか?と言えば、「本当にそれに近親感を持っているか?」、「ただのユートピア以上の世界へと門を開くマーラーの作品への心酔を遮断してはいないか?」、「それは、日常に陽を当てる能力と、神秘な体験への実際を聞き手に要求しているのだ」とこの新聞記事は結論付けている。

その具体例として、既にここでも連邦共和国ではその交響曲への需要や共感は同じプロテスタントの国スイスなどに比べても遥かに縁遠いことは説明しているが、幾つかの文化的な記号性が挙がる。

もっとも興味深く読んだのは、ハシディズムと呼ばれるユダヤ人のシャーマニズム的な集団的な宗教活動で、元来は旧約の「マカバイ記」にあるような抵抗運動から砂漠へと移動する集団行動などを指し、中世ではプファルツでのスパイヤーやヴォルムス、マインツでのユダヤ人の宗教活動に代表される、いささかピューリタン的な世捨てを前提とした実践の運動を指すようである。またそれとはあまり関連がなく、東欧に住むアシュケナージの中で近世になってからのユダヤ人虐殺や迫害があるたびに一種のヒステリー現象として起こった現象を指すようである。

グスタフ・マーラーの交響楽では、第一番の緩徐楽章の中での葬送行進曲と対象をなす踊りのステップをどのような文化的な枠組みで捉えるかが、こうした認識があるかないかでかわるのである。もし上のような現象を知り、それが「神の言葉」より導かれたものであると覚醒しない限り、それはとても居心地の悪いものでしかないであろう。他人の行いや言動を監察して理解出来ない居心地の悪さ(キモイ感)はまさにそこに因があるのだ。同様な例は、マーラーの交響曲の至るところに発見されることは愛好家の知る通りである。それを認識出来るか否に関わっている。

エリー・ヴィーゼル女史は、これをして「夕暮れに染まる真っ赤な雲を見て、その時への不安に慄きながら興奮状態となって踊り歌う『文字を持たないユダヤ人』を音楽化したのだ」と説明する。こうした文化的な提示自体が、非常に主観的な気分を伝える表現であると同時に、客観的な音楽表現であることは、直ぐに理解出来るだろう。シェーンベルクが指す「メロディックなフレーズの多様な調性に渡る変奏」自体がジナゴークによる宗教音楽の書法となるとそれは更に分かり易いだろうか。

余談であるが、指揮者サイモン・ラトルがショスタコーヴィッチの交響曲などでしばしばみせる、オーガズムスとは異なる痙攣した最強音カタストロフこそは、日常を客観化するこうした文化的背景無しには説明出来ないものであろう。

逸脱するが、二十世紀中盤にその交響曲の価値を今日の大衆世界に知らしめたのは、「ウエストサイドストーリー」で有名なミュージカル作曲家レナード・バーンスタインである。その故人が、まるで叱るように西欧の一流管弦楽団の練習においてその意味を激しく強調していたのも、一般大衆にそれを認識させるために必要な行いであって、まさに氏の独創的なマーラー解釈はそのもの秀逸な客観的な音楽実践に繋がり、その内容を普遍化するための芸術的な作業であったに違いないのである。

つまり、マーラーの交響曲を理解するとは、今日の聴者に対して、他でもない「覚醒」を要求することになるとなるのだろう。音楽ジャーナリストの表現として、水風呂で読ませて貰う文章として、十分な内容であった。



参照:
Von der Kraft, mit Musik ganze Welten aufzubauen, Julia Spinola, FAZ vom 3.7.2010
異文化の非日常をかける少女 2010-05-07 | 女
冬の夕焼けは珍しいか? 2005-01-12 | 文学・思想
カーネルさんのサマーコート 2010-07-07 | 生活
認知、直感的に安心させるもの 2010-07-11 | アウトドーア・環境
Authentic 2 (雨をかわす踊り)
意外とイケてるシャルドネ (新・緑家のリースリング日記)
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