Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

蔑みの泥濘に浸かってこそ

2023-06-14 | 
承前)日曜日初日の批評が出て来た。いつもネット配信が遅いノイエズルヒャー新聞は未だであるが、ベルリンの放送局も来ていたので一通り出ただろうか。南ドイツ新聞など多くが有料記事にしていて読めないが、多くは式次第に多くの文字数を使っている。その中で演出の評価から作品の本来の姿へと話しを進める記事は秀逸だ。同様に音楽のキャスティングと指揮者はお決まりのように同比重で評価される。

指揮者に関しては絶賛しかないが、どれ程具体的に批評しているかが問われる。リズム正確に透明さを失わないとの評価はいいのだが、もう一つ突っ込めない書き手側の限界も若干感じる。表向きは限られる文字数だろうが、透明性と精密さとの関係も分らない。透明な音響だけならば先ほど比較したカムブレランでも指揮可能だ。

しかし、小澤を含めて彼らが全く出来ていないのが、フランクフルトターアルゲマイネ紙が評するようにとてもスペクタクルな物語においてその音色を優しさや恐怖、同時に時には痛々しく、迸る喜びに奏でるという指揮で、ただ単に細かく別けられたメシアンの音楽を有機的にしただけではないとしている。勿論それが何処から来ているかと言えば、精緻なリズムを作る苦慮をすることで正しいアーティキュレーションを得たことの勝利でしかないのだが、そこ迄は綴られていない。

ここでブラハマン氏は最も重要なことに触れている。それは中世の聖劇の様ではあってはならない「今日何を」の初演時にも欠けていたことであるとする。要するに演出の為す仕事で、そこでボイスのウサギを使って、その埋葬にはトマトの苗が植えられた。そしてその死体を使って落語のラクダのように叉は御人形さん遊びのように死体を踊らせる。この動きはその喜びの動機から、三部で聖フランシスコをも踊らせることになるのだが、ここではまさしく十字架のキリストへの蔑みに相当すると知らしめている。この場面は殆ど長い葬送場面にもなっていたのだが ― 勿論、他で語られたようにシュリンゲンジーフ演出「パルジファル」でもあり、メシアンが影響を受け批判をしていた舞台神聖劇でもある ―、その通り歌詞は既に言及した様に痛みをここでは蔑みの泥濘に浸かってこそと、即ち愛することでこそ赦される聖フランシスコの教えが浮かび上がる。

まさしくその音楽は、それを語っていて、三回繰り返されることで三位一体が実現されるように聴者にはそれが意識されることになる。それを認識して指揮をするのがティトュス・エンゲルであり、このような作業は少々の意匠を強調して見せたりするような指揮者やそこ迄の思考や学びの無い指揮者には不可能なことなのである。(続く



参照:
Der Heilige Winnetou, den Vögeln predigend, Jan Brachmann, FAZ vom 13.6.2023
巡礼の一日の式次第 2023-06-12 | 生活
罪のエクスタシー 2023-04-16 | 文化一般

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