日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

阪神大震災と復興の一断面を思いながら・・

2015-01-17 18:30:08 | 自然

20年という節目だから、ということではないが、新聞やテレビの報道を見ていると、1995年の1月17日、この日の惨事についての様々な記憶が、僕の中にも留まっていることに気がつく。
阪神大震災が発生したのが午前5時46分、巨大な建造物の破壊と共に、住宅地の道路や敷地に亀裂が入り、倒壊した住宅の隣地に建つ住宅はほとんど無障ということも起き、現地を訪れて活断層というコトバの実態を確認したりしたことを思う。

JIA(日本建築家協会)の近畿支部からの要請があって、全国からJIAに所属する建築家が神戸に出かけた。神戸の建築家自身が被災していて、炊き出しなども含めた市民への支援が出来ない。JIA事務局員はすぐ呼応して長田に仮事務局を設置、親しい建築家が何人も出かけたが、仕事の調整をして打診したところ(奇妙な言い方だが)満杯、事務局では対応できないということだった。
被災地の状況が気になる僕は、ほぼ一ヵ月後、仕事を一緒にしていた建築会社の社長を誘って現地へ赴いた。
鉄道が動かないので途中からバスを乗り継ぎ、瓦礫の中のJIAの事務局に立ち寄ってJIAの支援・作業状況を聞いた後、2日間に渡って神戸を中心に歩き回った。

20年を経て気になっていたことがよみがえる。木造住宅が密集していた長田地区が火災に見舞われ、批判はあったものの、これをいい機会だと道路を拡幅した再開発事業を推進。ところが今ではシャッター街になってしまったという報道がなされている。

18年前に江ノ島、藤沢を中心としたJIAの保存問題の大会を行うために現地確認をしたときに気になったのは、箱根駅伝で通る旧東海道遊行寺近辺の商店街がシャッター街になっていることだった。
結局藤沢の中心街に建てられて都市が生き生きと発展していく姿をテーマの一つとして捉えることになったときの違和感。そして2006年前後、数年に渡って文化人類学の教授や学ぶ学生たちと沖縄を巡ったときの、活気に満ちた名護市中心街が、3年前に訪れた時には思いがけなくシャッター街になっていたことに衝撃を受けたことと重なってくる。

阪神大震災の発生が未明だったので、亡くなった方が6434人という少数だったのがせめてもの救いだったとも言われたりした。.
しかし、子女をなくされたり後遺症に悩む人、そしてこの歳に生まれて成人になった若者の、この日が来ると常にあれから何年(何歳)になったという指針になるとのメッセージをきくと、東北や沖縄の人たちと重ね合わせながら、たとえ一人であっても、人為的なものであっても、自然の引き起こすものであっても、「人の生きていくこと」を重ね合わせて、人は涙とともに生きていくのだと瞑目せざるを得なくなる。

<今回は写真の掲載はしないことにします>