日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

マニラ空港の記憶と新宿西口通路と

2014-12-21 21:27:22 | 自然

新宿駅西口からオフィスへ向かうときに、超高層街を通り抜ける地下通路を通って中央公園に向かうことが多い。この通り道は、嘗て何がしかの都市景観デザイン賞を取ったなかなかのものだった。
車道を挟んで右手が北側で壁や天井が濃いグレーで覆われていたが、白色に改修されて明るくなり、「動く歩道」があって歩くと浮き浮きしてくる。左手の南側は現在改修工事中。その工事中の薄暗い通路を時折通りながら考えることがある。

既に35年ほど前になるが、鑿井の機器(クレーンやスクリーンなど)を輸出し技術指導をしていた従兄の会社の支所がフィリピンのマニラにあった。
ある日、突然従兄から電話をもらった。緊急事態があってマニラに行くことになったが、母を連れて一緒に行かないか!というものだった。急遽母と僕のパスポートを申請し、その日の朝横浜の産業貿易センターに立ち寄って受け取り、羽田からマニラに向かった。母はもとより40歳になった僕の初めての海外旅行だった。

この旅は何年経っても忘れがたいが、赤紙で召集された父がフィリピン本島(ルソン島)のモンタルバンという処で昭和20年の6月に戦死、戦死した場所も状況も不明、遺骨もないまま生地長崎の、長崎地方世話部長名義で、死亡報告書が送付されたことを、従兄はずっと気にしてくれていたのだ。
このことも含めて僕は2007年に「生きること」と題して残された育児日誌をベースにして書き連ねた23編のエッセイをこのブログに記載したことがあり、読んで下さった方が沢山いた。

本稿ではそれには触れないが、訪ねたフィリピンはマルコス大統領の時代、イメルダ夫人によるプロジェクトの建物に火災がおきたことなどが報じられたりした。従兄はマニラホテルに部屋を取ってくれ、しどろもどろの英語で朝食の注文をしたときのやり取りと、えっそんなもの食べるのという従業員の驚く笑顔がよみがえり、何となくため息が出たりする。

一緒に行くか!といわれて同行した従兄と役人との駆け引きなど思い出は尽きないが、従兄は支所の所員の運転する車でモンタルバンに僕たちを案内してくれた。
数日後の帰国、入国時の蒸暑い様に南国に来たことを感じたが、マニラ空国の出国の為のスペースの薄暗い空間。そして通関する人たちが並んでいる中で、たむろしていた男の中の一人が僕達に近寄ってきて、場所をとってやるのでチップが欲しいと手を出すそのさまと、そこの薄暗い様が新宿西口の通路を歩くときに、何故か思い浮かぶのだ。