日々・from an architect

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カザルスホールの閉館とお茶の水スクエヤA館問題(2)三菱一号館とリヨン大聖堂へ

2010-01-24 15:30:48 | 建築・風景

建築学会の機関誌「建築雑誌」2010年1月号の特集は「検証・三菱一号館再現」である。五十嵐太郎に代わってこの号から編集長になった早稲田大学理工学術院建築学科準教授、若き建築史の研究者中谷礼仁の問題提起第一号である。
興味深い特集でまず目に付いたのは、レプリカや復原、復元という言葉ではなく、一号館については再現という言い方を主としたことだ。コーディネート役を担った内田祥士東洋大学教授と後藤治工学院大学教授の、「再現は是か非か」というテーマを解き起こすときに、復元ではなく再現という言い方をすることによってこの課題の論点が明快になるとの二人の判断である。

この特集では、言葉の使い方の問題も含めて意見が錯綜していて考えさせられるが、無論一号館プロジェクト(超高層棟新築も含めて)に対して疑念を述べる強い意見もあり、この特集のどの論考も興味深い。

読み進める中で、ふと眼にとまった頴原澄子(九州産業大学建築学科講師)のイギリスにおける再現に類する行為の批判の系譜を辿る「The Gothic Revival」が面白い。18世紀からから20世紀に懸けてゴシック建築の再現についての試行錯誤を繰り返した事例の報告だ。「再現・レプリカ」問題が歴史を経ても簡単に答えの出ない命題である事が示唆されている。
お茶の水スクエヤ問題は、現在(いま)の時代の僕たちに新たな課題を含めてこの命題を突きつけているのだと思い、ちょっと戸惑う。
頴原さんは東大鈴木博之研のOGで、僕は頴原さんの院生時から面識があり、優れものの系譜が継承されるのだと別の感慨もあって興味深く読んだものだ。

三菱一号館については別項で考えてみたいが、東京駅の復元作業を率いている田原幸夫の「<つくり直し>という行為についての私見」という論考のなかで、`免震レトロフィット`について、「免震装置で建築を大地から切り離すというシステムは、建築と大地の関係を根本的に変えてしまうものでもある」という指摘に眼を見張った。
田原さんとは長い付き合いになるが、彼がこのフレーズの続きに、`事態は更に複雑化している`と述べているように、更に興味深い新たな課題を突きつけられたような気がする。

カザルスホールとお茶の水スクエヤA館の問題の先般の論争の中である建築家が、主婦の友社旧館のレプリカ問題について、このレプリカ?(ともいえないか?)と一体となった建築を、レプリカという視点で問題するのではなく、建築家磯崎新の作品として考えたらどうか!と指摘した。確かに旧館の外壁面の色を変えた門型のフレームと、カザルスホール棟の最上階の黄茶色に塗ったオーダー(柱)との組み合わせに作品としての整合性を見てとることができる。ポストモダンだ。
だが磯崎は「都市の記憶装置」という概念でつくったともいっている。これでは堂々巡りだ。でもまあ絶え間なく論考すべき命題ではある。

ホール自体が楽器だという指摘がある。ことにオルガンは単なる楽器ではなくホールと一体となって豊かな響きを醸し出す。そのカザルスホールをなくしていいのか!と書きながら、20年ほど前のリヨン大聖堂での一時を思い起こした。画家や蕎麦やの主など10人ほどとパリへ行き、リヨンへ足を伸ばしたのだ。

大体僕は、どこへ誰と行ってもペースが合わなくなり、夕食を一緒に食べる場所と時間だけを決めてふらふらと歩き回ることになってしまう。
このときもホットドックを頬張りながら肌色や黄色に塗られ、窓を白や原色で縁取った建築群の連なる魅力的な旧市街を抜け、高台に建っているリヨン大聖堂(カテドラル)にそっと入った。そして動けなくなった。2時間、ただオルガンの響きに身をゆだねた。練習をしている奏者と僕の二人だけの至福の時間。今僕のなかにそのときの感動が駆け巡っている。

<いい写真が見つからない。これはリヨン旧市街の町並みだ(と思う!)。大聖堂の写真が出てこない>