日々・from an architect

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四国建築旅(9) 建築家高橋晶子を生んだ「坂本龍馬記念館」

2009-10-15 13:12:28 | 建築・風景

坂本龍馬には`おりよう(お龍)`と言う妻がいた。幕末のあの時代を生きぬいたとも言える`おりよう`の生涯も龍馬の存在とともに僕の心を揺さぶる。

高知市の桂浜を眼下に望む高台に、「高知県立坂本龍馬記念館」が建っている。
その地階の展示室に龍馬が姉の乙女に書いた手紙(複製)が展示されていて、そこには鹿児島(薩摩)に新婚旅行に言った様子が記されている。なんと言うこともない人生だ、ということが書かれているのが気になる。並列しておりょうの生涯を紹介するパネルが展示されているのだ。

寺田屋で働いていて後に寺田屋の幼女になったおりょうは、風呂に入っていて幕吏が寺田屋を囲んでいるのに気がつき、風呂を飛び出して龍馬に知らせて逃げる手助けをした。世に言う寺田屋事件(1866)だ。その傷を癒すために小松帯刀に誘われて薩摩に出向いたといわれる。日本初の新婚旅行だと面白く紹介されている。

龍馬とおりょうが知り合ったのが文久2年(1862年)、龍馬が勝海舟に弟子入りした年だ。その4年後に二人は一緒になるが、龍馬32歳でおりょうは27歳、その翌年龍馬は京都の近江屋で暗殺される。その後、京都にいにくくなったおりょうは東京に出て横須賀の商人西村松兵衛と再婚し66歳で酒におぼれながら亡くなる。
龍馬の実家では、おりょうは龍馬と二人の間だけの関係だと、二人の関係する書簡など全て焼いてしまったと言う。僕は記念館という「建築」を見に行ったのだが、おりょうの存在をしり、時代は人の生涯をつくるが、翻弄もするのだと胸がふさがった。

「高知県立坂本龍馬記念館」は建築家高橋晶子が東工大での同僚高橋寛のサポートを得て建てた。
1988年にコンペが行われ、475点に及ぶ応募作の中から当時30歳だった高橋晶子の作品が選ばれたのだ。京都大学から東京工業大学建築学科のドクターコースを経て、篠原一男アトリエで建築を学んだ高橋晶子のデビュー作といってもいい。
このコンペは建築界に衝撃を与えた。
龍馬の足跡を検証し記念館をつくる。龍馬を建築としてどう捉え、表現するのか。

その回答の一つがこの記念館なのだ。
赤と青の原色で塗装された壁面とカーテンウオールでくるまれた鉄骨造の長方形のBOXが海に向って突き出ている。時代の先端を生きた海に縁のある龍馬を、1988年の先端技術と意匠で表現した。
竣工後18年を経たもののメンテナンスがなされていて、海に面しての鉄骨造の建築は現在(いま)でも健在、大勢の人で溢れている。土佐の高知での龍馬の人気によるのかもしれないがうれしいことだ。

高橋晶子さんは高橋寛さんとパートナーを組み、横浜馬車道通りの奥、昭和11年に建てられたアールデコの面影のある大津ビルにオフィスを構えている。
僕はいつの頃からか晶子さんと知りあって、時折展覧会などで会うと高橋寛さんとも一緒に記念写真を撮ったりする。
シャープだがフンワリとした風情のある高橋晶子という女流建築家の理念は、この趣のある建築空間で建築構想を紡ぎだしていることと関係があるのか?と聞きたいが、まだそのチャンスがない。
高橋晶子さんは現在武蔵野美術大学の教授、若手を育てながら刺激的な建築をつくり続けている。
「龍馬」が建築家高橋晶子を生み出したのだ。


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2 コメント

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しょっちゅう (m)
2009-10-16 12:50:58
前を通ってますが一度も(ギャラリーすら)入ったことがありません。 大津ビル。
向かいの神奈川県立歴史博物館の階段から勢いよく駆け下りれば嫌でも入っちゃいそうですがね(笑)
大津ギャラリーなど (penkou)
2009-10-20 10:28:06
mさん
大津ビルのエントランス、mさん好みの空間だと思いますし、地階にこじんまりした趣のあるギャラリーがあって、JIA神奈川では時折「かもめの夜話」というトークをやったりします。展覧会をやる美術家がいたりもします。
通りがかった時、何かやっていたら覗いてみることをお勧めします。なかなかいいですよ!

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