市庁舎は、ブリッジのメイン出入り口に鋭角な大きな庇が飛び出している。設計者のこの建築群へのトライを宣言しているようだ。そこから入り総務課に立ち寄った。
課長に挨拶をし、名刺を交換した。課長はDOCOMOMOに選定されたことを知っており、選定した旨送付した書類には目を通したとのことだ。ホッとする。
見学と撮影許可を得ながら聞くと、竣工当初は、市民は外部の階段を上った広いブリッジから各建築に出入りをしたのだという。一階は倉庫とか会議室などだった。しかしバリアフリー・ユニバーサルデザインが叫ばれる現在(いま)の時代、ブリッジを歩く人はいない。
この市庁舎はセンターコア構成で、中央に階段室や設備コア(トイレや湯沸し室など)が耐力壁で構成され、柱から弥次郎兵衛のように両サイドに伸びた梁の先端を、コンクリートが埋め込まれたH鋼が支えている。
この明快な構造構成にこだわった増田は、コンクリート打ち放しの階段室の壁にも梁を少しだけ出っ張らせてその構成を見せている。
何か懐かしさを感じるのは、その見せ方が日本の建築界を躍動させた60年代というモダニズムの時代を表現しているからなのだろう。
市庁舎の議場を見せてもらった。どの市庁舎(或いは県庁舎)を訪ねても、議場の空間は面白いのだ。
傍聴席と議場の間の打ち放し壁のバランスが良くシンプルで気持ちがいい。背後に見える弥次郎兵衛梁構成の様が鮮明だ。
議場に入ってきた職員に、この庁舎は使いいいですか?と野暮な質問をした。この時代の建築を見ると壊されるのではないかと気になって仕方がないからだ。
中年の職員は、ウーン、ここに来てからずっとこの建物で仕事をしているし、そう聴かれると使いいいともいえないが、そんなこと考えたことなかったなあという。まあ合格か!
加藤さんはこう述べている。
「市民会館と庁舎、老人福祉センターと文化会館はそれぞれ有機的なつながりをもたせているが、実は2箇所の間に、議会棟、教育委員会棟など行政センターが計画されており、もしそれが実現していれば、市民会館から文化会館まで面的な広がりを持つ行政核として、さながらチャンティガール(ル・コルビュジエ:インドの都市)のような小都市が形成されるはずだった」。
増田友也は京都大学キャンパスに、同じような京大会館構想を練ったが果たせなかった。鳴門でも増田の建築家としての想いは果たせなかったかもしれないが、その一端のブリッジが残っているし、20の建築がまだ存在している。
釧路市が毛綱毅嚝建築のガイドブックをつくり、市のステータスとして市民や観光客に建築と建築家の存在をアッピールしているが、阿波踊り鳴門市も増田友也の建築群に目を向けてはもらえないものか。加藤さんは本気で鳴門の増田友也建築マップを作ろうかといっている。
隣接している消防署が耐震上耐えられなくなり、防災拠点として建て替えるという。屋上に魅力的な円形の塔があり、お願いして屋上に上げてもらって撮影した。庁舎と市の様子が一望できる。
藤本さんが、何か特産品を販売しているような所はないかと聞いたら、あそこに産業会館があると入り口まで案内してくれた親切な市の女性職員に恐縮し、すっかり鳴門フアンなってしまった。
僕は先ず自分が着るつもりの鳴門の渦をあしらったTシャツを手に取った。妻君には藍で染色したハンカチ、娘には扇子とハンカチが組まれた品のいいセットを買った。四国のお土産はこれだけ。藤本さんはもう少しお金を張ったみたいだ。
さて、腹が減った。なにせ3時間も市庁舎近辺をうろついていたことになる。昼飯はうどんだ。讃岐か鳴門うどん。これも藤本さんが職員に美味しいというお店を聞き出してレンタカーを走らせた。僕はついていくだけ。
<写真 上段:議堂 下段:市民会館 鉄鋼造の有様が見えて興味深い>
ところで、クリシー人民会館などかつてはかなりひどい状態だった時期もあるようですが、プルーヴェが手がけた仮設的なものを含む工業化建築の多くは文化省によって文化財に登録され、保存のための修復が行われています。
鳴門市民会館も市庁舎も「仮設的な工業化建築」のようにみえてしまう建物で、今後もながく存続が望まれ続けるかどうかは確かでないだけに、今回のDOCOMOMO選定は、たとえ最初の一歩のようなものだとしても、重要な意義をもつと思います。