田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

春霞いよいよ濃くなる真昼間の故郷の景色大和と思へ  麻屋与志夫

2016-12-05 22:11:33 | 随筆
大和と思へ 随筆

 早春の朝まだき、散歩にでる。JR鹿沼駅を眼交いにみて左折。コスモ石油の角をさらに左折する。風景がふいにひらけて、野趣豊かとなる。遠景にいままさに木の芽がふく雑木林が見えてくる。大和は立野を想わせる、おだやかなもりあがりをみせる丘稜地帯の林は、薄淡い茶緑色にけぶるようなつらなりをみせている。
 商用で若いころ毎月おとずれていた、奈良県生駒郡三郷村立野のあたりは、還暦をすぎてにわかに万葉集を読みだしたわたしには、懐かしい土地となっている。万葉の歌に青春の初めの季節から馴染んでいたなら、と悔やまれる。あの日々にもどることはできないが、立野をふくめた大和の地を再訪してみたいと思う。
 それまでは、故郷鹿沼の野を歩こうと思い立っての彷徨であった。ところが、故郷の野にでてみると、記憶にある立野の近郊の風景とさほどかわらない素朴な田園風景がひらけているのを知った。
 ただ、残念ながら歌枕としての地名はなしてはいない。文人がいなかった。歴史にのこるような歌人、俳人との交流もなかった。
 土地のひとだけの自然、そして地名ではあるが、ここちよい万葉の歌枕のような呼び名の山や林や川がいたるにある。自然に基づいて名付けられた地名は、言霊をやどしている。おりから、梅の花びらがちらほらと散っている。笹鳴きのチュッチュッというさえずりが、鶯らしく「法法華経」と聞こえてくるようになった。
 地図を片手にやさしいひびきのある地名をたしかめ、鳥の鳴き声に耳を傾け、花を眺め、ひとり歩きを楽しんでいる。
 春霞いよいよ濃くなる真昼間の何も見えねば大和と思へ
 前川佐美雄の絶唱だ。下の句をもじって、……春霞いよいよ濃くなる真昼間の故郷の景色大和と思へ……大和と思へ、とお題目のようにとなえつつ歩を進める。
 畦道に踏みこむ。おもいがけず、丘の裾を小川が流れていた。いまどきめずらしい、人の手の加えられていない流れだ。つつましやかな川音に佇む。自然と朽ちたような樹木が横たわっている。腰をおろす。ひび割れた朽木色がいい。苔むした樹肌もいい。倒木に腰をおろしたわたしの影が川面に映っている。せせらぎは、JR日光線に沿って流れている。両側の土手から枯れたすすきが<立ちよそいたる>、とおもわず万葉調で表現したいように流れを飾りたてている。小川におおいかぶさるすすきや枯れ草のなかで小鳥が鳴いている。
 風のそよぎにはすでに春の風情がある。ここは武子川の上流である。
 さらに北に向かって歩き出せば、前方に古賀志山が迫ってくる。東京から、この山がすきで、スケッチに足しげくきていた友人とはいまは、音信が途絶えている。山はごつごつとした岩肌を露呈している。そのうち新芽におおわれてやさしい表情をみせることだろう。
 人とのつきあいは年々うとんじられる。あれほど饒舌に闘わした芸術論議もいまは、むなしくさえ思われる。還暦を過ぎてから、人とのつきあいが億劫になった。まさに、偏屈ジジイへの坂道をころがりおちるような日々である。
 この年頃になって、故郷の自然と出会ったことは、幸いだった。このところむきになって、野を歩いている。もうじき鹿沼の里も桜の季節。朝の散歩がさらに楽しくなる。

「かぬま詩草」への原稿。旧作に手をいれました。



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