ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『昭和教育史の証言 』- 9 ( さとみみのる氏の寝言 )

2021-01-12 23:21:58 | 徒然の記

 《   4.  さとみみのる・・ 「 東井義雄における聖戦の意味 」》

 前回からの続きです。紹介のため再読していますと、読み落としや、早とちりの部分を発見します。91ページの文章がそれです。

  ・このうちなる自然、つまり『いのち』の発見こそは、かって『赤色がかった』時代を持つ東井に、決定的な回心の契機をもたらしたのであった。

 つまり東井氏は、久野氏の表現を使えば、逆転向した左翼教師の一人だったことになります。エロチシズムまで持ち出し、何としてでも東井氏を酷評せずにおれないさつみ氏の心情がこれで少し理解できました。

  ・ちなみに私は思うのであるが、男不在の戦時下の農村は、父性的な教育理念が浸潤しにくい場と化していたのではなかろうか。
 
  ・少なくとも教育に対する母親の影響が、かってないほど比重を増しつつあったことは、東井の著書からも推察されるところである。
 
  ・東井自身その思想的感覚が際立って女性的であることは、既に見た通りである。
  ・前線に散華する父親のイメージは、決して東井のものではない。彼の教育実践は、体質的には、むしろ銃後の母親のそれであろう。
 
 こうして氏は、東井氏が書いた「鮭の詩」を紹介します。長いので省略しますが、どこまでも川を遡り、傷つき、疲れ果て、やっと卵を産んだかと思うと、力尽きて死んでしまう鮭の生涯です。
 
 冒頭に紹介された農村の母親の話もそうでしたが、東井氏の著書には、母親についての文章が多いのかもしれません。。息子たちへ戦場へ送り、乃木大将の戦死した子息のことを語る母の姿でした。
 
 祖国の危機存亡のとき、教育者が前線の父親のことを語ろうと、銃後の母について述べようと、そこにどんな違いがあるのでしょう。大事なのは、「永遠のいのち」につながるもののため、身を投げ打って戦う愛国心です。
 
  海ゆかば 水漬く屍
  山ゆかば 草むす屍
  大君の 辺にこそ死なめ
  顧みはせじ
 
 これは海軍 ( 海上自衛隊  ) が、大事な式典の時演奏する「海ゆかば」の歌詞です。元歌は大伴家持、作曲したのは信時潔氏で、「君が代」に次ぐ「第二の国歌」とも呼ばれているそうです。海や山で屍 ( かばね  ) を晒しても、国を守り、天皇のため死ぬのなら本望だという、兵士の心を歌ったものです。
 
 大友家持は、今から約1200年前の奈良時代の公卿、歌人で、大伴旅人の子です。ウィキペディアによりますと、『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大友氏は大和朝廷以来の武門の家だそうです。
 
 この場合の大君 ( おおきみ ) は個別のお方であるとともに、国民の敬愛の中心にある歴代天皇のことでもあります。兵士たちは、天皇を通して父祖の地である国を思い、家族を思って戦いました。歌われているのは、自分を超えた『大いなる命』と繋がっているという思想です。
 
 崇高な愛国心を感じ取りますが、さとみ氏はこのような兵士の姿も低俗なエロチシズム論で説明するのでしょうか。

  ・東井が戦ったその相手とは、いったいなんであろうか。実体的には西欧的近代であり、その本質をなす人間主義、個人主義であったと思われるが、より内面に立ち入ってみれば、東井のうちなる呪詛の対象は、子の成熟という事実そのものでなかったかと思われる。

 氏の説明によると東井氏が戦ったのは、西欧的近代主義、人間主義、個人主義だそうです。引用された文章からは読み取れませんでしたが、あるいは、そうした叙述があったのでしょうか。

  ・西欧的近代主義は、非常な刃で、母と子の肉感的な結合を断ち切るであろう。母親は成長した息子が、自分とは違った存在になっていくことに耐えることができない。

  ・母親は、悲嘆の声をあげる。内密な強制感を破壊するこの凶暴な力、まさにこれこそが、東井が全存在をかけて排撃すべき当のものだったのである。

 繰り返しますが、引用された詩や文章からは読み取れません。国のために戦う息子を語る母親の言葉を、普通に読む限り、氏の解釈は出てきません。

 ・西欧的近代主義は、非常な刃で、母と子の肉感的な結合を断ち切るであろう。

 さとみ氏は、この言葉で何が言いたいのでしょう。幕末以来アジア諸国を武力で侵略した欧米列強のことを、「西欧的近代主義」とでも言っているのでしょうか。

 ・より内面に立ち入ってみれば、東井のうちなる呪詛の対象は、子の成熟という事実そのものでなかったかと思われる。

 東井氏の文章のどこに「呪詛」という忌まわしいものを感じるのか、兵士となって国に殉じる青年の姿のどこに呪詛しているというのか。読者不在の文章を書き、自分の言いたいことだけを言う反日学者・・、私には里見氏が不可解なままです。

 息子たちに紹介する意味もない、寝言としか受け取れません。理解する気もありませんので、ここ107ページで「戦前編」を終わりとします。

 次回から、「戦中編」の紹介になります。

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『昭和教育史の証言 』- 8 ( さとみみのる・東井義雄両氏の証言 )

2021-01-12 15:58:36 | 徒然の記

 《   4.  さとみみのる氏・・ 「 東井義雄における聖戦の意味 」》

 里見実と漢字の名前があるのに、わざわざ読みにくい仮名書きにするところからして、変わった学者なのでしょう。ネットで検索した略歴を、紹介します。

 「昭和11年東京生まれ、85才」「東大大学院修了」

 「國學院大学名誉教授」「第三世界の民衆文化運動の翻訳や、紹介もしている」

 氏の証言は教育家である東井義雄氏への批判で終始しますので、東井氏の略歴も調べました。

 「明治45年兵庫県生まれ、 平成3年没、79才」

 「日本の教育者、浄土真宗僧侶」「昭和7年、姫路師範学校卒」

 「小学校教師として奉職、多くの著作を著す」

 東井氏が左翼教師でなく愛国教師の一人だったため、気に入らなかったのでしょうか。里見氏の名前も東井氏の名前も今回初めて知りましたので、なぜ氏が東井氏を批判するのか、詳しい事情を知りません。

 違和感のある証言なので、あえて紹介する気になりました。「ねこ庭」を訪問された方々は、それぞれでご賢察ください。

  ・大いなる戰の最中にあって、日ごとに深しめられる痛切の思い。それは、私が生きているということ。

  ・私の命をいただいているということの、ただごとでなさの思いである。誠にこれは、ただごとではない。

  ・しかしなんという、鈍感さであったのだろうか。生まれて、30年。私は、生きることが当たり前のことであるかのように生きた。当然、生きる権利があるかのように生きた。

 さとみ氏の証言は、この東井氏の著書の引用で始まりました。

  ・東井義雄『学童の臣民感覚』の、冒頭の一節である。この書物が刊行されたのは、昭和19年。おりしも戦争は、破局を迎えつつあった。

  ・自分の命が、自分を超えた『大いなる命』と繋がっているという思想は、この書物の主役をなすものと言ってよい。そしてこの命の自覚をもたらしたものは、なんと言っても戦争と、その中での死の想念であったと思われる。

 昭和19年といえば、私が満洲ハイラルの無号地で生まれた年です。すぐに敗戦となり引き揚げて来ましたが、その年にこのような本が出版されていたと知りますと、感慨深いものがあります。

 里見氏が引用する東井氏の説明を、そのまま紹介します。( 略歴にある通り、東井氏は寺の住職でした。)

  ・私の村に、〇〇〇〇という婦人がある。農を業としている。

  ・支那事変では、長男をお国に捧げた。その婦人が、私にしみじみと語ったことがあった。

  ・乃木大将さんは、二人の息子さんを戦死させなさった。日露の戦争では、たくさんの兵隊さんが戦死されて、お国を守ってくださった。そのおかげでわしらは、今まで生きさせてもらっとるのに、なんとも思わんとおりました。

  ・そしたら息子が死んで、ああわしは、なんというもったいない恩知らずだったろうかと、初めて気づきました。

  ( 中 略  )

  ・その夫人の次男は、今また、死んだ父と戦死した兄の法名と、母の写真を胸につけて大陸で戦っている。

  ・腕白者を長い間親切にしていただいて・・と、と彼は、鎮守の森の庭で挨拶をして征った。胸にある父と兄の法名は、私が書いたものであることを思い、彼が言った腕白者を長い間という挨拶を思い、私は胸が迫った。

  ・私が法名を渡した時、これで生きても死んでも大安心ですと、彼は静かに笑った。

 戦前の日本には、こういう母親と僧侶のような人物が日本のあちこちにいたと、教えられました。そしてここから、さとみ氏の東井氏批判が始まります。

  ・殉国の死は、少なくとも建前としては少年の夢であった。この時期の東井の実践も、おもむくところは『死にがい』の追求であった。

  ・死とは何か、それは民族の本念の『いのち』への回帰とみえた。死の中に彼は、大いなる生をみる。死が証しだてる『無窮のいのち』、それに連なって生きることの喜びを東井はうたいあげてやまない。

 自分の命が、ご先祖以来の『無窮のいのち』に繋がっているという思いは、私たちの中にある自然な気持です。「個人は個人でありながら普遍の存在であり、遡れば祖先に繋がり、歴史に繋がっている。」と、以前本で読みました。東井氏の思いは日本人の心とも言え、共感はあっても違和感を覚えません。

 しかし、里見氏は違います。

  ・戦時期の東井の思想を一語に集約すれば、それは一種のエロチシズムであったと言っても良いと思う。

  ・まことにバタイユが言うようにエロチシズムとは、死にさえも至る生の謳歌なのだ。

  ・魂は自我を離れ、愛するものと一体となる。この没我を完成するものは死であり、死はエロスの究極の形となる。

 久野収氏もいい加減愚かな左翼でしたが、さとみ氏も負けず劣らずの左翼です。大体こんなところで「エロチシズム」などという場違いな言葉が、どうして出てくるのでしょう。辞書で調べみたら、次のように説明しています。

  ・エロチシズムとは、性愛・ 情欲をよび起こす性質。

  ・芸術作品などでするそのような傾向の表現。例えば、 エロチシズムを漂わせる裸婦像など。

 氏は違った意味で使っているのでしょうが、私のような一般庶民の理解は辞書の説明と同じ理解です。東井氏の書を読みエロチシズムを連想するというのは、さとみ氏の人格が歪んでいるからです。彼が引用しているバタイユを、ネットで検索してみました。

  ・ジュルジュ・バタイユ ( 明治30年 ~ 昭和37 )

  ・フランスの哲学者、思想家、作家。

  ・研究分野は、形而上学、認識論、死・性の哲学、エロチシズム

 今の日本もそうですが、野心を抱く学者は自分のおかしな意見の権威づけに、欧米の著名人の論を持ち出します。すると世間はそのおかしな意見を、たちまち素晴らしいものであるかのように称賛します。今でさえそうですから、本の出版された昭和51年頃はさらに欧米人が有難がられていたのでしょう。

  ・この没我を完成するものは、死であり、死はエロスの究極の形となる

 バタイユの文章を読めば、こんな意見もあるのでしょうが、東井氏への批判に使うとすれば、「冒涜」ではないでしょうか。

 東井氏と関係のない自分ですが、里見氏の批評に憤りを覚えます。氏のような人物は日本にとって「獅子身中の虫」で「駆除すべき害虫」でないかと思います。大事な息子と可愛い孫たちのため、次回に反論を試みようと思います。

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『 昭和教育史の証言』 - 7 ( 続・久野収氏の証言 )

2021-01-11 15:59:38 | 徒然の記

 「 ( 逆 ) 転向とは、日本人の体質を無意識的に支配しているナショナリズムへの回帰だと思う。」

 久野氏以外に、これほどまっすぐに、核心をついた意見をいう学者に出会ったことがありません。「ナショナリズム」という左翼用語を、「自分の住んでいる国を大切にする心」、或いは「愛国心」と言い換えれば、そのまま田中英道氏の意見です。

  ・大正9年から昭和5年にかけて、初期の共産主義への転向の仕方が、のちに過激ナショナリズムへの逆転向を生み出す深い素地を持っていたと思うんです。

  ・当時の左翼への転向と、のちの左翼からの逆転向とは表裏であって、最初の転向が大変急ぎ足で過激化した結果、今度は左翼からナショナリズムへの逆転向が、急足で、過激化したと言えるでしょう。

 息子たちに分かりやすく言い換えますと、次のようになります。

 「自分たちの中にご先祖さまのDNAがあることを検証せず、初期の共産主義への転向があまりに単純で過激だったから、逆転向も、過激な『先祖返り』になる。

 従って、次のような言い訳になります。

  ・客観的状況の急迫が革命を生む、状況が革命を必然にする。( 状況がまだないのに  ) 状況に遅れてはならないという、状況信仰が強かった。

 この良い例が、かってのクオリティー・ペーパーで、現在はトイレット・ペーパーに成り下がった朝日新聞です。戦前の同社は「皇軍の聖戦」「鬼畜米英」「万邦無比のわが国体」と、国民の先頭に立ち、戦意高揚の進軍ラッパを吹き鳴らしたのに、敗戦と同時に転向しました。

 深い検討もせず時の権力だったGHQに迎合し、極端な転向をしたのは、「状況に遅れてはならないという、状況信仰が強かった。」と、氏の分析を応用するとこうなります。

 ですから状況信仰で動いている同社は、状況が変われば過激な逆転向をするという預言になります。敗戦後の同社の転向は、「バスに乗り遅れるな」という状況信仰に過ぎないと、まさに本質的な分析という気がします。

 「ねこ庭」では氏の意見を、愚かなマルキストの詭弁として受け止めますが、氏はそう考えていません。自分以外のレベルの低いマルキストたちへの訓戒と、得意になり自己検証に繋いでいません。つまりこれが私のいう、「バカと天才は紙一重」の意味です。

  ・家族、会社、学校、国家といった集団のエゴイズム、それへの帰属意識の深さ、すなわち集団エゴイズムへの、忠誠感情の深さこそ、近代日本をこれだけに仕立て上げた原理で、重なり合うエゴイズムを最終的に統一つするエゴイズムこそ、明治以来の国家主義であり、天皇信仰はその頂点への忠誠の表現であった。

 頑迷固陋な反日左翼らしく分析をしても素直に語れず、「エゴイズム」という余計な言葉を入れます。家族愛、会社愛、学校、国家への愛を、「エゴイズム」という卑しい言葉でしか語れないところに左翼学者の限界があります。

 愛の中に「エゴイズム 」が混じるとしても、小さな比重しかなく、日本人の大半はこの「愛」のため、自分の命を捧げて悔いませんでした。

  ・客観的状況の急迫が革命を生む、状況が革命を必然にする。状況に遅れてはならないという、状況信仰が強かった。

 客観的状況がなかったにも関わらず、「状況に遅れてはならない」という状況信仰が左翼主義者の過激な転向を生むと、左翼学者に関する氏の意見は傾注に値する卓見です。

 しかし「紙一重の天才」である氏は、結局馬鹿な詭弁を述べます。

  ・戦争に協力した左翼インテリゲンチャたちは、負けると思わず踊ったのでないかと戦後の研究者たちが批判するけれど、実はそうじゃない。

  ・たとえば僕たちのように戦争の敗北を前もって認識していた人々が、尾崎秀実をはじめ、かなりいた。

  ・彼らの中にも、日本の負けを予想していた連中がいたのではないか。しかし彼らは、日本が負ける場合でも日本のために努力しよう、日本の国民と一緒にいくところまで行こうと、考えていたのではないか。

  ・われわれのうちにある日本が、勝つか負けるかの境目に来ているのだから、万一負ける場合でも、この国家主義に忠誠を捧げる国民とともに、運命をともにしようと考えていた。

 氏の意見が正しいのであれば、反日左翼の学者たちは、なぜ自分の反省を棚に上げ、戦前の政府と国民を悪様に批判攻撃するのでしょう。恥を知らない氏の詭弁には、卑しい学者根性が透けて見えます。

  ・この日本への帰属意識と忠誠心に比べると、自分が信じ込んでいた自由主義の世界意識や、マルクス主義のインターナショナリズムは、底の浅い、着たり脱いだりできる洋服に過ぎなかったと自覚したのではないか。

  ・そうした心情が、僕は、小、中学校の教師の末端までを支えていたと思うのです。

 祖国滅亡の瀬戸際に立った時愛国者に変わった小、中学校の教師のたちは、転向したのでなく「先祖返り」をしたのだと氏が言います。「先祖返り」とは、マルクス主義のように「着たり脱いだりする洋服」とは違います。ご先祖様から受け継いだDNAへ戻るというのですから、この瞬間にマルクス主義は消えて無くなるのです。

 著名な学者だとしても、「先祖返り」の言葉の意味を正しく使わない限り、氏は国民に軽蔑されるしかありません。

  ・戦後になっても逆転向に現れた日本的体質の問題は、本当に検討されていないし、その根っこにあるナショナルエゴイズムの問題も当然解決されていない。

 氏の指摘は戦後の日本にとって、左翼・保守を超えた国民的課題ですが、喋っている当人が「先祖返り」の意味を正しく理解していないのでは話になりません。

 反日左翼の学者だけでなく頑迷な保守の学者が、「先祖返り」の意味を本当に検討すればどれだけ日本にとって有益だったかと、残念でなりません。

 朝日新聞やNHK、共同通信社といった反日マスコミが、国論を二分する報道をし続けている現在、日本の学者たちが「日本的体質の問題 ( 先祖返り ) 」を、侃侃諤諤やれば出てくる結論は決まっています。

 「日本への愛に比べると、自分が信じ込んでいた自由主義の世界観や、マルクス主義のインターナショナリズムは、底の浅い、着たり脱いだりできる、洋服に過ぎなかった。」

 頑迷な左翼学者の氏は、こんな結論は述べません。その代わり、未練がましく面白いことを言います。

 「右翼の思想を本当に貫いていけば、新しい左翼の思想がそこから生まれてくるというパラドックスもある。」

 年金生活者で、物忘れをするようになった後期高齢者ですが、私は氏と逆の思考をしています。氏はこの世にいませんので、やがて行くあの世で、次の言葉を手渡そうと思います。

 「左翼の思想を貫いていけば、昔からの保守の思想がそこで再発見されるというパラドックスがある。」

 氏の証言はまだ続きますが、「バカと紙一重の天才」を息子たちに伝えるには、これで十分です。氏の紹介を今回で終わり、次回はさとみみのる氏です。

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『昭和教育史の証言』 - 6 ( 久野収氏の証言)

2021-01-11 00:56:10 | 徒然の記

 「戦前編」の証言者で残っているのは、次の5氏です。

  1. 菅忠道氏  「明治42年東京生まれ、昭和54年70才で没」「児童文学研究家」

  2. 鈴木正之氏 「明治42年北海道生まれ、」「象潟町を公害から守る会」

  3. 久野収氏  「明治43年大阪生まれ、平成11年89才で没」「哲学者・評論家」

  4. さとみみのる氏「昭和11年東京生まれ、東大大学院卒業」「國學院大学名誉教授」

  5. 師井恒男氏    「明治44年山口生まれ、」「教育者」

 どの人物の証言も、戦前の弾圧を知るマルキストの話として貴重なものです。しかし限られた時間とスペースと、息子たちや「ねこ庭」を訪問される方々の忍耐を考えると、あと2名が限界のような気がいたします。そこで最も参考になるだろうと、勝手に決めた久野収、さとみみのるの2氏について、紹介します。

《   3.  久野収氏・・ 「転向の内生的意味について」》

 軍備放棄をした日本は、国民が組織しゲリラ戦で戦えと言う残酷な氏の意見は、先に紹介しました。

  ・しぶしぶであっても国をあけわたし、奴隷になっても、生命、財産、国土を温存するのが、いちばん被害が少くてすむ方法であることはいうまでもありません。

  ・防衛力をもたずに丸はだかでいる方が、屈辱や強制や占領を度外視すれば、マイナスやロスが少いのは明らかである。」

 信じられないほどの愚論も、先日紹介しました。「バカと天才は紙一重」という言葉がありますが、氏がその見本です。それが次の「転向の内生的意味について」という証言に集約されています。なんとかして、うまく紹介できないかと考えました。

  ・最初転向というのは、マルクス主義左翼への転向を意味していた。それが次に、支配権力の強制に基づく左翼から右翼への逆転向が、転向と呼ばれるようになった。

  ・詳しく述べるスペースがないので、ここでは、左翼からナショナリズムへの逆転向を、転向と呼んで、話を進めていく。

 なるほどそんなことかと思いますが、転向、逆転向について、これは重要な説明です。ゲリラ戦を語る氏を「紙一重の天才」という意味が、理解できると思います。
 
  ・僕は、左翼からナショナリズムへの逆転向は転向だと思っていない。むしろ、『先祖返り』だと思っている。
 
  ・政治的支配層から大衆に至るまで、日本人の体質を無意識的に支配している、ナショナリズムへの回帰だと思う。
 
 氏が言っているのは、私が常々述べている「ご先祖さまのDNA」のことです。もう少し具体的に言いますと、「太陽を中心とする、自然信仰」と、「ご先祖を敬う祖霊信仰」です。
 
 厳しく過酷な大地には、苛酷な一神教が生まれます。戦うことを止めれば死が待っていますから、唯一絶対の神を信じ戦い続けれなければなりません。
 
 美しい四季のある日本では、殺し合いをせずに済む十分な食物がありましたから、海や山、川だけでなく、木にも岩にもご先祖は感謝して生きていました。八百万の神が生まれたのは、日本の自然の穏やかさに由来すると言われています。長い年月をかけ、自然真の中から天照大神が生まれ、天皇の神話が生まれ、人々の敬愛の念が生まれた伝えられています。
 
 西洋かぶれの学者は、日本人の信仰を「アニミズム」と呼ぶ土着型精霊信仰と蔑視します。理屈で練り固めた西洋の一神教が、数段優れたものであるように語ります。しかし日本人の信仰は理屈でなく、感性です。自分を育む自然への感謝、自分を育ててくれる土地への感謝、あるいは、自分を生み育ててくれた親、ご先祖への感謝の念です。
 
 要するにこれが「日本人の体質を無意識的に支配している、ナショナリズム」です。私たちの中には、ご先祖さまからDNAとしてこの感性が伝わっていますので、外来思想であるマルクシズムに馴染まず、無意識のうちにこの感性に戻ります。
 
 久野氏は著名な哲学者で、評論家です。自分では本物のマルキストと思い込んでいますから、左翼特有の難解な言い回しで読者をたぶらかします。「転向の内生的意味について」などと、難しい言葉を使っていますが、中身は私の説明していることです。左翼からナショナリズムへの転向が、「先祖返り」だというのはそういう意味です。
 
 氏は左翼陣営の権威者ですから、62ページから20ページも使って叙述しています。他の証言者は、長くても10ページ程度、短い人は5、6ページですから、特別扱いされているのが分かります。
 
 次回はもう一回だけ、氏の天才的意見を具体的に紹介いたします。
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『 昭和教育史の証言 』- 5 ( 続・山田国廣氏の証言)

2021-01-10 00:29:00 | 徒然の記

 有罪の者は獄へ送られますが、長野県教員赤化事件の結末は、呆気ないと言えば呆気ないもので、研究会の他の主要メンバーは、校長の転任命令により他校へ追放されました。

 彼らはこの弾圧に屈せず、それぞれが転任先で研究会活動を続けようと誓い合います。「一人一人が大地に撒かれる一粒の種となり、革命運動を広げよう」と、まるで岩波書店の発刊の言葉みたいな約束をしています。

 ここで注目しましたのは、警察の一斉検挙を受ける以前の、彼らの慎重な活動方針8項目です。善良な庶民をたぶらかす現在の反日活動家たちの姿と重なるので、紹介せずにおれなくなりました。

  1. 児童や父兄から、敬愛される先生になることを心がける。( あんないい先生がどうしてと、警察が生徒に説明しにくくなる。 )

  2. 天皇批判と戦争反対については、浮き上がった言動で不敬罪や非国民扱いとされないように心がける。

  3. 天皇に対しては教室の内外で批判せず、特に児童に対しては直接話さない。

  4. 児童には日本史を科学的に扱い、神話の非科学性を考えさせることにとどめる。

  5.  兵士の出征の場合日の丸を手に学童が見守るが、直接反対することを慎み、冷静にする。

  6. 平和主義、人道主義の立場から、児童自身に考えさせるようにする。

  7. 天皇制と軍国主義との戦いのためには、当面は組織拡大に力を注ぐしかない。

  8. 力を蓄え、他の組織との共闘を最大の目標とする。

 共産党の活動家たちは歴史的経験を踏まえ、「微笑作戦」「善人作戦」を使います。現在の日本では、似たような作戦で中国共産党や韓国の反日活動家たちまで、潜り込んでいます。よほど本気で警戒しないと、国民は丸め込まれます。

 氏の証言の中で、最も注目したのは次の言葉です。

  ・教労長野支部の犠牲者は転向し、戦争によって打ちひしがれた。

  ・さらには敗戦・占領という屈辱の歴史をたどり、日本の戦闘的民主勢力は弱体化されていったが、支配階級も敗戦の痛撃を受け治安維持法が廃止された。

  ・日本の革命を絶望的にしていた、天皇、軍隊、警察は解体・弱体化された。

  ・だがこの支配階級は、民主勢力の力で倒されたのではない。日本の民主勢力は、自分の力で支配階級を打倒する力は持っていなかった。

  ・それは、国際反ファッショ戦線の力で倒されたものだった。

  ・日本の支配階級は、アメリカ軍の占領下で立ち直り始めたのであった。

  ・夢よもう一度とばかり復活し、天皇、軍隊、警察の力をだんだん蓄えて、支配力を強化した。

 同じ事実を眺めても、立場が異なると意見が違います。これは昭和51年、本の出版当時の山田氏の主張ですが、現在に続く、反日左翼勢力の考えにつながっているのだと思います。

 朝日新聞の論調で行けば、「軍靴の響きがする」「軍国主義の復活だ」となります。

 山田氏を含め、朝日新聞に代表される現在の反日勢力は、愚かとしか言いようがありません。明治・大正以来、彼らの敵は「日本の支配階級」であり、それ以外は見ていません。

 戦後70余年が経ち先の大戦を検討すれば、弱肉強食の国際社会の中でいかに日本が翻弄されてきたか。日本の周囲にどれだけ恐ろしい数の敵国がいるのか、分かって良いはずなのに理解しません。

 氏の証言の最後の言葉を紹介しますが、「馬鹿に付ける薬はない」という見本です。こんなことばかり言っているから、彼らは「日本の支配階級」と一緒に、「日本の被支配階級」も滅ぼしてしまいます。他国の支配下になれば、日本という国が無くなってしまうという常識が欠落しています。

  ・一方、日本の民主勢力は団結ということができず、分化・対立はいよいよ深まるばかりで、団結指導にあたる前衛党を見失ってしまった。

 昭和51年の時点でも、反日左翼勢力は分化・対立をしていたということです。日本の文化と伝統に合わないマルクス主義は、庶民から見れば馴染めない思想です。天皇陛下を殺したり、外国の力と組んで日本の軍人を消滅させたり、そんな思想は日本に根付く土壌がありません。根なしの浮き草の左翼活動家が、一大勢力になれるはずがないのです。

  ・戦前『教労』は、新興教育の旗を掲げて、日本プロレタリア革命を展望して、闘って来た。

  ・そこには、運動を推進する革命的情熱があった。今はなぜか、その情熱が感得できない。そしてそれを指導する、党の姿が見えなくなってしまった。

 こんな意見を言うから、氏は共産党を除名されたのでしょうが、なぜそうなったのか。氏への答えは平成3年のソ連崩壊で、やっと目に見えるようになりました。令和3年の現在、社会主義国として存在しているのは、国民弾圧の独裁国家中国と北朝鮮などです。マルクシズムの矛盾と大嘘が世界の人々に晒された現在、彼らこそがこの信仰を捨てる時でしょう。

 39人のうちの、やっと二人の証言の紹介が終わりました。時代区分で行けば、「戦中編」「戦後編」が手つかずのままです。どうすれば、息子や孫たちのため、無駄のない適切な紹介ができるのか、一息入れながら考えたいと思います。

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『昭和教育史の証言 』- 4 ( 山田国博氏の証言 )

2021-01-09 20:02:34 | 徒然の記

  今回は、山田国博氏の証言を紹介します。

 《   2. 山田国博氏・・ 「長野県教員赤化事件と新興教育運動」》

 「明治40年長野県生まれ、昭和62年81才で没」

 「大正13年県立諏訪中学校卒業後、小学校代用教員」「共産党へ入党し、昭和8年検挙、昭和11年釈放」

 「昭和17年頃から東京の目黒、蒲田などの町工場で、徒弟教育の仕事に従事」

 「昭和21年から36年まで、民主化運動に従事」「党内闘争で、党を除名」

 氏の略歴は上記のとおりですが、本論に入る前に、「新興教育運動」という聞き慣れない言葉について、ネットで調べました。

  ・戦前の日本の代表的な教育運動の一つで、日本教育労働者組合 ( 昭和5年結成、略称・「教労」 ) と、新興教育研究所 ( 同年 8 月創立、「新教」 )によって、展開された運動のことである。

  ・教育労働者の、生活改善の要求を掲げる一方で、迫りくる帝国主義戦争に抗して、反戦平和の教育をおしすすめた。

  ・悪名高い日教組が敗戦後の昭和22年の結成ですから、「教労」と「新教」は、その母体なのでしょうか。何らかの糸で繋がっているのでしょうが、時間がないので省略します。

 長野県教員赤化事件と聞いてもピンときませんが、当時は大事件だったようで、氏の叙述から事実だけを抜き書きしてみます

  ・ 昭和8年2月4日、長野県永明村 ( 現茅野市  ) 

  ・ 小学校を中心に、県下65校で一斉検挙

  ・ 検束教員数 138名 ( 男122名、女16名 ) 

  ・ 実刑13名という、極めて大規模な治安維持法違反事件

 新聞は社会的影響を恐れて記事を差し止めにし、9月末まで一切の報道を禁止したと言いますから、保守政権でも、反日左翼の跋扈する現在でも、マスコミの「報道しない自由」、「国民に知らせない自由」は変わらないことが分かります。

 当時は世界恐慌と大凶作が重なり、農村の貧窮がひどく、一家心中、青田売り、娘売りなどあり、このために永明村で「赤化事件」が発生した、説明されていたそうです。しかし氏が、これを否定します。

  ・それは農村不況という、客観的条件ばかりでなく、永明小学校を中心に組織されていた、社会科学研究会 ( マルクス主義研究会 ) の活動が、県下の各学校で強化されていたことにより起因した、と見るのが正しいと思えるのである。

 氏の説明は、予想していなかった事実を教えてくれました。

  ・昭和5年4月、マルクス主義者河上肇の影響を受けた京大出身の河村卓が、永明小学校の教師となって赴任してきた。

  ・校内に潜在していたマルクス主義研究の青年教師と手を繋ぎ、研究会を組織し、これを指導した。

 洛陽の紙価を高からしめたという、あの「貧乏物語」著者として河上肇氏の名前は有名です。今にして思えばこの人物も、「白樺派的人道主義」の入口からマルクス主義に迷い込んだ人物と思っていますが、こんなところで名前が出てくるとは意外でした。

  ・この研究会は単にマルクス文献の研究ばかりでなく、日常の教育問題を捉えて検討し、迫り来る戦争の危機、迫り来る教育の危機について討議を重ねていた。

  ・もちろんこれは有志の研究会であり、ことに校長に発見されることを極めて警戒していた。」

 慎重に活動していたのに、彼らの運動が表に出る事件が持ち上がりました。不況のため税金の収められない農家が続出し、欠食児童、娘売りなどがあり、これを救うため、「教員給の1割を8ヶ月間差し引き、村に寄付する」という決定が、校長の独断で決められました。

 県下の小学校が同じ決定をしているので、当然賛同してくれるものと、校長は考えていました。しかし永明小学校の青年教師たちは、猛反発しました。

 ・こんな重大問題を、検討する時間も与えず決定した校長の態度は、不当だと、糾弾したのです。職員会議が連日開かれ、村議会や役場の責任者、村の青年団も加わり、校長案を修正させました。

 ・この過程で校長の権威が失墜し、青年教師の研究会メンバーが急拡大しました。

 勢いを得た河村卓は研究会の理論強化のため、「新興教育運動」のリーダーである羽仁五郎氏を迎え、学校で公開講演会を開きました。夜には市内の旅館で、氏を囲み座談会をしています。

 「先生、日本に革命はいつ頃来ますか。」

 「それは君たちの、努力次第です。」

 高揚した雰囲気の中で、こんな会話でなされたと書かれていますが、これが当時のマルクス信奉者たちの純粋さというのか、単純さというのか、空いた口が塞がりません。

 「古き良き時代の昭和」という言葉がありますが、反日左翼運動についても、この大らかさと無邪気さは、「古き良き時代の昭和」そのものに思えます。

 結果としてどういうことになったのか。次回は、それを報告いたします。

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二階氏を放逐せよ -2 ( 緊急事態宣言発令 )

2021-01-07 21:11:06 | 徒然の記

 本日1月7日、菅総理が記者会見し、緊急事態宣言を発令しました。対象地域を東京、神奈川、千葉、埼玉の1都3県とし、期間は、1月8日から2月7日までの1ヶ月間です。その内容は、

 1. 飲食店には20時までの営業時間短縮 ( 非協力店の店名公表 )

 2. 酒類提供は11~19時に限定

 3. 宅配やテークアウトは対象外

 4. 不要不急の外出自粛を要請し、特に20時以降は徹底する。

 5. イベントは人数制限を5000人、収容率50%以下とする。

 細かくはまだありますが、概略は上記です。「コロナ収束のため、政府はあらゆる手段を尽くします。」と、会見の場で菅総理は言いました。

 しかし緊急事態宣言の中身は、国民への要求ばかりで、しかも酒を提供する飲食店が、狙い撃ちです。年明け以降、コロナ感染者が急増し、東京、神奈川、千葉、埼玉の1都3県が顕著だとすれば、国民の多くは菅氏の説明に納得するのかもしれません。

 私が納得しないのは、菅氏の宣言が国民への要求ばかりで、重要な対策が故意に抜け落ちているからです。私の指摘は、今回も同じです。

 「ビジネストラックなどと、奇妙な言葉で、中国・韓国からの入国者を検査なしで入国させているのを、やめなさい。」

「中国・韓国人の感染者数と、入院患者数を公表しなさい。」

 相変わらずこの点に触れず、国民にばかり負担を要求するのが、日本国総理のすることでしょうか。外出自粛でもなんでも、私は協力しますが、中韓の入国自体を遮断することが、なぜできないのか。「ビジネストラック」と言うのは、日本語にしますと、「商用」という意味です。

 成田空港に行って、見たことがありますか。子供の手を引いた中国人の母親が、検査なしで入国しています。こんな人々が、どうして「ビジネストラック」( 商用 ) なのでしょうか。観光客でないとすれば、中国人ビジネスマンの家族でしょう。これだけ国民に自粛を要請していながら、中国・韓国の入国者には、なぜ緩いのでしょう。「あらゆる手段」の中に、「ビジネストラック」の撤廃は、なぜ含まれないのでしょうか。

 私はなんの根拠もなしに、ブログを書いているのではありません。12月26日の、千葉日報の記事をもとに、菅総理の欺瞞を質しています。

 「京成電鉄  帰国者に専用車両」「28日から、乗客減のスカイライナー」

 見出しの後に続く記事の書き出しを、転記します。

 「京成電鉄は、25日、新型コロナ対策として、」「成田空港からの、帰国・入国者を対象とした専用輸送サービスを、」「28日から始めると、発表した。」

 「国は、コロナ感染予防のため、帰国・入国者に、」「14日間は、公共交通機関を使わないように要請した。」「レンタカーなどで移動することとなり、同社は、金銭的負担になると考え、」「国土交通省と相談の上、同サービスを企画した。」

 「利用対象者は、国の基準で新型コロナの検査対象外になっている人と、」「検査を受けた、陰性だった人。」「一日23本のスカイライナーのうち、15本で導入。」「先頭の8号車を専用車両とし、7号車は、一般乗客との接触回避のため、」「空車とする。」

 国土交通省は、多くの人が知っているように、媚中の公明党が独占している省庁です。国民には厳しい要求をしながら、菅氏と公明党は、中国・韓国の入国者を入れています。千葉日報だから、この記事が掲載され、千葉県民だから、私が知ったのか。そこは知りませんが、私は菅氏(もう総理とは呼びません)、に言います。安倍内閣を継承すると公言しましたが、確かに公言通りです。安倍内閣の間違った政策を、全て継承しています。貴方の背後にいる、中国信奉者である幹事長が黒幕の一人です。だから、もう一度言います。

 「二階氏を放逐せよ」

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『昭和教育史の証言 』- 3 ( 戸塚 廉の証言 )

2021-01-06 19:39:48 | 徒然の記

 「狂信的、教条的、国民弾圧のマルクシズムも、最初の入り口の一つは、白樺派的人道主義だった、」

 マルクス主義に迷い込む道は沢山あり、「白樺派的人道主義」は、そのうちの一つです。自分の経験からすれば、現在の日本にいる「お花畑の住民」の多くは、おそらく「白樺派的人道主義」の立場から反日左翼の道へ誘い込まれたのでないかと考えます。

 前置きが長くならないうちに、「池袋児童の村」小学校に勤務していた戸塚氏の説明へ戻り、以下紹介します。

  ・『池袋児童の村』小学校は、野口援太郎、下中弥三郎、志垣寛、為藤五郎を同人とし、小原国芳、原田実、三浦藤作、赤井米吉、を社友として作られた。

  ・いずれも当時の大正自由教育の、最高の指導的地位にいた人々である。

 当時は有名な人々だったのでしょうが、私は彼らの名前を初めて聞きます。

  ・自由教育に関する動きを図書出版の面から見れば、野口援太郎が、姫路師範学校の初代校長となった明治34年に、デューイの『学校と社会』が、翻訳されている。

  ・明治33年にはスエーデンのエレンケイが、有名な『児童の世紀』を出版しており、津田梅子が女子英語塾を創立している。

 共産党員になっていましたが戸塚氏の主眼は、子供たちへ自由と愛に満ちた教育を与えたいという、博愛精神でした。

 野口援太郎、下中弥三郎、志垣寛、為藤五郎等の、自由教育の指導者たちが、

 『芦屋児童の村』小学校、

 『雲雀ヶ丘児童の村』小学校、

 『東京児童の村』小学校と、試行錯誤しながら創設・運営する姿を解説しています。

 教師たちが「教え子を戦場へ送るな」と、懸命に訴えていますが、その主張が、結局は教え子の住む大切な国の破滅につながるという、今日の日教組の矛盾の源流がここにあるのかと、尽きない興味が生まれます。

 『池袋児童の村』小学校を創立する以前、姫路師範学校の校長だった野口援太郎が、どのような教育構想を持っていたのか、氏が説明しています。14項目ありますが、その内の7項目を紹介します。

   1. 生徒は、決められた時間割通りに、教室に出席する義務はない。

   2. 教員も、時間通りに、教室で決まった講義をする必要はない。

   3. 生徒は行きたい教室に行き、自分で研究し、その教室の教師の指導を受ければよい。

   4. 学校は、各学科所属の図書室をできるだけ整備し、生徒の参考にする。

   5. 学校は、機械や標本を整え、生徒の実験実技に供する。簡単な制限のもとに、自由に取り出して使わせる。 

   6. 教師は自己の研究方法や参考書を説明し、各生徒の研究状況を見てその適否を注意し、質問に対して指導する。

   7. 各教科とも、研究過程をいくつかに分け、一つの段階の研究が理解できたら、教師に判定してもらう。

 教師は生徒の自主性を尊重し、手助けをする立場に徹しています。こうした構想は、児童の村創立当初の教育に取り入れられたそうですが、全てが野放しの自由だった訳ではありませんでした。

  ・野口の師範学校では兵営流でなく、家族的な寄宿舎、英国流の紳士を作る寄宿舎を考えていた。

  ・心身の鍛錬も重視し、苦しい作業、水泳、六甲山登山競走がカリキュラムに組まれ、生徒だけでなく教職員全員でやったという。」

 野口氏の次に説明しているのが、下中弥三郎氏です。

  ・下中の思想の根底を貫くものは、民衆本意の教育であろう。小学校3年しか行けなかった彼は、身に染みて貧しい者、労働する者の立場に立つ。

  ・呪うべきは資本主義であり、国民を死と苦痛に叩き込み少数の億万長者を作り出す戦争である。

  ・この矛盾に目覚めた、大正デモクラシーの中の民衆に着目し、その組織化により生活権としての学習権を戦い取ろうと主張する。

  ・教育は国民の義務でなく、権利であると、最初に唱えたのは下中である。

 ところが戦争が近づき時局が緊迫化するにつれ、下中氏は、次第に農本主義 → 大アジア主義 → ファシズムに傾き、ついには太平洋戦争の精神面での指導者になります。

 明治・大正期の自由教育の開拓者たちが、このように変転した理由を、氏は「社会科学研究の力が弱く、深い社会認識に達していなかった」と、分析します。転向者について述べるとき、マルキストたちは、昔も今もこのようにして突き放します。

 しかし最も注目したのは、次の意見でした。

  ・下中の思想に現れた民衆の立場、労働者としての教員の団結、平和主義などは、決して戦後アメリカに押しつけられたものでなく、国際的な自由思想に学び、日本の現実の中から生み出されたものである。

  ・戦後の、恵まれた政治条件の中で展開されている現代の教育運動と比べ、段違いの苦難の中で創造されたものと言うことができよう。

 氏の意見を読みますと、反日左翼教職員組合はGHQが作った遺産 ( トロイの木馬 ) というより、明治以来日本で育ち、苦労した先駆者たちの産物でもあったと言っています。左翼には左翼なりの、歴史があると言うことでしょう。

 こうなりますと、私の考えも少しばかり修正したくなります。

  ・悪法・日本国憲法」「反日左翼学者」「反日左翼マスコミ」は、GHQが戦後に作った「トロイの木馬」ではなかった

  ・明治の文明開花以来、欧米に追いつけ追い越せと、ご先祖たちが頑張りましたが、左翼思想も同時に取り入れていた

 左翼思想は皇室を否定する思想ですから、当然政府が危険視し弾圧します。蹴散らされ、押さえ込まれていたものを、GHQが再び解放した。それが「トロイの木馬」だったと、この視点が正しいのかと思えてきましたが、それはそれで厄介な話になります。

 現在、28ページです。今年は丑年ですから、慌てず、焦らず、本と向き合おうと思います。一息入れて次回を続けますが、年明け早々面白くない本の紹介ですから、「ねこ庭」を訪問される方がいなくなる覚悟をしました。

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二階氏を放逐せよ

2021-01-04 20:29:28 | 徒然の記

 「武漢コロナ」の感染者が急増しているため、「緊急事態宣言」を発出せよと、関東地域の知事が、政府に要請しています。対象地域は東京、神奈川、千葉、埼玉の1都3県を中心に検討していると言うことですが、おかしな話です。

 政府は国民に、集団での歓談・飲食、旅行自粛、会食禁止と、厳しい要求をしていますが、一方では「ビジネストラック」などと、奇妙な言葉を使い、中国・韓国からの入国者を、検査なしで入国させています。毎日、「武漢コロナの感染者数」と「重症患者数」が報道されますが、国籍情報は発表されません。

 ネットの世界では、病室を占有している患者数の、4割から5割は、中国人であるという情報が流れています。しかも彼らは、無料で治療を受けているという、まことしやかな風評も混じっています。安倍内閣の時からそうでしたが、「武漢コロナ」の患者数の中に、何人の中国・韓国人含まれているのか、一切国民には知らされません。

 テレビや新聞が報道するのは、国民に対する自粛と規制と要望だけで、中国・韓国人の情報は伏せられたままです。「安倍政権の政策を継承する」と、菅総理は言いましたが、それは、安倍氏の間違った政策だけを引き継ぐ、という意味だったのでしょうか。

 今年から私は、誰もが忖度して言わないことを、勇気を出してブログで発信すると決めました。菅総理に言います。国民を侮ってはいけません。中国・韓国についての情報が、ずっと国民に伏せられたままだった原因は、何なのか。それは、「二階幹事長」でした。媚中派の氏が、日本国民より、中国共産党政府の意向を大事にし、観光業界の後ろ盾を口実に、やりたい放題をしているところにあります。

 安倍総理も、さすがに二階氏を放逐できず、股肱の臣今井補佐官と共に退陣しました。今井補佐官は、これもまた媚中派の元経団連の会長だった、今井新日鐵社長の子息でした。なぜ安倍氏が、二階氏を切れなかったかと言えば、菅総理が二階氏と二人三脚で推し進めていた、「観光立国政策」に手が出せなかったからです。

 二階氏の後ろ盾で総理の座を手にした菅氏ですから、今更言うのも無駄な気がしますが、どうやらネットの世界でも、「ねこ庭」でしか諫言する人間がいない様ですから、私が言います。

 1. 国民にばかり負担を強いる政策を、おやめなさい。

 2.  中国・韓国の患者数、入院者数のデータを公表しなさい。

 3. これらを国民に知らせない元凶が、媚中派の二階氏一派です。

 4. 「獅子身中の虫」二階氏を、国民のため、放逐しなさい。

 もしも、私の意見が間違っていると言うのなら、正々堂々と、日本国総理大臣として反論すべきでしょう。政府が事実を公表せず、こそこそと隠し続けるから、私の様な意見が生まれます。

 こんな姑息な、こんなみっともない、国民を騙すような安倍政権の政策を、継承する必要はどこにもありません。巷では、「二階氏を放逐すれば、中国が尖閣への侵略を実行する。」「中国の代理人である二階氏を失いたくないから、中国共産党政府は、尖閣の実効支配を我慢している。」と、こんな話があります。

 しかし私は、菅総理に言います。二階氏の処遇で中国政府が、尖閣を侵略すると言うのなら、やらせればいいでしょう。国民の目が覚めますし、自衛隊も、日本軍としての使命感と誇りを取り戻します。物言わぬ庶民を代表して、私は貴方に言います。

 「二階氏を放逐せよ。」

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『昭和教育史の証言 』- 2 ( 戸塚廉氏の証言 )

2021-01-04 16:22:57 | 徒然の記

  昭和51年の出版と聞いてもさほど昔という気はしませんが、開いたページが黄ばんでいるところを見ますと、古い本だと分かります。中身に入る前に目次を紹介すると、どう言う傾向の本であるかが見えてきます。

  1. 戦前編 ( 弾圧と抵抗  )

   ・ 前史としての大正自由教育

   ・ 治安維持法下の教師たち

   ・ 弾圧と抵抗の谷間で 

  2. 戦中編 ( 少国民の証言  )

   ・ 皇民化教育の内容と実態 

   ・ 国民学校と少国民たち

  3. 戦後編 ( 教師の主体性  ) 

   ・ 教師の戦争責任と戦後責任

   ・ 高度成長下の差別と疎外

   ・ 70年代への視点

 《   1.  戸塚廉氏・・ 「児童の村小学校を作った人たち」》

 「前史としての大正自由教育」を執筆しているのは、戸塚廉(とづか れん ) 氏です。ネットで調べた略歴を紹介します。

  「明治40年、静岡県生まれ、平成19年に100才で没」

  「静岡師範学校卒業後、掛川市で小学校教員となる」

  「昭和7年、新興教育同盟準備会に参加、翌年検挙され免職」

  「上京して私立『池袋児童の村』小学校の教師となり、昭和10年『生活学校』を刊行」「戦後は掛川市で、『おやこ新聞』を発行」

 私立学校に勤務し、かたわら雑誌や新聞を発行するなどして生涯を教育に捧げ氏は、マルキストというより、自由・博愛・平等を掲げた白樺派の主張に近い人物のようです。

 氏が勤務した『池袋児童の村』小学校の他に、当時は『芦屋児童の村』小学校、『雲雀ヶ丘児童の村』小学校、『東京児童の村』小学校など3校がありました。

 氏の説明によりますと、「児童の村」の校名の元となったのは、大正7年に武者小路実篤氏らが作った、「新しき村」だったそうです。

 「搾取のない平等な社会の建設」を標榜するマルクス主義と、「自由・平等・博愛」を掲げる白樺派の主張には、似通ったところがあります。マルクス主義は経済的不平等の解決に主眼があり、自由や博愛とは無関係なのですが、貧富の差が極端だった当時は多くの若者がマルクス主義に傾倒しました。

 社会主義国家としてソ連が誕生し、中国が生まれ、北朝鮮等々が産声を上げた頃ですから、日本の人道主義者たちには、それはまさに「ユートピア」の実現と見えました。時が経過すれば、一党独裁の社会主義国が、異論を許さない教条主義、国民を弾圧する不自由国家だと分かるのですが、当時は知る方法もなく、知ろうとする人間もいませんでした。

 人道主義者、博愛主義者、自由主義者など、社会主義思想に魅せられた者たちは、時の経過とともに区別が曖昧になり、結局は「反日左翼」勢力の仲間に成り果てます。

 武者小路実篤氏の名前が出ますと、氏の甥である武者小路公英氏について、白樺派的「人道主義者」の成れの果てとして、語らずにおれなくなります。

 話が横道にそれますが、現在の「お花畑の住民」の姿が、私の中ではそっくり彼らと重なります。息子たちや「ねこ庭」を訪問された方々はどう思われるか、聞いて見たくなります。

 現在国連で活動している「反日団体」の筆頭は「日弁連」ですが、その次に名前が挙げられるのが、「人種差別撤廃NGOネットワーク 」( 略称 IMADR ) です。

 日本国内では知られていませんが、反差別運動をする世界のNGOが一つとして、国連では有名な活動団体です。何年か前のブログで紹介しましたが、再度紹介しますと、現在の日本をかき回している反日団体が一堂に名を連ねている状況が見えてきます。

 〈 「人種差別撤廃NGOネットワーク 」( 略称 IMADR ) 〉

   共同代表理事   武者小路公秀     国際政治学者 

   副代表理事    組坂 繁之    部落解放同盟中央執行委員長
   専 務 理 事    西島 藤彦    事務局長、部落解放同盟中央書記長
 
   理     事    加藤 忠     公益社団法人北海道アイヌ協会理事長
            稲葉菜々子           上智大学教授、移住労働者と連帯する全国ネットワーク
                               奥田 均     部落解放人権研究所
            岡島真砂樹    日本教職員組合中央執行委員長
            草野龍子    『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議議長、真宗大谷派
           金 秀一     かながわみんとうれん事務局長
           申 惠丰     青山学院大学教授
 
           岩根 孝尚    東京人権啓発企業連絡会理事長
             三輪 敦子    一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター所長
  監  事     赤井 隆史    部落解放同盟中央財務委員長 
           窪 誠      大阪産業大学教授
  顧  問     林 陽子     弁護士、国連女性差別撤廃委員会委員長
 
 共同代表理事としてトップに名前のある武者小路公秀氏について、ネットで調べた略歴を紹介します。
 
  「昭和4年生まれで、学習院大学卒業、今年91才。」
  「日本の国際政治学者、大阪経済法科大学特任教授、」
  「公益財団法人朝鮮奨学会理事」「元国連大学副学長」
 
  「元貴族院議員、駐独大使武者小路公共の三男として、ブリュッセルに生まれる。」「小説家の武者小路実篤は、氏の叔父。」

  「徹底した反米、反体制、反権力主義者で、部落解放同盟との関係が深い。」

  「朝鮮労働党と日本共産党の、関係改善の斡旋役も務め、」「平成19年には、朝鮮総連主催の在日本朝鮮人中央大会に、来賓として招かれ、挨拶。」

  「親北季刊誌『 金日成・金正日主義研究 』に、反覇権主義、反植民地主義についての論考を、寄稿。」

  「旧ソ連と第三世界に担がれ、世界政治学会 ( ISPA ) の会長になり、国連大学副学長時代には、意図的にKGBのエージェントを、国連大学に迎え入れた。」

  狂信的、教条的マルクシズムも、最初の入り口の一つは白樺派的人道主義だったと言うこと、その実例として武者小路公英を上げました。戸塚廉(とづか れん ) 氏も同様の位置づけで考えていると、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に言いたかったのはこのことです。

 スペースがなくなりましたので、本論は次回からとします

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