ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『昭和教育史の証言 』- 18 ( 斎藤たきち氏と無着成恭氏 )

2021-01-20 16:58:30 | 徒然の記

 息子たちや、「ねこ庭」を訪問される方々にうまく伝えられるのかどうか、自信はありませんが斎藤たきち氏の証言を取り上げました。

  《   7.  斎藤たちき氏・・ 「 無着成恭とやまびこ学校 」》

 知る人の間では有名なのでしょうが、世間的には無名の人物らしく、ネットでは次のことを知っただけです。

 「山形の農民詩人、齋藤たきちさん ( 昭和10年生まれ ) が亡くなった。」

 「令和元年10月葬儀、84歳だった。」

 「彼は野の思想家真壁仁の流れをくむ百姓で、詩を書き、ものを書き、地域に根差した平和運動や文化運動、有機農業運動を作り上げてきた。」

 真壁仁氏についても、調べてみました。

 「明治40年山形県生まれ、昭和59年76才で没」

 「日本の詩人、思想家、山形県国民教育研究所所長」

 「農家の長男として生まれ、高等小学校卒業後、尾崎喜八、高村光太郎に師事する。」

 「貧しい百姓の解放を願い農民組合を結成し、生涯、社会的な活動に身を置き、このため、戦前には生活綴方事件で検挙される。」

 「戦後は、山形のため、地域の文化と芸術、教育と政治の分野で活躍。」

 「とりわけ、青年や婦人の運動に理解と援助を惜しみなく続けた。」

 「昭和59年、金日成首相の還暦に合わせて訪朝し、」「還暦を祝う詩『ペクトウの峰』を執筆。」

 「金を崇高な『ペクトウの峰』( 白頭山 )になぞらえ、その「勇気と決断」を讃美している。」

 戦前生まれの社会主義者は、テレビや新聞や、反日書籍の知識だけから、金日成や毛沢東のことを知り、偉大な人物と信じていた人間が沢山いました。情報のなかった時代ですから、致し方なしという気もします。

 これだけ情報が溢れ、毛沢東や金日成の素顔が分かるようになった現在でも、彼らを崇める反日左翼がいるのですから、笑いごとでは済ませられません。

 今回の本題は、齋藤たきち氏がこういう流れを汲む人物の一人であるという事実の紹介です。氏の証言を取り上げた理由は、氏が無着成恭氏について語っていたからです。無着氏と「やまびこ学校」は有名なので、どんな事情なのか知りたいとずっと思ってきました。

 斎藤氏の証言が、長年の疑問を解いてくれただけでなく、反日左翼の間違いも教えてくれました。長い前置きになりましたが、これを紹介するのが今回の目的です。

  ・無着成恭と私との、私的な関係から書き始めてみたい。

  ・と言っても、出身が隣村であるとか、夫人が私と小、中学校のクラスメートであったとかいったことでなく、

  ・私の精神史の一角に、重い鉛のような存在として沈澱している、内的なことについてである。

 8才年長の無着氏を呼び捨てにするところからして、興味を覚えました。同じ本の中で証人として名前を連ねているのに、同じ考えではないようです。

  ・百姓の長男として生まれた私は、百姓はあまり勉強しなくても良いとする両親の言葉に従い、通学していたから、勉強もまた面白いものでなかった。

  ・終業のベルが鳴ると、逃げ出すように校外へ出て、仲間を誘って山登り、川の魚取り、沼で泳ぐという毎日を送っていた。

  ・当時私は新生中学一年生であり、無着は山形師範学校の生徒であった。」

    雪がコンコン降る。

    人間は

    その下で暮らしているのです。

             石井敏雄

  ・という詩を巻頭詩にして、43名の生徒の生活詩、綴り方、日記を、一本に編んだ本が出版され、ベストセラーとなって読む人の胸を打った。

  ・題して『やまびこ学校』である。昭和26年の頃であった。

 私が小学校に入学した年の出版ですから、古い話です。逆に言えば、無着氏の名前と本の題名がそれほど有名だったということになります。

  ・とりわけ教育界に与えたのは、衝撃と言っていい刺激に似たものであった。

  ・新しい教育実践の灯として、バイブルのような扱いを受け、生活綴り方教育の原点として評価を不動のものとする一方、山形県教員組合は『やまびこ学校』の映画化を企画した。

  ・監督に今井正、主演を木村功にしてカメラを回した。

  ・山元村を現地ロケし完成した映画もまた好評で、全国的に上映された。

 そういうことだったのかと、氏の証言を読み続けました。久しぶりに「学徒」の気持ちになり、知ることの喜びを感じました。

  ・『やまびこ学校』の影響は、農村青年や婦人たちにも生活記録として紹介されるようになり、青年団、青年学級、サークルなどで、積極的に取り組まれるようになった。

  ・部落や村単位で始まったものが、やがて他村との交流が起こり、広い地域にわたりサークルができるようになった。

  ・『百姓のノート』もその一つで、山元村、本沢村、私の住む柏倉門伝村など、5、6ヶ村の青年たちの手によって、創刊された。

  ・無着も有力なメンバーの一人であり、彼の家 ( 寺 ) が、時折合評会の会場となって賑わった。

  ・どぶろくを湯呑みに注いで飲みながら、ロシア民謡やインタナショナルの歌を大声で歌い、教育のこと、文化のこと、村の百姓としてなすべきこと、そのために何をすべきかと熱っぽく対話するこの会は、まるで人間変革の坩堝のようだった。

  ・農村をどう変えてゆくか、そのためになすべきことを、独特の口調でエロ話を加味しながら喋る無着の態度に、火のような熱さを感じたのは私一人ではあるまい。

  ・私はそこで、農村に生きる意味と価値を、己の魂に確かに刻印した記憶がある。

  ・私が小中学校で接した教師の群れと、何と異質な教師よ。実感としての人間教師、無着成恭を知ったのは、昭和28年頃であった。

 その斎藤氏が、なぜ無着と呼び捨てるようになったのか。スペースがなくなりましたので、次回といたします。

コメント (2)
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