ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

教師 - 4 ( 仮名・水原裕美氏 )

2021-01-29 14:21:00 | 徒然の記

 109ページです。今回は30代の女性教師水原裕美氏(仮名)の、談話を紹介します。

 「私が教師になろうと思ったのは、生徒たちに、男女差別や、」「戦争と平和、障害者の問題といった人権に関することを、」「考えてもらいたかったから。」「自分が考えてきたことを、少しでも社会に反映させたい。」「それを実現させるためには、教員という仕事は、」「魅力があると思ったのです。」

 こんな単純な動機で、教職を選ぶ人物が実際にいるという驚きの方が、嫌悪感より勝りました。

 「大学に入るまで、男女差別とは何か、そう深く考えていませんでした。」「一年生の時、社会科学系の研究会に入って、」「野外活動の計画を立てていた時、一年生の女子学生が相談して、」「みんなのお弁当を作ろうと、話が盛り上がったのです。」

 「そういうところが、自分の首を絞めてるんじゃないの ? 」

  話を聞いていた先輩の男子学生が言い、以後ことあるごとに、男女差別の歴史や、ジェンダーについて教えてくれたと言います。

 「最初は意味が分からなかったんですが、そういえばそうだなあと、」「思い当たる節がたくさんありました。」「そういうところで、4年間教育を受け、」「世の中に男女差別があるのはおかしいって、」「大きな声で言えるようになったんです。」

 重ねた思考の結果でなく、先輩に言われたことを信じているだけの氏です。「お花畑の住民」と、私は反日左翼の人々を批判しますが、氏がまさに、その一人でした。

 「学校でも、男女差別は良くないと、」「いじめをなくそうと、日々いろいろやっています。」「でも、信じられないかもしれないけれど、」「教師の世界にだって、男女差別やいじめがあったのです。」

 談話のタイトルは、「教師のいじめ」ですから、こちらの方が主題です。

 「最初に勤務した学校では、女の先生だけに朝の掃除当番と、」「会議の後の片付けが、課せられていました。」「しかもそれは、長年勤めてきた女性の先生が、」「私たちもこうしてきたから、貴方たちもやりなさいと、押し付けているのです。」

 「心の中で思うところはありましたが、新卒の私が嫌だと言ったら、」「他の先生との間に亀裂が入ることは、目に見えていました。」「そうして一年目は、何事もなく過ぎたのです。」

 「ところが2年目に、それまで優しくしてくれた先生が、手のひらを返すように変わったのです。」「その人は今まで、何人もの教員を辞めさせてきたような人です。」「お互いに違う学校に移って、会うこともないのですが、」「今でも恐ろしい。」「何があったか・・、話したく無いです。」「話すことによって、それをもう一度体験しなくてならないから。」

 この文を読んでいますと、共鳴する部分がなく、次第に冷淡な気持ちになります。教師というより、女生徒の話を聞かされているような錯覚に陥ります。

 「もちろん、命の危険があるようなことをされたわけではないし、」「客観的に見たら、大したことではなかったのかもしれません。「ごく、一般的なことだったのかもしれません。」「でも自分のこととなると、やっぱり別です。」

 「私が生徒で、嫌なことをされたというのなら、」「学校へ行かないという選択がありますが、」「職場は簡単に休めません。」

 生徒だって、学校を休むのは簡単なことではありません。自分との比較で生徒を引き合いに出すという、思考回路に違和感を覚えます。自分のことしか考えていない、自己中心的な意見と聞こえてきます。先輩の教師から、なぜいじめられるようになったのか、私には分かるような気がしました。

 「周りの人は、いじめられている私を、」「本気になって助けようとしているかっていうと、そうじゃない。」「自分に火の粉が降りかかるのを、恐れている。」「子供のいじめの場合、信頼できる教師がいて、」「一生懸命に動いてくれれば、収まることがあるわけです。」

 「でも先生の場合は、その役割をする人はいない。」「校長先生は、何もしてくれなかったのかって ? 」「これ以上は、言わせないでください。」

 ここでもまた、生徒の話を引き合いに出します。いじめられている人間には、教師も生徒も同じ深刻さがあると、そうは考えていないようです。薄っぺらな動機で教師になった人間は、経験を重ねて思考が深まるのでなく、自己中心的になっていくだけなのでしょうか。

 「それでもなんとかやってこられたのは、学校と違う家庭という世界があって、」「それが、自分を支えてくれたからですね。」

 小学校、中学校、高校と、私は、自分を育ててくれた先生の姿と顔を、思い出しました。どの先生にも、感謝の気持ちや懐かしさがあり、氏のような先生は、いなかった気がします。

 「いじめを受けた生徒から、本当に何があったのか、」「なかなか聞き出せないんですよ。」「その子の傷がちゃんと癒えるまで、本人が絶対安全だと思えるまで、」「辛い経験は言えないの。」「私もかなり立ち直っているけれど、もう少し年齢がいって、」「強くなれば、言えるかもしれない。」

 氏のような考え方をしますと、いじめを受けている子は、卒業してしまいます。現在のいじめを聞き出し、生徒を救う熱意がない教師が、人権や平和を教えるのかと、疑問が湧いてきます。

 「そう、私が定年になって、学校から完全に離れられた時には、お話しできるかもしれませんね。」

 これが最後の言葉ですが、編者の森口氏は、どういう考えで、談話を本に入れたのでしょう。性教育をする原田氏と言い、水原氏と言い、これが日本の教師の姿だと、訴える何かがあるのでしょうか。私は、自分を育ててくれた先生たちのためにも、反論します。

 「こんな先生が日本の実態だなど、そんなことはありません。」「森口氏は、教職者を傷つけるため、本を出したのでしょうか。」

 半分も読んでいませんので、書評の結論は早過ぎます。「武漢コロナ」で、外出自粛の日々ですから、焦らず読みます。「ねこ庭」を訪問される方々が、すっかり減りましたので、いかに『教師』の書評がつまらないのかを、教えられます。

 本だけでなく、書評をする私についても、関心をなくされているのだろうと、反省しております。

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