ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『昭和教育史の証言 』- 19 ( 続・斎藤たきち氏と無着成恭氏 ) 

2021-01-22 17:01:42 | 徒然の記

  《   7.  斎藤たちき氏・・ 「 無着成恭とやまびこ学校 」》

 斎藤氏は、なぜ無着氏を呼び捨てにするようになったのか・・これがテーマです。再度氏の証言に戻り、肝心な部分を紹介します。

  ・無着の生まれた村と、私の村は隣同士であると、先にも書いた。

  ・私の村は、いわば政治家が書ききれないように多く生まれた村として有名であり、一方無着の生まれた山元村は、いわゆる文化人が多く輩出した村として有名である。

  ・これらのほとんどの人々が村で生活し、骨を埋めていると言う点で、土着的な政治・文化的風土を形成し、その伝統を伝えている。

  ・名を上げたからと言って村から逃げ出したのは、無着一人ではあるまいか。

 氏は無着氏と出会い、初めて百姓としての自分を自覚し、村で生きる決意を固めました。素晴らしい先生に出会ったと感激していただけに、無着氏の東京移住が衝撃だったのでしょう。おそらくそれは、斎藤氏個人にだけでなく、村への裏切りに見えたのだと思います。

  ・私たち百姓が都会に出るのは、裏口からの『夜逃げ』という闇に向かっての歩みだが、指導者やインテリゲンチャには、表口からの『錦の御旗を求める、栄光の旅立ち』という違いがあるような気がする。

  ・無着は先に、都会に住むのも農村に住むも変わりはないと強弁した。

  ・しかし村に住む人間の目から見れば、都会生活者となることは、村と対立する存在になったとさえ思える。

  ・土に汗して働き、村で生きる者との対立は、生活していることは同じでも、生きていくということで異質であるとそう思う私には、無着の思想の転向を見るのである。

 斎藤氏が、なぜここまで都会と農村の暮らしの違いを強調するのかは、当時の社会状況を理解する必要があります。

 昭和25年以降およそ20年にわたって、日本の経済は高い伸び率で上昇し続けました。いわゆる「高度経済成長」です。工場が次々と施設を拡張し、大都市には近代的なビルが競うように建てられました。

 厳しい農作業を捨て、便利で華やかな都会暮らしを求め、村を捨てる若者が増えていた頃です。

  ・もう一つ忘れてならないのは、卒業したばかりの青年教師無着が、むちゃくちゃ教育を実践できたのは、禅寺の坊主だったからではないかという一面である。

  ・坊主の存在は、学校の教師、村の駐在を超えて、村ボスの下に位置する力を持っていて、よっぽどのことでない限り批判されたりしないのである。

 氏の意見は無着氏を理解するための、一つの材料となります。こういう事実があったのかと、長年の疑問を解く鍵になります。それ以上に驚きだったのは、氏の話が「ねこ庭」には全て新鮮だったことです。東北と九州の違いがあるのか、同じ田舎育ちでも、私は農村と都会の人間をこのように語る人物に出会ったことがありません。

 土着という観念からして、満州生まれの自分にはありません。日本に帰国してからも、出雲から熊本の田舎町、温泉町、北九州の街へと職を求めて転々とした親に従い、移り住んできました。斎藤氏が語るような土着への矜持とこだわりが、日本の全国にあるとするなら、私はそんな日本を知らない日本人ということになります。

 それだけに、一層氏の話に引かされます。

  ・おそらく、寺出身以外の新卒がそんな実践をしていたら、1、2年で村追放になっていたであろうことは事実であったろう。

 氏が強調しているのは、無着氏が『やまびこ学校』の実験で有名になったのは、村の風土があったからだということです。あからさまに述べていませんが、村と生徒たちを踏み台にして、彼は有名になり村を捨てたとそう聞こえます。

  ・無着が村の坊主出身であることは、村の指導層でインテリ層の一人として君臨することであったが、同時に逃げ場と逃げる準備を、絶えず内包していることではなかったか。

  ・そのインテリたちが、内灘、砂川、水俣、三里塚などで、困難な戦いの中からいかにして逃亡したかを見るとき、

  ・または日本の教師のほとんどの者が、辺地や辺境と呼ばれる村で教えながら、いつも逃げ出す準備でいるのを知る時、

  ・無着でさえ逃げ出したのだからなあと、許したい気持ちになってしまうのである。

  ・ともあれ『やまびこ学校』が、無着成恭であるのか、無着成恭であったのか、洗い出される歴史の時を迎えたと言えそうである。

  ・その中で、逆に無着の思想と実践が確かめられていくのではあるまいか。

 無着氏と『やまびこ学校』を知らない人には、何でもない叙述でしょうが、知っている人間にとって、斎藤氏の言葉は強烈な批判です。こうなりますと、最初に紹介した氏の略歴が重みを増します。

 「山形の農民詩人、齋藤たきちさん ( 昭和10年生まれ ) が亡くなった。」

 「彼は、野の思想家の流れをくむ百姓であり、」「詩を書き、ものを書き、」

 「地域に根差した平和運動や、文化運動、有機農業運動を作り上げてきた。」

 マスコミの虚名に心を奪われず、金にも執着せず、言葉通り村を大切にし、村に生きた氏には無着氏を批評する資格があります。部外者の「ねこ庭」には資格がありませんので、感心して読むだけです。

 斎藤氏は、私の嫌悪する反日左翼活動家ですが、愛する村を捨てなかったという一点に、共感できるものがあります。愛する村と国を捨てさえしなければ、左翼活動家でも理解できる私です。

 「戦後編」15名の内、3名の証言を紹介しました。息子たちだけでなく、「ねこ庭」を訪問される方々も、退屈されただろうと思います。私は退屈しませんので、あと一人紹介してこのシリーズを終わります。

 誰にするかは、少し考えさせてください。

コメント
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