ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

TBSの「報道1930」

2021-01-21 15:36:07 | 徒然の記

 昨夜、久しぶりにテレビを見ました。夜の8時過ぎでした。「トランプ最後の日」と言うタイトルの、報道番組でした。

 果たしてこれが報道なのか、ゴシップ専門のおしゃべり番組なのか、見るにつれ不愉快になり途中でスイッチを切りました。

 司会者 松原耕二氏 高畑百合子氏

 ゲスト 慶應大学教授 中山俊宏氏   明海大学准教授 古谷哲男氏

 大統領最後の日を迎えているトランプ氏について、アメリカの報道を紹介しながら、酷評をしていました。

 「トランプは、就任以来嘘ばかりついてきたから、やめて当然です。」

 「6日の連邦議会議事堂への乱入事件は、トランプが煽動したものですから、弾劾されて当然です。」

 「よくもこんな危険な人物に、核のボタンを最後まで持たせていたものですね。」

 「ペンスがいつも横にいて、監視し、彼の暴走を止めましたね。」

 「彼こそが、アメリカの分断と分裂を招いた、張本人です。」

 特に不快だったのは、司会の松原氏で、トランプ氏酷評の先頭に立ち、ゲストへ質問をしていました。千葉日報にも、共同通信社が、反トランプの記事を毎日配信していますから、松原氏その他出席者の意見を、知らない訳ではありませんが、まさかテレビで、こんなに堂々と放映しているとは、思いもよりませんでした。

 関口宏氏の「サンデーモーニング」も、反日の、ひどい番組ですが、それに劣らない偏向番組でした。TBSという会社は、「報道の自由」を標榜しながら、国のためには役に立たないテレビ局だと、改めて知りました。私が疑問をだき、不快感を覚える理由は次の通りです。

 1. 当事者であるアメリカ自体で、まだ事実が解明されていないのに、どうしてトランプ氏を悪人と決めつけているのか。

 2. ドミニオン社の投票機への疑惑と、郵便投票を州議会でなく、州政府が突然決めた違法行為について、なぜ言及しないのか。

 3. 共和党側の職員がいなくなった、夜間の投票所で、民主党系の職員が大量の投票用紙を運び込んでいるビデオについて、なぜ言及しないのか。

 4. トランプ氏側の異議申し立てを、全て却下した裁判所の異常な対応について、なぜ語らないのか。

  2.3.4.の点に不信感があるから、トランプ支持者たち、というよりアメリカ国民が騒いでいるのです。司会者やゲストが、これらの問題に言及した上で、トランプ氏を批判するのなら、まだ分かります。「事件の真実に迫り、真実を伝えます」と、大見えを切って始まった番組なのに、この程度の内容かと、幻滅しました。

 調べてみますと、司会の松原氏は、「サンデーモーニング」にも、コメンテーターとして時々顔を出していたことが分かりました。この番組の出演者には、ろくな人間がいませんから、納得いたしました。

 「報道の自由」には、「礼節」というものは不要なのでしょうか。私は安部氏や菅氏の批判を、自分のブログでは遠慮なくしますが、アメリカやドイツやフランスのテレビ番組で、「安倍が」、「菅が」と、貶されたら黙っていません。他国の首相や大統領を、1時間もかけて悪口を言う番組があったら、国民は怒ります。いくら報道の自由があっても、そこには「礼節」があるはずと、私は考えます。まして日本にとって、重要な同盟国の大統領です。アメリカのマスコミが、やりたい放題叩いているからと言って、今の時期に、声を揃えて騒ぐ必要がどこにあるのでしょう。

 どちらが正しいのかは、何ヶ月かすれば判明するでしょうし、判断するのはアメリカ国民です。こんな微妙な問題について、口出しするバカがどこにいるのでしょう。この調子で、国内問題についても、TBSが発信しているのかと、軽蔑しました。テレビの報道のレベルが低下したのか、もともとそうだったのか。考えさせられました。

 『昭和教育史の証言』のブログを中断し、息子たちに伝えたくなりました。

 「テレビも新聞も、彼らが口で言うほどまともではありません。」「マスコミがないと困りますが、頭から信じるのはやめなさい。」「全て、参考程度の情報です。」 

 恥や礼節を知る人間なら、もともとマスコミで働いていないのだと、最近思います。息子たちが、そんな仕事についていなかっただけでも、私は幸せ者です。

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『昭和教育史の証言 』- 18 ( 斎藤たきち氏と無着成恭氏 )

2021-01-20 16:58:30 | 徒然の記

 息子たちや、「ねこ庭」を訪問される方々にうまく伝えられるのかどうか、自信はありませんが斎藤たきち氏の証言を取り上げました。

  《   7.  斎藤たちき氏・・ 「 無着成恭とやまびこ学校 」》

 知る人の間では有名なのでしょうが、世間的には無名の人物らしく、ネットでは次のことを知っただけです。

 「山形の農民詩人、齋藤たきちさん ( 昭和10年生まれ ) が亡くなった。」

 「令和元年10月葬儀、84歳だった。」

 「彼は野の思想家真壁仁の流れをくむ百姓で、詩を書き、ものを書き、地域に根差した平和運動や文化運動、有機農業運動を作り上げてきた。」

 真壁仁氏についても、調べてみました。

 「明治40年山形県生まれ、昭和59年76才で没」

 「日本の詩人、思想家、山形県国民教育研究所所長」

 「農家の長男として生まれ、高等小学校卒業後、尾崎喜八、高村光太郎に師事する。」

 「貧しい百姓の解放を願い農民組合を結成し、生涯、社会的な活動に身を置き、このため、戦前には生活綴方事件で検挙される。」

 「戦後は、山形のため、地域の文化と芸術、教育と政治の分野で活躍。」

 「とりわけ、青年や婦人の運動に理解と援助を惜しみなく続けた。」

 「昭和59年、金日成首相の還暦に合わせて訪朝し、」「還暦を祝う詩『ペクトウの峰』を執筆。」

 「金を崇高な『ペクトウの峰』( 白頭山 )になぞらえ、その「勇気と決断」を讃美している。」

 戦前生まれの社会主義者は、テレビや新聞や、反日書籍の知識だけから、金日成や毛沢東のことを知り、偉大な人物と信じていた人間が沢山いました。情報のなかった時代ですから、致し方なしという気もします。

 これだけ情報が溢れ、毛沢東や金日成の素顔が分かるようになった現在でも、彼らを崇める反日左翼がいるのですから、笑いごとでは済ませられません。

 今回の本題は、齋藤たきち氏がこういう流れを汲む人物の一人であるという事実の紹介です。氏の証言を取り上げた理由は、氏が無着成恭氏について語っていたからです。無着氏と「やまびこ学校」は有名なので、どんな事情なのか知りたいとずっと思ってきました。

 斎藤氏の証言が、長年の疑問を解いてくれただけでなく、反日左翼の間違いも教えてくれました。長い前置きになりましたが、これを紹介するのが今回の目的です。

  ・無着成恭と私との、私的な関係から書き始めてみたい。

  ・と言っても、出身が隣村であるとか、夫人が私と小、中学校のクラスメートであったとかいったことでなく、

  ・私の精神史の一角に、重い鉛のような存在として沈澱している、内的なことについてである。

 8才年長の無着氏を呼び捨てにするところからして、興味を覚えました。同じ本の中で証人として名前を連ねているのに、同じ考えではないようです。

  ・百姓の長男として生まれた私は、百姓はあまり勉強しなくても良いとする両親の言葉に従い、通学していたから、勉強もまた面白いものでなかった。

  ・終業のベルが鳴ると、逃げ出すように校外へ出て、仲間を誘って山登り、川の魚取り、沼で泳ぐという毎日を送っていた。

  ・当時私は新生中学一年生であり、無着は山形師範学校の生徒であった。」

    雪がコンコン降る。

    人間は

    その下で暮らしているのです。

             石井敏雄

  ・という詩を巻頭詩にして、43名の生徒の生活詩、綴り方、日記を、一本に編んだ本が出版され、ベストセラーとなって読む人の胸を打った。

  ・題して『やまびこ学校』である。昭和26年の頃であった。

 私が小学校に入学した年の出版ですから、古い話です。逆に言えば、無着氏の名前と本の題名がそれほど有名だったということになります。

  ・とりわけ教育界に与えたのは、衝撃と言っていい刺激に似たものであった。

  ・新しい教育実践の灯として、バイブルのような扱いを受け、生活綴り方教育の原点として評価を不動のものとする一方、山形県教員組合は『やまびこ学校』の映画化を企画した。

  ・監督に今井正、主演を木村功にしてカメラを回した。

  ・山元村を現地ロケし完成した映画もまた好評で、全国的に上映された。

 そういうことだったのかと、氏の証言を読み続けました。久しぶりに「学徒」の気持ちになり、知ることの喜びを感じました。

  ・『やまびこ学校』の影響は、農村青年や婦人たちにも生活記録として紹介されるようになり、青年団、青年学級、サークルなどで、積極的に取り組まれるようになった。

  ・部落や村単位で始まったものが、やがて他村との交流が起こり、広い地域にわたりサークルができるようになった。

  ・『百姓のノート』もその一つで、山元村、本沢村、私の住む柏倉門伝村など、5、6ヶ村の青年たちの手によって、創刊された。

  ・無着も有力なメンバーの一人であり、彼の家 ( 寺 ) が、時折合評会の会場となって賑わった。

  ・どぶろくを湯呑みに注いで飲みながら、ロシア民謡やインタナショナルの歌を大声で歌い、教育のこと、文化のこと、村の百姓としてなすべきこと、そのために何をすべきかと熱っぽく対話するこの会は、まるで人間変革の坩堝のようだった。

  ・農村をどう変えてゆくか、そのためになすべきことを、独特の口調でエロ話を加味しながら喋る無着の態度に、火のような熱さを感じたのは私一人ではあるまい。

  ・私はそこで、農村に生きる意味と価値を、己の魂に確かに刻印した記憶がある。

  ・私が小中学校で接した教師の群れと、何と異質な教師よ。実感としての人間教師、無着成恭を知ったのは、昭和28年頃であった。

 その斎藤氏が、なぜ無着と呼び捨てるようになったのか。スペースがなくなりましたので、次回といたします。

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『昭和教育史の証言 』- 17 ( 白樺派的人道主義の功罪 )

2021-01-19 19:37:01 | 徒然の記

 『昭和教育史の証言』414ページを、読み終えました。むのたけじ氏以外の、「戦後編」14名の証言を含みます。読後の気持ちは、厳粛で陰鬱なものと、一筋の淡い光があります。14氏に共通する思想を、あげます。

  1. 東京裁判史観

  2. 白樺派的人道主義

  3. 社会改革思想としてのマルクス主義

 証言者本人は無意識ですが、14人意見を読み、私が見つけた三思想です。順番にも意味があり、彼らの反日左翼的主張をもたらしている根拠を、影響力の大きなものから並べています。私なりの理解で14人の共通点を解説しますと、次のようになります。

 〈 1. 東京裁判史観 〉

  ・日本のためにと頑張り、歯を食いしばってきたのに日本は戦争に負けた。

  ・「鬼畜米英」と信じていたのに、連合国によって裁かれむしろ鬼畜だったのは日本だった。

  ・国民は政府と軍人に騙されてきた。こんな政府と軍人は許せない。

 〈 2. 白樺派的人道主義 〉

  ・日本人は、富国強兵にばかり目を向け、日の当たらない場所にいる弱い者たちを無視してきた。

  ・部落に住む人々、在日韓国・朝鮮人、障害のある人々がそれだ。

  ・政府は立身出世主義の教育にばかり力を入れ、社会的弱者に目を向けなかった

  ・差別に泣く人々に目を向けず、差別を無くそうという努力も、しなかった。

  ・これは人間平等に反し、人道上からも決して許せない。戦前の教育の間違いだ。

 〈 3. 社会改革思想としてのマルクス主義 〉

  ・マルクス主義こそが、人間平等の社会を作る。

  ・虐げられた最下層の人間が立ち上がり、全ての不平等を無くすのだ。

  ・封建的支配階級は消えてしまう。

 3つの思想を上げる自分は、もしかするとむの氏のように、3本の毛が足りない猿の分析をしているのかもしれませんが、ともかくも3つの発見をしました。「一筋の淡い光」と表現したのは、2.番目の「白樺派的人道主義」が、どの証人の中にもあった点です。

 社会主義者が弱者に光を当て強調するのは、弱者への愛からでなく、国民の憎しみを煽り、社会を騒々しくし、騒乱の種を撒くところに目的があります。証言を読む限りでは騒乱の種を撒くと言うより、白樺派的人道主義の立場から弱者を無くそうとしていました。

 武者小路実篤の「新しい村」が失敗したように、証言者の解決策は曖昧な博愛主義で政治の現実策とはなり得ません。その証拠にソ連や中国や北朝鮮の指導者たちの中には、白樺派的人道主義はかけらもありません。

 だから「ねこ庭」では、逆にそれを一筋の光と見ました。つまり日本人らしい、曖昧な優しい人道主義です。欠点は、憎しみと敵対主義のマルクス思想と重なって見える部分が多いことです。

 〈 3. 社会改革思想としてのマルクス主義 〉

 最後にきたのが、マルクス主義です。証言者の意見を読んでも、さほどの深さはなく、お手本通りの定型的な理解です。15人全部の証言を読んだ結果として、分かったことを述べます。

  ・この本に限って言えば、むの氏は、30数名の証言者中最低の人物です。

 前回の結論と同じですが、氏の主張の中にだけ、「 2.の白樺派的人道主義」がありませんでした。白樺派的思考があると、他人ばかりを責めるのでなく、無力だったり、優柔不断だったりする自分を反省します。感傷的とか、甘いと言う批判もあるのですが、自分も傷つきながら他を批判すると言う姿勢は評価に値します。

 むの氏は愛国記事を書いた記者から、反日左翼記事の記者へ転向したのですから、古巣の「朝日新聞」と何も変わりません。自分は傷ついていませんし、彼らが取り上げる弱者に関する記事は、社会に騒乱の種を撒く目的だけで、心に響くものが何もありません。

 これが「戦後編」のまとめで、同時に本全体の評価です。残る14人の証言については、誰を取り上げどのように紹介すれば良いのか。思案しています。全員取り上げると冗長ですし、かと言ってどの証言にも、割愛し難い「真摯さ」があります。

 ここで一息入れて、頭の整理をしようと思います。

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『昭和教育史の証言 』- 16 ( 続々・むの たけじ氏の証言 )

2021-01-18 08:00:23 | 徒然の記

   《   7.  むの たけじ氏・・ 「 戦争責任を問う結び目と足場 」》

   ・教師の戦争責任を問うとは、いったい何のために、何をどうすることなのか。問題の輪郭を、できるだけ鮮明にしなければなるまい。

 243ページの叙述です。ここでもまた、氏は三つの視点を上げます。

    1. 問うべきは、ことの原因

    過程や結果の無惨さ、滑稽さをいくら並べても、それだけでは読み物を増やすだけだ。

    2. 問うべきは、問題の広さ

    教育の領域だけを抜き出して、何とかしようとしても徒労に終わる。

    3. 問うべきは、問題の長さとその深さ

    その背景にあった明治の支配体制以後の歩み、もっと遡れば、封建社会の中で培われた、日本人の思想まで視線を行き届かせる必要がある。

  ・最小限でもこれら3点を視点にしてこそ、生の手応えのある認識を、そして現在以後への道標を、獲得できるだろう。

 遠回しなので面倒ですから、「ねこ庭」がで要約しますと、氏がここで言っているのはマルクス思想です。ソ連の崩壊と中国・北朝鮮の実態を見て、空想論だったいと多くの人が気づきましたが、当時は科学的社会主義と信じられていました。氏の意見の根底に、マルクス的唯物史観、階級史観があります。

  ・戦争中の日本の教育、教師の戦争への対応は、国家という名の論理、実際には時の支配階級の要求に忠誠を尽くしたものであった。

  ・世のため人のためと思いこまされ、そう思い込んでいたのが、大勢だったと言わなければならぬ。

  ・一度目の悲劇を、同じ手順で二度目の喜劇に転嫁させないための要は、敗戦のその直後にこそあった。

  ・教師の戦争責任も、そこで浮き彫りにされるはずだった。

 一度目の悲劇は敗戦で、二度目の喜劇というのは、敗戦後に無批判に受け入れた民主主義のことを言っています。氏の意見はほとんど感心しませんが、この部分はなるほどと思わされです。一つくらいなるほどと思わされるところがなくては、紹介する気持がなくなります。

  ・それを象徴したものが、例の 『黒塗り教科書』の顛末だったと私は考える。

  ・外国から来た占領軍には、統治の方針に叛く文章を黒く塗りつぶさせたのは、彼らとしては当然だったろう。

  ・がその処置は、日本自身にとっても、教育の本質にとっても、結びつくものではなかったはずだ。」

 ここでまた氏は、得意の三原則を展開します。猿は人間より3本毛が足りないという話がありますが、無意識のうちに3という数字にこだわる氏は、もしかすると猿並みの知能なのでしょうか。

  ・教育という営みの基本構造は、先行の世代と、後進の世代と、両者をつなぐ過去の経験、という三要素で成り立つこと。

  ・即ち経験に照らして善とされるものは、それを一層発展させ、邪とされるものを廃絶するため、世代間の隙間を埋めていくことが教育の原型だとする、国際通念には間違いがないであろう。

 そんな国際通念があるのかどうか知りませんが、三要素については肯定します。「ねこ庭」が問題視するのは、善とされるものと邪とされるものの根拠が、「東京裁判」に置かれている所です。

 日本の過去は、東京裁判で邪とされたので廃絶しなければならないと言っています。戦後日本の支配者であった連合国、というよりアメリカに迎合した、売国者の意見です。

  ・教材となるものは、成功例や美談のたぐいだけではない。むしろ屈辱の、暗い過失の証言の方が、生々しい教材になるだろう。

  ・本気で戦時中のおのれに責任を感じ、本気で軍国主義と決別しようと決意したら、軍国主義で貫かれた教科書は生き証人であり、反面教師の素材となるはずだ。

 なるほどと思ったのは、この意見です。

 戦前の教科書は黒塗りにせず、廃棄処分にもせず残しておくべきでした。同時に、愚かな氏の証言も、残しておかなくてなりません。戦前の教科書と並べ、反日左翼へ転向した氏の証言を教材とすべきです。

 だから「ねこ庭」では、氏のたわ言を労を厭わずに取り上げ、反面教師の素材となるよう息子たちに遺しています。

  ・絶対君主制の中で飼い慣らされた下僕の根性は、天皇より怖いとされたマッカーサー体制の中で、一段と増幅され、統治者のスローガンを正しいと崇めた他力依存主義に埋没し、責任の問題を法要と同じ綺麗ごとで流してしまったのではないか。

 敗戦後に戦意高揚の記事を書いた自分を反省し、東北の田舎へ移り住み、今度は「東京裁判史観」の宣伝をするということで、自分の戦争責任が帳消しになったと考えています。

 反日マルクス主義者に共通する日本人蔑視の思考で、今なら聞き飽きたセリフですが、当時の人間は感心したのでしょうか。

  ・主権在民とは支配・被支配の関係の中で、死に物狂いの抵抗や戦闘を貫いて自分たちで作っていくものだという意識が、一向に根付かないで、民主主義をまるで金色のトビが飛んできたものであるかのように祭り上げている。

 日本は古来から階級、革命、闘争など、マルクス主義者の言葉の不要な国で当てはまらない国ですが、西洋かぶれの色眼鏡では日本の歴史が見えません。愛国心のない記者くずれの人物の歴史観は、所詮こんなものでしょう。

  ・今日の子は昨日の子であって、明日の母である。歴史は貫通していて、どこにも切れ目はない。

 これを言うのなら、正しくは、

  ・今日の子は昨日の子であって、明日の父と母である。・・でしょう。父と母がいて人類の歴史がつながるのです。

 それより氏はなぜ、たかが「東京裁判」の結果で、日本の過去と現在を断ち切るのでしょう。しかもそれは、戦勝国による復讐裁判に過ぎませんでした。

 「照らして善とされるものはそれを一層発展させ、邪とされるものを廃絶る」と氏は言いますが、善と邪の区別を付けたのは誰だったのか。他力依存主義に埋没し、下僕根性そのままに、天皇より怖いマッカーサーに従っている自分に、なぜ気がつかないのか不思議でなりません。

 次が最後の叙述ですが、決して認められない証言です。

  ・戦争責任を問うことは、事後の決算ではない。戦後に生まれ育ったからといって、無関係では済まされない。

  ・無関係だとこちらが言っても、未済の血債は必ず同一物での償還を求め、支払いが遅れた分だけ、一層高い利息をつけて此方に迫り続ける。

 このような氏の意見が戦後の日本に蔓延し、10年後の昭和61年の、小和田外務次官の国会答弁につながります。

 「日本は国際社会に対し、永久に謝り続けなければならない。」

 韓国政府による捏造の「慰安婦問題」「徴用工問題」は、氏のような意見を言う馬鹿者たちが誘発しました。小和田氏の意見は政府の公式見解となり、ハンディキャップ外交論と言われ、日本を苦しめ続けています。

 日本人を苦しめ続けている反日左翼思考に、さぞ氏は満足していることでしょう。氏を褒めそやす日本のマスコミ、反日左翼活動家、政治家、文化人に、「ねこ庭」が怒りを燃やす理由がここにあります。

 15人の証言者の1人が終わり、次回は別の証言です。黒塗りにせず、全て残しておくべき教育資料です。

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『昭和教育史の証言 』- 15 (続・ むの たけじ氏の証言 )

2021-01-17 16:33:22 | 徒然の記

  《   7.  むの たけじ氏・・ 「 戦争責任を問う結び目と足場 」》

  ・教師の戦争責任を問い詰める作業は、すでに労働運動、教育研究運動、ジャーナリズムの領域で、幾たびか行われました。

  ・けれどそういう反省の作業が、日本の教育の現状に、どれだけ有効に働きかけることができたか、甚だ心許なく思われる。

 これが書き出しの言葉で、変節者らしい日本人論が始まります。

  ・今の教育界は、荒廃を語ること自体に疲れた荒廃の中にあるらしい。そのどこに、歴史意識が生きているのだろうか。

  ・私たち日本人の場合状況が行き詰まると、その対応が、ほぼ三つに別れていくようですね。

   1. 状況の暗さに目をつぶり、そこから逃げようと焦る

   2. 状況の暗さに気づき、抜け道や近道を見つけようと焦る。( 本質論では間に合わないと言って )

   3. 物事の本質を、見極めようとする

 3. 番目が本題かと読みますと、これがまた日本人批判です。

  ・この人たちの合言葉は、たいてい『原点』だ。当然そこでは、戦争責任がテーマとされる。

  ・まるで周忌の法要のようにして・・ところが法要というやつは、それをやっている時、やっている当事者には厳粛でドラマチックだが、終わってしまえばケロリだ

  ・当事者以外には、ナンセンスだろう。」

 これが三番目の日本人の対応の解説ですから、首を傾げたくなります。「物事の本質を見極めようとする日本人の話」でなく、敗戦の日の特集を組む、マスコミの行為を槍玉にあげているに過ぎません。

 朝日新聞、共同通信社、NHKを筆頭に、全国のマスコミが「周忌の法要のように」8月になると大合唱します。

 「戦争の惨禍を忘れるな。」「二度と戦争をしてはならない。」「戦争の記憶を風化させるな。」と、毎年一面トップで大騒ぎします。

 こんなバカを繰り返しているのは、「物事の本質を見極めようとする日本人」でなく、氏と同じ反日マスコミです。説明は物事の本質に触れていませんが、氏は日本人の何を分析したと思っているのでしょう。

 続く文章も繋がらない叙述ですが、そのまま紹介します。

  ・のっけから悪態めいたことを述べたのは、嘆きがあるからだ。」

  ・私は日頃、20才前後の青年たちの学習会に頻繁に参加してきたが、自分の直面している問題を、先輩たちの歴史体験とつき合わせて考えようとする若者が、いないわけではない。

  ・が、そういう青年たちは、広大な宇宙の中で数えられる、わずかな星の数ほどですな。

  ・戦争体験 ?  戦争責任 ?  そんなことは、オヤジ・お袋の問題だろう。俺たちには関係ない、と言って済ませる若者の方が数えきれない。

   ・この国の青年の多くが、家庭生活で、学校生活で身につけたものは、歴史の連続をバラバラにする能力だったのかと、首を傾げてしまいます。

 冗長な文章が続きますので引用するのを止め、「ねこ庭」で要約します。氏が言いたいのは、過去を無視する若者が増えたのは、教師や大人が本気で反省していないからだそうです。

 本気で反省するというのは、「日本だけが、間違った戦争をした」「日本だけが悪かった。」という、「東京裁判」の結果を受け入れることを指しています。

 氏の意見の特徴は、結論を明確にせず遠回しに述べるところです。反日左翼でもなく、もちろん愛国者でもなく、聞き様によって変化し、なんとなく人道的なリベラルの響きがします。

  ・戦争体験を検証する作業から、そういう欠陥を除去するには、いったい何が必要か。

  ・それをハッキリさせなければと思いつつ、教師の戦争責任という主題を考えると、私は言いようがなく複雑な気持ちになる。

 ここからが、愛国記事を書いた記者からマルキシストに変貌した「むの たけじ」の証言となります。自分の反省をせず、教師の責任を指摘する意見です。

  ・戦時中のわが国の教師たちが忠君愛国の時流に巻き込まれ、その奉仕者となり、普及者となって、民族の歴史も青少年も裏切った罪過については、一点の弁護の余地もあるまい。

  ・世の中全体がそうだったから、当時としては仕様がなかったというのは、卑怯の恥の上塗りとなろう。

  ・戦時中の教育者は、教え子を易々と軍国主義に売り渡したという糾弾を、何度か見たが、これは事実認識を誤らせかねない。

  ・そういう言い方は当時の教師が無節操で、人買いの手先でもつとめたように聞こえるが、実情は逆だった。

  ・教師たちは、着ていた国民服のように糞真面目で律儀だった。だから無力だった。

  ・教え子を売り渡した、という表現が当てはまるほどの力はなかった。実際には、無力過ぎましたな。

 この文章は筆談なのか、文節の区切りに話し言葉が混じり、他人事のような口調が不快感を誘います。それなら新聞記者時代の自分は、どうだったのだ。

 「わが皇軍の行くところ敵なし。」「鬼畜米英の勢い止まらず。」と、盛んに書いた記事の責任はどうするのかねと、問い返したくなります。

 そろそろスペースが無くなりますので、今回はここで一区切りとし、次回も氏の証言を紹介します。泥棒をやめ、警官になったつもりでいるこのマルキストのいい加減さを、息子たちに伝えなくてなりません。

 それが、歴史をつなぐ親の役目ですから。

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『昭和教育史の証言 』- 14 ( むの たけじ氏の証言 )

2021-01-16 16:26:09 | 徒然の記

 最後の「戦後編」になります。副題が「教師の主体性」とつけられ、4つの章に分かれ、各章のタイトルは以下の通りです。

  1. 戦後教育の総点検 (座談会)

  2. 教師の戦争責任と戦後責任

  3. 高度成長下の差別と疎外

  4. 70年代への視点

 斎藤喜博、無着成恭氏以下、15名の人物が証言を寄せています。各氏の略歴をネットで調べますと、前回同様全員が共産主義者で、なんらかの市民活動に参加しています。「戦中編」では、15名の略歴を紹介しましたが、煩雑なので、今回は対象人物を割愛しました。

 詳細な年表を入れると414ページの本で、貴重な資料ですが、書評を終えた後は小学校の「有価物ゴミ」として出します。再生されてダンボールになるのか、トイレットペーパーになるのか知りませんが、これもまた『平家物語』です。

  奢れるものは久しからず ただ春の夜の夢の如し

 かく言う「ねこ庭」のブログも、私がいなくなった後で息子の誰かが見つけてくれなければ、パソコンと共に廃棄されます。ダンボールにもトイレットペーパーにも、再生されませんが、覚悟という大袈裟な言葉でなく諦観です。

 と、前置きをしたところで、最初の証言者を紹介します。

《   7.  むの たけじ氏・・ 「 戦争責任を問う結び目と足場 」》 

 さとみ みのる氏同様、武野 武治という漢字名があるのに、わざわざ読みにくい平仮名にしています。この本に限って言えば、こんな人物にろくな人間はいません。さらにこの本に限って言えば、むの氏は、30数名の証言者中最低の人物です。

 これについては後で述べるとし、氏の略歴を紹介します。

 「大正4年生まれ 平成28年没 101才」「東京外語大学卒、ジャーナリスト」

 「昭和15年、朝日新聞入社」「昭和20年8月の敗戦を機に、戦意高揚に関与した責任をとり退社」

 「昭和23年元旦、妻子4人を連れ、秋田県に帰郷」

 「翌月から、タブロイド版の週刊新聞『たいまつ』を創刊」

 「反戦の立場から、言論活動を開始」「以後、昭和53年780号で休刊するまで続けた」

 責任をとって朝日新聞を退社し、妻子と共に郷里へ引っ込んだと、この潔さを戦後の反日左翼がこぞって賞賛しました。氏が亡くなった時は、多くの新聞が称える記事を掲載し、彼こそがジャーナリストの良心を守った新聞人だと手放しの賞賛でした。

 特派員として中国戦線へ行き、日本の戦略戦争を無批判に肯定し、国民に間違った記事を送ったと反省の弁を述べていました。田舎へ引っ込んだ行為は、個人として立派だと思いましたが、後の行動に疑問が残りました。

 「反戦の立場から、週刊新聞『たいまつ』を創刊」し、言論活動を続けたと言います。これは「ねこ庭」では、前回取り上げた伊藤静夫氏の姿と重なります。敗戦を機に愛国から反日へ変身し、「心から平和を訴えた」という浅薄な教師とどこが違うのでしょう。

 日本の将軍の中には、敗戦を機に郷里へ戻り戦いに散華した兵たちの冥福を祈り、それで生涯を終えた人物が多くいます。戦意高揚の記事は将軍の責任に劣らないのですから、本当に反省するのなら、祈りの後半生だろうと私なら考えます。

 しかるに氏はこともあろうに言論活動を開始し、戦争賛成から反対へと真逆の主張を発信し、どうやらその根拠がマルクス主義です。

 「私はかって泥棒でしたが、今は大いに反省して警察官になりました。」・・と、氏の行為はそれに似ています。

 11ページも使い、意見を述べていますが、無恥と無知の塊のような話です。記者時代の回顧もありますが、何を語っているのやら、反省の色はありません。朝日新聞の社長が、「慰安婦問題」の誤報を詫びた時に似ています。

 詫びの気持ちはどこにもなく、言い訳と誤魔化しで終始し、その直後に辞任したから、謝っていたのかと分かったくらいでした。

 そんな氏が、戦時下の教師の責任問題について語るというのです。具体的な中身は次回から紹介しますが、氏を批判しない反日左翼の人間と、「お花畑の住民たち」こそが、「反省の足りない日本の現実」を表しています。

 科学的社会主義の正しさこそが絶対という、マルクス教信者の画一性と単純さの恐ろしさを、この本ほど教えてくれるものはありません。

 国論を二分している米国の大統領選挙で、アメリカの人々が苦悩している現実を無視し、バイデン氏側の報道だけを信じている今の日本人も、この本の出版に似ています。

 米国を真似、日本の主要メディアは、バイデン氏側の不正事実を国民に伝えません。我欲のため敗北を認めず、国民の対立を深め、アメリカを混乱させているのはトランプ氏だと、ネットを見ない人々はそう思わされます。

 表現が悪いのですが、トランプ氏とバイデン氏の戦いは、「狐と狸の化かし合い」です。アメリカが大国であるだけに、世界を巻き込んだ政争になりつつあり、日本も無関係でおれません。大事なのは双方の言い分と事実を並べ、冷静に観察し続けることです。

 日本のマスコミが全てバイデン側に立ち、バイデン擁護の報道をしているため、国民の判断が歪められています。「ねこ庭」はトランプ氏を擁護しているのでなく、公正でないマスコミ報道を批判しています。

 『戦後教育史の証言』も、米国大統領選挙と似ています。偏った証言を集めた本が国内に溢れたら、国民の判断が歪められます。

 「ねこ庭」の思いを受け止められた方は、次回も「ねこ庭」をご訪問ください。

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『昭和教育史の証言』 - 13 ( 伊藤静夫氏の証言 )

2021-01-15 15:37:51 | 徒然の記

 大学教授や学者でなく、今回は普通の人物の証言を紹介します。普通の人ですから略歴も簡単で、証言も3ページしかありません

  6.  伊藤静夫氏・・ 「 陛下のために死ぬ教育 」》

 「昭和11年岩手県出身、 84才」「小学校教諭」・・著名人でないためネットで探せず、巻末の備考にこれだけ書かれていました。

 氏は私と同じ満州の生まれで、略歴が「岩手県生まれ」でなく、「岩手県出身」となっているのは、そういう意味だそうです。

 私の生年月日は、戸籍上は昭和19年1月1日になっていますが、正しくは昭和18年12月9日です。どうして、1月1日になったかについて、何年か前にブログで説明しました。どうでも良いことなので、戦時中の寓話の一つとして追加しておくことにします。

 「12月8日」は、反日左翼には悪名高い「真珠湾攻撃の日」です。今そんなことを言う人は誰もいませんが、戦前は「戦勝記念日」と呼ばれる目出たい祝日だったそうです。

 「昭和18年12月8日」が私の産れる予定日だったので、郷里の祖父は心待ちにしていたそうです。父が長男でしたから、無事生まれれば私は長男の長男になります。今は長男に特別の意味がなくなりましたが、昔の長男は家督相続の第一人者で、大事にされたと聞きます。

 ところが私は、「戦勝記念日」の1日遅れの12月9日に生まれました。がっかりした祖父は、その次に目出たい日を探し、日本全国民が祝う1月1日に決めたとそんなふうに聞きました。

 嘘のような本当の話ですが、昔の人はいい加減だったのか、おおらかだったのか、これが私の誕生日です。そのせいか、今も私にはいい加減なような、大らかなような、自分でも分からない部分があります。

 ちなみに戸籍謄本の記載を確認しますと、私の出生届を受け付け、日本へ送付したのは満洲国特命全権大使だった梅津美治郎陸軍大将です。なんともいかめしい、歴史的記録です。

  ・私は昭和11年1月13日、満州国三江省で生まれた。この年日本では、あの有名な『2・26事件』のおこされた年である。

 これが、伊藤氏の証言の書き出しです。この人も私のように、歴史上の大事件と、自分の誕生年を結びつけています。

 同じ満州生まれというだけでなく、信念のない軽さまで似ているので、親しみと共に腹立たしさを覚えます。氏は周囲の状況が変化すると、疑わず自分も一変するという、典型的な「お花畑の住民」です。

 反日左翼を親の仇のように嫌悪している私ですが、5、6年前まで、40年以上朝日新聞の定期購読者だったので、氏に似た軽薄さを引きずっています。そのせいもあり、代表として氏の証言が紹介したくなりました。

  ・このような年に生まれた私は、いっそう自分を、戦争と切り離して考えられない人間となった。

  ・私は、国民学校の教育を4年も受けたし、その後1年2ヶ月ではあったが、敗戦のため、引き揚げ生活を体験させられたからである。

 このように前置きし、国民学校時代の忘れられない思い出を7つ上げます。

  1. 儀式や朝礼のたび、真っ白な手袋をはめた校長が最敬礼をして読んだ「教育勅語」のこと

  2. 歴代天皇の名前を、「神武、綏靖、安寧、懿徳・・・」と丸暗記させられたこと

  3. 寄宿舎で就寝前に正座させられ、「軍人勅諭」を先輩たちに暗唱させられたこと

  4. 体育の時間に、零下20度を越す寒さの中で、裸足でさせられた総攻撃の戦いのこと

  5. 運動会で、「鬼畜米英をやっつけろ」の合図で、ルーズベルトやチャーチルの顔をつけた藁人形を、竹槍で突いたこと

  6. 音楽の時間では、軍歌ばかり歌っていたこと

  7. 何かのことで担任の先生からピンタをくらい、左右に体が倒れそうになっても、不道の姿勢を取らされたこと

   ・そして私自身、大きくなったら立派な強い兵隊になって、天皇陛下のため、国のために死ぬ ! と、本気で考えていたのである。

   ・以上思いつくまま当時の様子を述べたが、あらゆる場と機会を捉え、徹底した軍国主義教育がなされていたことに、今更ながら驚くばかりです。

 敗戦後になって氏はこのように考えましたが、国民学校時代にはそう思っていません。楽しい思い出でなかったとしても、日本が敗戦していなかったら氏は軍国少年のままだったはずです。

   ・しかし敗戦という大きな歴史の転換の中で、『絶対日本が勝つ』『神風が吹く』『天皇と国のため死ぬ』ということは、完全に打ち砕かれてしまった。

   ・いったい私にとって、国民学校とはなんだったのか ? 

  氏は自問自答し、最後の言葉として次のように締めくくります。なんと氏は愚かな教師かと、呆れるしかない軽薄さです。

   ・私は今、岩手県北の僻地校に勤務しているが、富も名誉も捨てただ一筋に、『日本国憲法』と『教育基本法』をもとに、

   ・『教え子を再び戦場へ送らない』、『誰にも引き揚げ生活を、体験させたくない』を念頭に置き、何よりも命を大事にして、心から平和を願いながら、子供たちを育てていきたいと北上山地で生きている。

 氏のように、敗戦のショックで愛国から反日へと、大きく振れた日本人が無数にいました。当時の普通の日本人だったのかもしれませんが、問題なのは、氏が教師だったことです。無節操な教師に育てられる生徒の不幸が、目に浮かびます。

 軽薄な氏の証言を恥じることなく収録した、「教育証言の会」の編者たちも、似たような人間だったのでしょうか。私が編集者だったら、このような証言はみっともなくて採用しません。「教育証言の会」の編者たちの薄っぺらさが、推し量られます。

 「戦中編」を今回で終わり、次回は「戦後編」へ進みます。

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『昭和教育史の証言 』- 12 ( おまけ・橋川文三氏の意見 )

2021-01-15 07:34:13 | 徒然の記

 中内氏と考えの似た学者がいて、「ねこ庭」で取り上げた記憶がありましたので、探しました。

 平成30年9月に読んだ、昭和43年出版の『ナショナリズム』という本でした。

 著者は元共産党員で、執筆当時は明治大学の助教授だった橋川文三氏です。大正11年生まれですから、存命になら98才です。昭和5年生まれの中内氏には、先輩の左翼学者になります。

 「ねこ庭」では、郷土愛の延長にあるのが祖国愛だと考えていますが、橋川氏は厳格に区分しています。著作を転記すると長くなりますので、ポイントを箇条書きにします。

  1. 郷土愛の個人と、祖国愛の個人は全く別である。

  2. 郷土愛の個人には誰でも無自覚のうちになれるが、祖国愛の個人は簡単になれない。

  3. 祖国愛の個人は、自由と権利に目覚め、意思表示をする人間でなくてはならない。

  4. 目覚めた個人が、所属する集団に対し共に生きる契約を交わすところから、「祖国愛」が始まる。

  5. 愚昧な個人が、漠然と存在しているところに祖国愛は生まれない。

 こんなややこしい理屈を考えた出したのが、ルソーだそうです。ルソーがこれを『社会契約論』として、世に出したのが、1762年です。

 氏の説明では、1789年のフランス革命において、ルソーのいう個人が初めて生まれ、革命を達成したとなります。ですから、フランス革命以前のフランスには個人が存在しなかったことになります。聞いたこともない話ですが、本当なのでしょうか。

 フランス革命は、王政を倒したブルジョア革命と言われていますが、別に市民革命とも呼ばれています。

 氏の言う自由と権利に目覚め、意思表示をする個人というのがこの市民です。

 ルソーの著書が出版された時、日本は江戸時代で9代将軍徳川家重の治世でした。フランス革命があったのは、松平定信が奢侈に溺れる武家と町人を戒めようと、「寛政の倹約令」を出した時です。

 その頃の日本には自由と権利に目覚め、意思表示をするフランス式の個人はいませんでした。幕末、明治になっても、そんな個人は現れませんでした。

 日本には日本の歴史と文化があり、別の思想がありましたから、フランス式の目覚めた個人の出る幕がなかったのです。長々と橋川氏の意見を引用しているのは、中内氏との共通思考があるからです。

  ・ブルジョア革命を経ないまま近代国家に仲間入りした日本では、このような事態は、遂に、ただ一度も存在しなかった。

  ・この歴史的経験の欠如が、ものごとを考えにくくさせている。

 日本の革命は常に上から与えられたもので、国民の意識は低く、自我に目覚めていないという考え方が、二人の共通思考です。橋川氏は後に保守へ「先祖返り」した学者ですが、かってのマルキストですから、「目覚めた個人」に関する理解は中川氏と同じです。

 日本は古来から、自由と権利に目覚め、意思表示をするフランス式の個人が必要のない国でした。フランス式に目覚めた個人がいないというのは、日本の後進性でなく、日本の文化であり、歴史であり、特質です。「ねこ庭」では、田中英道氏の講義を聞いたり、「温故知新」の読書で教わったりした結果として理解しました。

 マルクス主義者というより、いつまでも「西欧崇拝」を克服できない学者の存在が、日本の文化や学問への卑下につながっていると考える方が、正しいのかもしれません。

 日本を激しく否定する反日左翼学者と、極端に日本を称賛する保守学者の、いずれも「ねこ庭」では尊敬しません。「過激なものには、真実が無い」というのは、「温故知新」の読書の教えというより、77年生きてきた私の経験です。

 もっと言えば、自分の中にある「ご先祖の知恵 ( DNA ) 」ではないかと、そんな気がしています。

 突然橋川氏の意見を割り込ませたため、中川氏の証言はまだ少し残っていますが、大事な部分には橋川氏の紹介で目的を達しました。

 過激な批判の中には真実が無いのですから、中川氏の紹介をここで終了します。あと14名の証言も同様の過激な批判なので、後一人だけを紹介して、「戦中編」を終わりたいと思います。退屈しても構わないという人は、次回の「ねこ庭」へお越しください。

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『昭和教育史の証言』 - 11 ( 中内敏夫氏の証言 )

2021-01-14 17:45:29 | 徒然の記

 《   5.  中内敏夫氏・・ 「 大戦下軍国主義教育の構造 」》

 今日から、「戦中編」の本論に入ります。一番目の証人は、中内氏です。

  ・国民学校の教育は皇国主義の教育であるが、内容は軍国主義であったと伝えられている。

  ・それはどのような教育を指しているのか、歯を食いしばれ、股をひらけといった、当時軍隊で行われていたと同質の、教師による子供へのたえざる体罰、上級生の下級生に対する同様の制裁、それが、皇国の道を盾にとった事実上の私刑に過ぎないことの証明であった。

  ・学校と親、学務官僚と校長、教師と子供、上級生と下級生等々、人間関係のあらゆる部分に現れた絶対的な命令と服従の関係、このような事態が、軍国主義教育と呼ばれている。

  ・権力をかさにきた恫喝とゆすりのレトリック、公私混同の倫理、これはとても教育と言えたものではない。

 本論に入る前に、読者が知っておかねばならない事実があります。軍国主義教育の説明をしているのは氏ですが、これは国民学校にいた時の意見ではなく、昭和51年の本の出版当時の意見だということです。この時の氏はマルクス主義者で、大学の教授でした。 

 子供たちの中に、「後出しジャンケン」という言葉があります。相手が出した手を見た上で、ジャンケンをするずるい子供を指す言葉です。

 氏は戦争に負け、東京裁判で裁かれ、「間違った戦争をした悪い国」と、完膚なきまでに叩かれた戦後の日本で、過去の批判をしています。共産党がGHQの支援で蘇り、朝日新聞とNHKが反日左翼の上着に着替え、大手を振って歩いている時の意見です。

 戦前に黙っていたことを、安全になった戦後にしゃべっているのですから、「後出しジャンケン」そのものです。ここを知った上で、氏の説明を紹介します。

  ・戦後日本で軍国主義教育の反対語になっているのは、民主主義教育である。

  ・この原型を作ったのは、占領軍の諸指令である。占領軍は、軍国主義という言葉を使って戦中日本を解体し、これに代わり民主主義という言葉を対置させた。

  ・しかしこの論法を文字通りに受け取り一般化しようとすると、いくつかの説明のつかないことが起こってくる。

 氏は、軍国主義を単純に否定した戦後の日本に生じる、説明のつかない二つの国民像を例示します。

  1. フランス革命で現れた、武器を持つと同時に愛国者であった市民像

  2. 社会主義革命で現れた、自身が軍となり社会主義革命を成就させた人民像

 氏が高く評価しているのは、フランス革命を実現したフランスの国民と、ロシア革命を成し遂げたロシア国民の2つです。

  ・ブルジョア革命を経ないまま近代国家に仲間入りした日本では、このような事態は、遂にただ一度も存在しなかった。

  ・この歴史的経験の欠如が、ものごとを考えにくくさせている。

 明治維新は民衆が起こしたものでなく、上から与えられた変革でしかなかった。日本国民の意識は低く、自分というものに目覚めていないというのが、彼らの決まり文句です。

 学生時代の自分はこうした意見に惑わされ、日本人の意識は遅れていると長い間思っていました。しかし今の私は、後期高齢者です。「温故知新の読書」で沢山学びましたから、昭和51年の氏の意見は、反日左翼学者たちの聞き飽きた意見の一つでしかありません。

  ・ブルジョア革命を経ないまま近代国家に仲間入りした日本では、このような事態は、遂にただ一度も存在しなかった。

 まるで日本が後進国のように説明しますが、革命を起こすように事態が一度も存在しなかったのは、氏の説明とは逆に、フランスやロシアに比べ日本が良い国だった証明なのです。

 一揆や打ち壊しなど、百姓がむしろ旗を立てお上と戦った記録はありますが、フランスはロシアのような長期にわたる残虐な殺し合いはほとんどしていません。後出しジャンケンの学者らしく、好き放題の理屈で若者を惑わせますが、いわばマルクス主義は、一神教の国で生まれた「異教」のようなものです。

 八百万の神の住む日本には不要な思想で、日本の歴史と文化の中では革命や民兵、武装テロの必要がなかったと考える方が妥当な気がします。学生の頃なら感心したのかもしれませんが、革命を起こす国の人間を評価する氏は、根本から間違っています。

 戦争を否定し、軍国主義を酷評する氏が、フランス革命とロシア革命を称賛する矛盾をなんと考えているのでしよう。

 武器を手に立ち上がった国民を、民兵といい、兵士と言い、その集団を軍隊と呼びます。日本で革命を起こそうと考えている彼らなのに、自衛隊の武器やその存在を否定しています。この矛盾については、いつも黙って誤魔化しています。

 爪を隠した今の彼らに比べますと、戦前の共産党は正論を言っていました。

 「日本で政権を奪取したら、共産党は自衛隊を解体して赤軍を作る。」

 数の少ない共産主義国は敵国に囲まれていますから、戦うための軍隊が要ります。崩壊する前のソ連と、現在の中国や北朝鮮の軍は、外敵への備えだけでなく、国民を弾圧するための軍でもあることを多くの人が知っています。

 そもそも国民弾圧の軍がなければ、共産党政権が存続できないということは、現在の世界で ( 日本以外で ) の常識です。

 「平和憲法を守れ」「日本から、軍国主義をなくせ」「軍隊はいらない」「そんな金があれば、福祉に回せ」「教え子を、再び戦場に送るな」

 戦後75年間、共産党を先頭にこんな主張を叫んできた彼らが、今更このような本を出版しています。日本をおかしくした原因の半分以上が彼らにありますが、自分の間違いを認めないのが共産主義者ですから、氏も同じです。自分過ちに触れず、例示した2つの国民像不在の原因と責任を、他に転嫁します。

 スペースがなくなりましたので続きを次回としますが、左翼学者の意見と反論する後期高齢者の意見と、いずれにも退屈した方はスルーしてください。

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『昭和教育史の証言 』- 10 ( 反日・左翼15人の証言 )

2021-01-13 14:02:23 | 徒然の記

 「戦中編」には、15人の証言が収められています。本書の区分によりますと、「戦中」とは、昭和16年の7月に「国民学校令」が公布され、従来の小学校が廃止となった時から、昭和20年8月の敗戦までの約4年間です。

 この時期の国民学校の生徒たちの、経験談がまとめられています。15人の証言者は自分の経験を述べていますから、嘘を言っているのではありません。読むと戦前の日本を嫌悪し、軍国主義と天皇絶対主義を批判したくなります。

 前回までは、証言者が反日左翼の学者たちでしたから遠慮なく反論しましたが、今回は当時の小学生だった人々という説明なので、大人しく読みました。「自主憲法の制定」「皇室護持」という日頃の願いが、戦中の再来を招くのだとしたら ?・・と、そころまで思いが行きました。

 証言者たちはどういう人なのだろうとふと疑問が生じ、略歴をネットで探しました。コメントは後ですることにしてその結果が下記で、息子たちと「ねこ庭」を訪れる方々に先ず紹介します

  1.  中内敏夫氏

 「昭和5年高知県生まれ、 平成28年没、90才」「日本の教育学者、東京大学大学院卒、」「一橋大学名誉教授、明治期教育史等研究」

 2.  安川寿之輔氏

 「昭和10年兵庫県生まれ、 85才」「日本の市民運動家、社会思想研究者」「名古屋大学名誉教授」「不戦兵士・市民の会副代表理事、韓日平和100年市民ネット共同代表」

 3.  赤嶺秀光氏

 「昭和23年沖縄県生まれ、 72才」「フリーライター」

 4.  山中恒 ( ひさし ) 氏

 「昭和6年北海道生まれ、 89才」「早稲田大学卒、作家、児童文学家」

 5.  本間芳男氏

 「昭和8年新潟県生まれ、 87才」「小学校教諭、日本児童文学者協会会員」

 6.  伊藤静夫氏

 「昭和11年岩手県出身、 84才」「小学校教諭」

 7.  山川久三氏

 「昭和4年高知県生まれ、 91才」「県立高校教諭」「詩人」「昭和40年、中国大連にて日本語学校勤務」「翌年、文化大革命にて帰国」

 8. 橋本寛之氏

 「昭和8年大阪生まれ、87才」「大阪大卒、県立高校教諭」「大阪文学学校講師、阪南大学教授」

 9.  川崎彰彦氏

 「昭和8年群馬県生まれ、平成22年没、77才」「日本の詩人、作家」「早稲田大学卒、北海道新聞記者」「退職後、大阪文学学校講師」

 10.  清水清一氏

 「昭和7年岩手県生まれ、 88才」「中学校教諭」

 11.  林 一夫氏

 「昭和8年北海道生まれ、 87才」「編集者」

 12.  槙美宝子氏

 「昭和10年東京生まれ、 85才」「主婦」

 13.  奥田継夫氏

 「昭和9年大阪生まれ、86才」「児童文学作家、評論家、翻訳家」

 14.  新村徹氏 

 「昭和11年京都生まれ、84才」「桜美林大学講師」

 15.  和田多七郎氏

 「昭和10年秋田県生まれ、 85才」「高校教諭」

 12番目の槙美宝子氏を除きますと、他の人々はマルクス主義者、あるいはその親派でなんらかの形で反日活動に関係している著名人でした。本当の一般人であれば、ネットで検索して略歴が見つかることはありませんので、15人は経歴を隠して選ばれた人物ということになります。

 本は、昭和51年に「教育証言の会」が編纂・出版したものですが、このように姑息な工夫をしていました。履歴を調べたのは偶然でしたが、本の恐ろしさと活字の持つ力を今回ほど感じたことはありませんでした。

 冷静に考えると、やはり自分の経験と常識の方が勝ることが証明されています。15人は口々に当時の教師や、学校や、大人たちの酷さをを批判しますが、私は両親や周りの大人たちに、そんな思いを抱いた記憶がありません。

 証言者たちの言う狂ったような日本が事実だったのなら、同じ時代を生きた自分が、周囲の大人に狂気を感じなかった不思議さがあります。

 昭和16年から昭和20年8月までの話だとすれば、昭和18年12月生まれの私が母に背負われ、満州から引き揚げている時と重なります。昭和20年8月以降日本はGHQに統治され、政府や軍の悪口が何でも言えるようになっていました。ですから、証言者たちの言うひどい話が、子供だった私に何も伝わらなかったという不自然さが生じます。

 これだけの人数が口を揃えて批判をすれば、読者は知らぬうちに証言を信じてしまいます。嘘は言っていないのでしょうが、15人は事実を「針小棒大」に語り、戦時中の日本を捏造しています。同書がしているのは、いわば「情報操作」でしょう。

 現在の日本で、「トロイの木馬」である反日のマスコミが声を揃えて捏造報道を拡散し、国民の多くが信じている構図に似ています。

 今回は情報を得るため回り道をしましたが、次回から具体的な証言の話に入ります。

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