ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『昭和教育史の証言 』- 9 ( さとみみのる氏の寝言 )

2021-01-12 23:21:58 | 徒然の記

 《   4.  さとみみのる・・ 「 東井義雄における聖戦の意味 」》

 前回からの続きです。紹介のため再読していますと、読み落としや、早とちりの部分を発見します。91ページの文章がそれです。

  ・このうちなる自然、つまり『いのち』の発見こそは、かって『赤色がかった』時代を持つ東井に、決定的な回心の契機をもたらしたのであった。

 つまり東井氏は、久野氏の表現を使えば、逆転向した左翼教師の一人だったことになります。エロチシズムまで持ち出し、何としてでも東井氏を酷評せずにおれないさつみ氏の心情がこれで少し理解できました。

  ・ちなみに私は思うのであるが、男不在の戦時下の農村は、父性的な教育理念が浸潤しにくい場と化していたのではなかろうか。
 
  ・少なくとも教育に対する母親の影響が、かってないほど比重を増しつつあったことは、東井の著書からも推察されるところである。
 
  ・東井自身その思想的感覚が際立って女性的であることは、既に見た通りである。
  ・前線に散華する父親のイメージは、決して東井のものではない。彼の教育実践は、体質的には、むしろ銃後の母親のそれであろう。
 
 こうして氏は、東井氏が書いた「鮭の詩」を紹介します。長いので省略しますが、どこまでも川を遡り、傷つき、疲れ果て、やっと卵を産んだかと思うと、力尽きて死んでしまう鮭の生涯です。
 
 冒頭に紹介された農村の母親の話もそうでしたが、東井氏の著書には、母親についての文章が多いのかもしれません。。息子たちへ戦場へ送り、乃木大将の戦死した子息のことを語る母の姿でした。
 
 祖国の危機存亡のとき、教育者が前線の父親のことを語ろうと、銃後の母について述べようと、そこにどんな違いがあるのでしょう。大事なのは、「永遠のいのち」につながるもののため、身を投げ打って戦う愛国心です。
 
  海ゆかば 水漬く屍
  山ゆかば 草むす屍
  大君の 辺にこそ死なめ
  顧みはせじ
 
 これは海軍 ( 海上自衛隊  ) が、大事な式典の時演奏する「海ゆかば」の歌詞です。元歌は大伴家持、作曲したのは信時潔氏で、「君が代」に次ぐ「第二の国歌」とも呼ばれているそうです。海や山で屍 ( かばね  ) を晒しても、国を守り、天皇のため死ぬのなら本望だという、兵士の心を歌ったものです。
 
 大友家持は、今から約1200年前の奈良時代の公卿、歌人で、大伴旅人の子です。ウィキペディアによりますと、『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大友氏は大和朝廷以来の武門の家だそうです。
 
 この場合の大君 ( おおきみ ) は個別のお方であるとともに、国民の敬愛の中心にある歴代天皇のことでもあります。兵士たちは、天皇を通して父祖の地である国を思い、家族を思って戦いました。歌われているのは、自分を超えた『大いなる命』と繋がっているという思想です。
 
 崇高な愛国心を感じ取りますが、さとみ氏はこのような兵士の姿も低俗なエロチシズム論で説明するのでしょうか。

  ・東井が戦ったその相手とは、いったいなんであろうか。実体的には西欧的近代であり、その本質をなす人間主義、個人主義であったと思われるが、より内面に立ち入ってみれば、東井のうちなる呪詛の対象は、子の成熟という事実そのものでなかったかと思われる。

 氏の説明によると東井氏が戦ったのは、西欧的近代主義、人間主義、個人主義だそうです。引用された文章からは読み取れませんでしたが、あるいは、そうした叙述があったのでしょうか。

  ・西欧的近代主義は、非常な刃で、母と子の肉感的な結合を断ち切るであろう。母親は成長した息子が、自分とは違った存在になっていくことに耐えることができない。

  ・母親は、悲嘆の声をあげる。内密な強制感を破壊するこの凶暴な力、まさにこれこそが、東井が全存在をかけて排撃すべき当のものだったのである。

 繰り返しますが、引用された詩や文章からは読み取れません。国のために戦う息子を語る母親の言葉を、普通に読む限り、氏の解釈は出てきません。

 ・西欧的近代主義は、非常な刃で、母と子の肉感的な結合を断ち切るであろう。

 さとみ氏は、この言葉で何が言いたいのでしょう。幕末以来アジア諸国を武力で侵略した欧米列強のことを、「西欧的近代主義」とでも言っているのでしょうか。

 ・より内面に立ち入ってみれば、東井のうちなる呪詛の対象は、子の成熟という事実そのものでなかったかと思われる。

 東井氏の文章のどこに「呪詛」という忌まわしいものを感じるのか、兵士となって国に殉じる青年の姿のどこに呪詛しているというのか。読者不在の文章を書き、自分の言いたいことだけを言う反日学者・・、私には里見氏が不可解なままです。

 息子たちに紹介する意味もない、寝言としか受け取れません。理解する気もありませんので、ここ107ページで「戦前編」を終わりとします。

 次回から、「戦中編」の紹介になります。

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『昭和教育史の証言 』- 8 ( さとみみのる・東井義雄両氏の証言 )

2021-01-12 15:58:36 | 徒然の記

 《   4.  さとみみのる氏・・ 「 東井義雄における聖戦の意味 」》

 里見実と漢字の名前があるのに、わざわざ読みにくい仮名書きにするところからして、変わった学者なのでしょう。ネットで検索した略歴を、紹介します。

 「昭和11年東京生まれ、85才」「東大大学院修了」

 「國學院大学名誉教授」「第三世界の民衆文化運動の翻訳や、紹介もしている」

 氏の証言は教育家である東井義雄氏への批判で終始しますので、東井氏の略歴も調べました。

 「明治45年兵庫県生まれ、 平成3年没、79才」

 「日本の教育者、浄土真宗僧侶」「昭和7年、姫路師範学校卒」

 「小学校教師として奉職、多くの著作を著す」

 東井氏が左翼教師でなく愛国教師の一人だったため、気に入らなかったのでしょうか。里見氏の名前も東井氏の名前も今回初めて知りましたので、なぜ氏が東井氏を批判するのか、詳しい事情を知りません。

 違和感のある証言なので、あえて紹介する気になりました。「ねこ庭」を訪問された方々は、それぞれでご賢察ください。

  ・大いなる戰の最中にあって、日ごとに深しめられる痛切の思い。それは、私が生きているということ。

  ・私の命をいただいているということの、ただごとでなさの思いである。誠にこれは、ただごとではない。

  ・しかしなんという、鈍感さであったのだろうか。生まれて、30年。私は、生きることが当たり前のことであるかのように生きた。当然、生きる権利があるかのように生きた。

 さとみ氏の証言は、この東井氏の著書の引用で始まりました。

  ・東井義雄『学童の臣民感覚』の、冒頭の一節である。この書物が刊行されたのは、昭和19年。おりしも戦争は、破局を迎えつつあった。

  ・自分の命が、自分を超えた『大いなる命』と繋がっているという思想は、この書物の主役をなすものと言ってよい。そしてこの命の自覚をもたらしたものは、なんと言っても戦争と、その中での死の想念であったと思われる。

 昭和19年といえば、私が満洲ハイラルの無号地で生まれた年です。すぐに敗戦となり引き揚げて来ましたが、その年にこのような本が出版されていたと知りますと、感慨深いものがあります。

 里見氏が引用する東井氏の説明を、そのまま紹介します。( 略歴にある通り、東井氏は寺の住職でした。)

  ・私の村に、〇〇〇〇という婦人がある。農を業としている。

  ・支那事変では、長男をお国に捧げた。その婦人が、私にしみじみと語ったことがあった。

  ・乃木大将さんは、二人の息子さんを戦死させなさった。日露の戦争では、たくさんの兵隊さんが戦死されて、お国を守ってくださった。そのおかげでわしらは、今まで生きさせてもらっとるのに、なんとも思わんとおりました。

  ・そしたら息子が死んで、ああわしは、なんというもったいない恩知らずだったろうかと、初めて気づきました。

  ( 中 略  )

  ・その夫人の次男は、今また、死んだ父と戦死した兄の法名と、母の写真を胸につけて大陸で戦っている。

  ・腕白者を長い間親切にしていただいて・・と、と彼は、鎮守の森の庭で挨拶をして征った。胸にある父と兄の法名は、私が書いたものであることを思い、彼が言った腕白者を長い間という挨拶を思い、私は胸が迫った。

  ・私が法名を渡した時、これで生きても死んでも大安心ですと、彼は静かに笑った。

 戦前の日本には、こういう母親と僧侶のような人物が日本のあちこちにいたと、教えられました。そしてここから、さとみ氏の東井氏批判が始まります。

  ・殉国の死は、少なくとも建前としては少年の夢であった。この時期の東井の実践も、おもむくところは『死にがい』の追求であった。

  ・死とは何か、それは民族の本念の『いのち』への回帰とみえた。死の中に彼は、大いなる生をみる。死が証しだてる『無窮のいのち』、それに連なって生きることの喜びを東井はうたいあげてやまない。

 自分の命が、ご先祖以来の『無窮のいのち』に繋がっているという思いは、私たちの中にある自然な気持です。「個人は個人でありながら普遍の存在であり、遡れば祖先に繋がり、歴史に繋がっている。」と、以前本で読みました。東井氏の思いは日本人の心とも言え、共感はあっても違和感を覚えません。

 しかし、里見氏は違います。

  ・戦時期の東井の思想を一語に集約すれば、それは一種のエロチシズムであったと言っても良いと思う。

  ・まことにバタイユが言うようにエロチシズムとは、死にさえも至る生の謳歌なのだ。

  ・魂は自我を離れ、愛するものと一体となる。この没我を完成するものは死であり、死はエロスの究極の形となる。

 久野収氏もいい加減愚かな左翼でしたが、さとみ氏も負けず劣らずの左翼です。大体こんなところで「エロチシズム」などという場違いな言葉が、どうして出てくるのでしょう。辞書で調べみたら、次のように説明しています。

  ・エロチシズムとは、性愛・ 情欲をよび起こす性質。

  ・芸術作品などでするそのような傾向の表現。例えば、 エロチシズムを漂わせる裸婦像など。

 氏は違った意味で使っているのでしょうが、私のような一般庶民の理解は辞書の説明と同じ理解です。東井氏の書を読みエロチシズムを連想するというのは、さとみ氏の人格が歪んでいるからです。彼が引用しているバタイユを、ネットで検索してみました。

  ・ジュルジュ・バタイユ ( 明治30年 ~ 昭和37 )

  ・フランスの哲学者、思想家、作家。

  ・研究分野は、形而上学、認識論、死・性の哲学、エロチシズム

 今の日本もそうですが、野心を抱く学者は自分のおかしな意見の権威づけに、欧米の著名人の論を持ち出します。すると世間はそのおかしな意見を、たちまち素晴らしいものであるかのように称賛します。今でさえそうですから、本の出版された昭和51年頃はさらに欧米人が有難がられていたのでしょう。

  ・この没我を完成するものは、死であり、死はエロスの究極の形となる

 バタイユの文章を読めば、こんな意見もあるのでしょうが、東井氏への批判に使うとすれば、「冒涜」ではないでしょうか。

 東井氏と関係のない自分ですが、里見氏の批評に憤りを覚えます。氏のような人物は日本にとって「獅子身中の虫」で「駆除すべき害虫」でないかと思います。大事な息子と可愛い孫たちのため、次回に反論を試みようと思います。

コメント (2)
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