ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『昭和教育史の証言』 - 13 ( 伊藤静夫氏の証言 )

2021-01-15 15:37:51 | 徒然の記

 大学教授や学者でなく、今回は普通の人物の証言を紹介します。普通の人ですから略歴も簡単で、証言も3ページしかありません

  6.  伊藤静夫氏・・ 「 陛下のために死ぬ教育 」》

 「昭和11年岩手県出身、 84才」「小学校教諭」・・著名人でないためネットで探せず、巻末の備考にこれだけ書かれていました。

 氏は私と同じ満州の生まれで、略歴が「岩手県生まれ」でなく、「岩手県出身」となっているのは、そういう意味だそうです。

 私の生年月日は、戸籍上は昭和19年1月1日になっていますが、正しくは昭和18年12月9日です。どうして、1月1日になったかについて、何年か前にブログで説明しました。どうでも良いことなので、戦時中の寓話の一つとして追加しておくことにします。

 「12月8日」は、反日左翼には悪名高い「真珠湾攻撃の日」です。今そんなことを言う人は誰もいませんが、戦前は「戦勝記念日」と呼ばれる目出たい祝日だったそうです。

 「昭和18年12月8日」が私の産れる予定日だったので、郷里の祖父は心待ちにしていたそうです。父が長男でしたから、無事生まれれば私は長男の長男になります。今は長男に特別の意味がなくなりましたが、昔の長男は家督相続の第一人者で、大事にされたと聞きます。

 ところが私は、「戦勝記念日」の1日遅れの12月9日に生まれました。がっかりした祖父は、その次に目出たい日を探し、日本全国民が祝う1月1日に決めたとそんなふうに聞きました。

 嘘のような本当の話ですが、昔の人はいい加減だったのか、おおらかだったのか、これが私の誕生日です。そのせいか、今も私にはいい加減なような、大らかなような、自分でも分からない部分があります。

 ちなみに戸籍謄本の記載を確認しますと、私の出生届を受け付け、日本へ送付したのは満洲国特命全権大使だった梅津美治郎陸軍大将です。なんともいかめしい、歴史的記録です。

  ・私は昭和11年1月13日、満州国三江省で生まれた。この年日本では、あの有名な『2・26事件』のおこされた年である。

 これが、伊藤氏の証言の書き出しです。この人も私のように、歴史上の大事件と、自分の誕生年を結びつけています。

 同じ満州生まれというだけでなく、信念のない軽さまで似ているので、親しみと共に腹立たしさを覚えます。氏は周囲の状況が変化すると、疑わず自分も一変するという、典型的な「お花畑の住民」です。

 反日左翼を親の仇のように嫌悪している私ですが、5、6年前まで、40年以上朝日新聞の定期購読者だったので、氏に似た軽薄さを引きずっています。そのせいもあり、代表として氏の証言が紹介したくなりました。

  ・このような年に生まれた私は、いっそう自分を、戦争と切り離して考えられない人間となった。

  ・私は、国民学校の教育を4年も受けたし、その後1年2ヶ月ではあったが、敗戦のため、引き揚げ生活を体験させられたからである。

 このように前置きし、国民学校時代の忘れられない思い出を7つ上げます。

  1. 儀式や朝礼のたび、真っ白な手袋をはめた校長が最敬礼をして読んだ「教育勅語」のこと

  2. 歴代天皇の名前を、「神武、綏靖、安寧、懿徳・・・」と丸暗記させられたこと

  3. 寄宿舎で就寝前に正座させられ、「軍人勅諭」を先輩たちに暗唱させられたこと

  4. 体育の時間に、零下20度を越す寒さの中で、裸足でさせられた総攻撃の戦いのこと

  5. 運動会で、「鬼畜米英をやっつけろ」の合図で、ルーズベルトやチャーチルの顔をつけた藁人形を、竹槍で突いたこと

  6. 音楽の時間では、軍歌ばかり歌っていたこと

  7. 何かのことで担任の先生からピンタをくらい、左右に体が倒れそうになっても、不道の姿勢を取らされたこと

   ・そして私自身、大きくなったら立派な強い兵隊になって、天皇陛下のため、国のために死ぬ ! と、本気で考えていたのである。

   ・以上思いつくまま当時の様子を述べたが、あらゆる場と機会を捉え、徹底した軍国主義教育がなされていたことに、今更ながら驚くばかりです。

 敗戦後になって氏はこのように考えましたが、国民学校時代にはそう思っていません。楽しい思い出でなかったとしても、日本が敗戦していなかったら氏は軍国少年のままだったはずです。

   ・しかし敗戦という大きな歴史の転換の中で、『絶対日本が勝つ』『神風が吹く』『天皇と国のため死ぬ』ということは、完全に打ち砕かれてしまった。

   ・いったい私にとって、国民学校とはなんだったのか ? 

  氏は自問自答し、最後の言葉として次のように締めくくります。なんと氏は愚かな教師かと、呆れるしかない軽薄さです。

   ・私は今、岩手県北の僻地校に勤務しているが、富も名誉も捨てただ一筋に、『日本国憲法』と『教育基本法』をもとに、

   ・『教え子を再び戦場へ送らない』、『誰にも引き揚げ生活を、体験させたくない』を念頭に置き、何よりも命を大事にして、心から平和を願いながら、子供たちを育てていきたいと北上山地で生きている。

 氏のように、敗戦のショックで愛国から反日へと、大きく振れた日本人が無数にいました。当時の普通の日本人だったのかもしれませんが、問題なのは、氏が教師だったことです。無節操な教師に育てられる生徒の不幸が、目に浮かびます。

 軽薄な氏の証言を恥じることなく収録した、「教育証言の会」の編者たちも、似たような人間だったのでしょうか。私が編集者だったら、このような証言はみっともなくて採用しません。「教育証言の会」の編者たちの薄っぺらさが、推し量られます。

 「戦中編」を今回で終わり、次回は「戦後編」へ進みます。

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『昭和教育史の証言 』- 12 ( おまけ・橋川文三氏の意見 )

2021-01-15 07:34:13 | 徒然の記

 中内氏と考えの似た学者がいて、「ねこ庭」で取り上げた記憶がありましたので、探しました。

 平成30年9月に読んだ、昭和43年出版の『ナショナリズム』という本でした。

 著者は元共産党員で、執筆当時は明治大学の助教授だった橋川文三氏です。大正11年生まれですから、存命になら98才です。昭和5年生まれの中内氏には、先輩の左翼学者になります。

 「ねこ庭」では、郷土愛の延長にあるのが祖国愛だと考えていますが、橋川氏は厳格に区分しています。著作を転記すると長くなりますので、ポイントを箇条書きにします。

  1. 郷土愛の個人と、祖国愛の個人は全く別である。

  2. 郷土愛の個人には誰でも無自覚のうちになれるが、祖国愛の個人は簡単になれない。

  3. 祖国愛の個人は、自由と権利に目覚め、意思表示をする人間でなくてはならない。

  4. 目覚めた個人が、所属する集団に対し共に生きる契約を交わすところから、「祖国愛」が始まる。

  5. 愚昧な個人が、漠然と存在しているところに祖国愛は生まれない。

 こんなややこしい理屈を考えた出したのが、ルソーだそうです。ルソーがこれを『社会契約論』として、世に出したのが、1762年です。

 氏の説明では、1789年のフランス革命において、ルソーのいう個人が初めて生まれ、革命を達成したとなります。ですから、フランス革命以前のフランスには個人が存在しなかったことになります。聞いたこともない話ですが、本当なのでしょうか。

 フランス革命は、王政を倒したブルジョア革命と言われていますが、別に市民革命とも呼ばれています。

 氏の言う自由と権利に目覚め、意思表示をする個人というのがこの市民です。

 ルソーの著書が出版された時、日本は江戸時代で9代将軍徳川家重の治世でした。フランス革命があったのは、松平定信が奢侈に溺れる武家と町人を戒めようと、「寛政の倹約令」を出した時です。

 その頃の日本には自由と権利に目覚め、意思表示をするフランス式の個人はいませんでした。幕末、明治になっても、そんな個人は現れませんでした。

 日本には日本の歴史と文化があり、別の思想がありましたから、フランス式の目覚めた個人の出る幕がなかったのです。長々と橋川氏の意見を引用しているのは、中内氏との共通思考があるからです。

  ・ブルジョア革命を経ないまま近代国家に仲間入りした日本では、このような事態は、遂に、ただ一度も存在しなかった。

  ・この歴史的経験の欠如が、ものごとを考えにくくさせている。

 日本の革命は常に上から与えられたもので、国民の意識は低く、自我に目覚めていないという考え方が、二人の共通思考です。橋川氏は後に保守へ「先祖返り」した学者ですが、かってのマルキストですから、「目覚めた個人」に関する理解は中川氏と同じです。

 日本は古来から、自由と権利に目覚め、意思表示をするフランス式の個人が必要のない国でした。フランス式に目覚めた個人がいないというのは、日本の後進性でなく、日本の文化であり、歴史であり、特質です。「ねこ庭」では、田中英道氏の講義を聞いたり、「温故知新」の読書で教わったりした結果として理解しました。

 マルクス主義者というより、いつまでも「西欧崇拝」を克服できない学者の存在が、日本の文化や学問への卑下につながっていると考える方が、正しいのかもしれません。

 日本を激しく否定する反日左翼学者と、極端に日本を称賛する保守学者の、いずれも「ねこ庭」では尊敬しません。「過激なものには、真実が無い」というのは、「温故知新」の読書の教えというより、77年生きてきた私の経験です。

 もっと言えば、自分の中にある「ご先祖の知恵 ( DNA ) 」ではないかと、そんな気がしています。

 突然橋川氏の意見を割り込ませたため、中川氏の証言はまだ少し残っていますが、大事な部分には橋川氏の紹介で目的を達しました。

 過激な批判の中には真実が無いのですから、中川氏の紹介をここで終了します。あと14名の証言も同様の過激な批判なので、後一人だけを紹介して、「戦中編」を終わりたいと思います。退屈しても構わないという人は、次回の「ねこ庭」へお越しください。

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