まずはこの忌々しい「プラザ合意」について、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に説明します。
「プレスコード」の優等生であるマスコミが事実を詳しく伝えなかったので、国民は会議の内容を知りませんでした。欧米各国の間で日本がどれほど孤立していたのかを、今はウィキペディアが教えてくれます。
・会議に出席したのは、アメリカ財務長官のジェイムズ・べイカー、英国蔵相のナイジェル・ローソン、西ドイツ財務相のゲルハルト・シュトルテンベルグ、フランス済財政相のピエール・ベレゴヴォワ、そして日本の竹下蔵相である。
・以後の世界経済に大きな影響を及ぼした歴史的な合意だったが、その内容は事前に各国の実務者間協議において決められており、会議自体はわずか20分程で合意に至る形式的なものだった。
軍事力・経済力、政治力のどの面から見ても、アメリカが世界一の大国であると肌で知る政治家です。そのアメリカが再び日本に敵国として対峙し、本気で崩壊させようとしている。おそらく氏は「プラザ会議」に、震え上がるほどの衝撃を受けたのではないでしょうか。
超大国アメリカに逆らえば再び日本は焦土にされると危機感を抱き、防止するには対米協調しかないと決意したのでないかと、「ねこ庭」は推測しました。
自分で意識せず、しかしアメリカ側はちゃんと意識して、この時から氏は「日本人・ジャパンハンドラー」になったのではないでしょうか。氏が「日本人・ジャパンハンドラー」と気づかれないことが、アメリカには重要事でしたが、氏にはその条件が整っていました。
鈴木首相が退陣を表明した時、党内調整をしていた福田赳夫元首相が、宮沢氏への後継指名を提案したのに鈴木氏が断っています。官房長官は首相の女房役と言われるほど重要な役職で、後継者にと話を持ちかけられたら、普通は断らないものですが鈴木氏は断りました。首相の後始末をした有能な官房長官だったのに、信頼されていなかったことが分かってしまいました。
人望がなかった事実の一つですが、こうした事実がアメリカには好都合でした。実力と人望のある政治家がアメリカのために働いていると注目されますが、人望のない氏にアメリカが接近するとは誰も思いません。氏は、願ってもない政治家だったことになります。
氏が「ジャパンハンドラー」になったきっかけが「プラザ合意」だとして、もう一つ大事なことは、アメリカ側が氏を「ジャパンハンドラー」と決めたのは何時だったのか。
「ねこ庭」はそれを、下記 3件の重大な氏の失政の第1 番目にあったと推察しています。
1. 宮沢官房長官談話 昭和57 ( 1982 ) 年8月26日 ・・鈴木内閣時代
2. 日韓首脳会談での謝罪 平成 4 ( 1992 ) 年1月17日 ・・宮沢内閣時代
3. 河野官房長官談話 平成 5 ( 1992 ) 年8月 4日 ・・宮沢内閣時代
以後の説明はこれを前提に述べていますので、2つ前提が崩れますと、氏の「ジャパンハンドラー説」は消えてしまいます。それを承知の上で「ねこ庭」は、積み重ねた検討作業に自信を持ち推測の説明を続けます。
状況証拠しかない「ねこ庭」の推測にお付き合いくださる方だけ、足をお運びください。