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鄧小平秘録 (上) - 1

2015-11-23 16:33:29 | 徒然の記

 伊藤正氏著「鄧小平秘録 (上)」(平成20年刊 (株)産経新聞出版)を、半分まで読んだ。知りたかったことを沢山教えてくれる、有意義な本に出会った。

 氏は昭和15年に埼玉県で生まれ、東京外大卒業後に共同通信社へ入社。その後産経新聞社へ移り、中国総局長兼論説委員となる。1976年と1989の二度の天安門事件を取材した、唯一の西側記者として知られている。

 本書では、1989年のいわゆる二度目の天安門事件以降からの鄧小平が描かれているが、自分の記憶の整理のため、先ずは二つの天安門事件について調べてみた。当時新聞で大きく報道されたが、仕事で忙しかった私は、中身を十分知らないまま流し読みしていた。

 1976年(昭和51年)一つ目の天安門事件は、別名「四・五運動」とも呼ばれるもので、故周恩来総理に供えられた花輪の撤去をめぐり、民衆と当局が衝突した事件である。背景に毛沢東による周恩来への確執があったのだと初めて知った。老いて猜疑心の強くなった毛沢東は、国民に人気の高い周恩来を妬み、失脚させようと虎視眈々だったという。

 文化大革命の騒擾に国民が倦み疲れ、四人組の横暴に不満を募らせていた折の周氏逝去だった。政界の実情は、毛沢東と四人組が、周恩来と鄧小平に対峙していた。鄧小平は既に毛沢東から追放されていたので、国民は周恩来に、文革の悪夢からの変革を期待し、敬愛もしていた。だからこそ、毛沢東は人々が供えた花輪を嫌悪し、広場に集まってくる民衆を敵視した。
こうして民衆と公安の衝突が起こり、民衆が力で押さえ込まれたのだった。

 1989年(平成元年)二つ目の天安門事件は、別名「六・四天安門事件」とも呼ばれている。死去した胡耀邦元総書記の追悼集会を学生たちが挙行し、大規模な「民主化要求運動」となって社会を揺るがした。この時の主役が鄧小平で、世界に衝撃を与えた武力制圧を強行した。学生は戦車と銃砲で蹴散らされ、多数の死者が出た。政府は死者319人と発表したが、実際には何千人とも言われている。

 上巻の半分しか読んでいないけれど、なぜか書き残しておきたい気持ちが高ぶる。
全部読み終えたとしても、この思いは変わらない気がするので、いつもと違うやり方だがここで感想を述べるとしよう。

 中国は日本に対し、たかだか8年余りの日中戦争について、中国史上での最大にして最悪の侵略だと日夜非難し続ける。その理由が、自分にはどうしても理解できなかった。大国と自称する中国が4000年もある歴史の中で、たった8年の日中戦争を取り上げ、隣国への憎悪と敵愾心をなぜ煽らなくてならないのか。
 

 戦後の日本は、日中戦争の8年より長きにわたり、20年も30年も、金銭的のみならず人的援助や協力を惜しまずやってきたというのに、突然に中国が変貌した。「熱烈歓迎」から「愛国無罪」へと手のひらを返すような裏切りを見せた。

 私は、その原因を伊藤氏の著作でやっと理解した。この予感は、おそらく間違っていないと確信する。つまり中国が変身した裏には、そうせずにおれなかった国内事情があったということ。日本を悪とし、憎悪の標的としなくては、中国には乗り切れない崩壊の危機があった。それは今も続き、そして共産党政権がある限りこれからも続いていく悪夢なのだ。

 自分はこれまで中国の恥部は、アヘン戦争で英国に敗れ、列強の蹂躙を許してしまったことと考えていたが、そうではなかった。中国の恥部は、毛沢東による共産党政府の樹立そのものだったということ。当初は国の独立を歓喜した国民も、歳月の流れの中で自分たちを少しも幸せにしない独裁政権のまやかしに気付いた。つまり、中国のアキレス腱は三つである。

 一番目は、何と言っても「文化大革命」だ。毛沢東と共産党政権のすべての矛盾と不幸が、ここに集約されている。日本人を悩ませている「平和憲法」どころでない、解決の展望すら見えない国の根幹の揺らぎだ。真面目に触りだすと、パンドラの箱みたいに中国は大混乱となり、共産党が崩壊する。

 二番目が別名「四・五運動」と呼ばれる天安門事件、そして三番目が「六・四天安門事件」だ。

 これらの背景がすべて明らかにされ、国民の怒りが政府へと向けられる時、おそらく共産党政権は消滅する。だから中国は共産党が政権にある限り、この三つの事件への検証を許さないだろうし、国民の目を反らすため、外敵としての日本が必要となる。国際社会から横暴と見られても、たとえ大嘘の長広告と嘲笑されても、国内での闘争に命をかけている政治家たちは、決して日本攻撃をやめない。止めれば彼ら自身が即座に抹殺されるという、社会の仕組みが作られている。傍迷惑な話だが、共産党中国の政府は、日本人が考えている以上に、保身のための死闘を繰り広げていると、氏の本で教えられた。

 日本のマスコミは日中友好を演出した鄧小平を、好々爺として報道した。笑顔を見せ、群衆に手を振り、熱心に国内を視察する彼を好意的に伝えた。だから私もそれを信じ、昨今の傲慢な中国の言動に嫌悪が募るほどに、「鄧小平がいたら、こうはなっていなかったろうに。」と、悔やんだりした。しかしこれが、マスコミ報道の捏造の最たるものだった。

 天安門事件の直後、親中派のブッシュ大統領は対中制裁を要求する議会の圧力に悩まされていた。彼は中国に強硬姿勢を軟化させようと、極秘に特使を派遣した。スコウクロフト大統領特使がそれだった。大統領の厳しい立場を説明され、特使との会談を終えた鄧小平が、きっぱりと拒絶した言葉がこれだ。


「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、二千万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。」「中国の内政には、いかなる外国人の干渉も許さない。」「中国では、いかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない。」

 また天安門の弾圧を前に、彼は断固として語った。
「これは通常の学生運動ではなく、動乱だ。」「旗幟を鮮明にし、強い措置をとって動乱を静止せよ。」「国際的な反応など恐れるな。」「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。」「国家の安定を妨害する者には、譲歩したり妥協したりしてはならない。」「人民民主専制の手段を使え。社説を出せ。立法も必要だ。全国的な闘争の準備をし、断固動乱を制圧せよ。」
 
 つまりこれが、鄧小平のもう一つの姿であり、毛沢東以来現在に引き継がれる、共産党政治家の恐ろしさだ。日本にいる共産党のシンパたちにすれば、この冷酷さが「筋金入りの闘志」とでも見えるのであろうか。

 しかしその二三日前まで、彼は趙紫陽の意見に賛同していた。「秩序を回復し、騒ぎを警戒するが、流血は避ける。」というものだ。胡耀邦と共に趙紫陽は、経済改革で国を豊かにし、国際的地位を高めるという彼の意見に従ってきた、長年の同志であり部下であった。切迫した鄧小平には、彼らを見捨てざるを得ない事情が二つあった。

 その一つが、文革での紅衛兵によるリンチへの恐怖だ。彼自身も紅衛兵に苦しめられ、家族が四散し、長男は自殺未遂で不具者になった。学生たちの姿が紅衛兵と重なり、怒りが抑えられなかったこと。今一つが、彼の開放改革政策に反対する政敵たちの台頭だった。学生の要求に妥協することは、彼の政治生命の終わりを意味していた。失脚を繰り返しても、不死鳥のように這い上がってきた彼だが、もう若くなかった。毛沢東に対立しても捨てなかった彼の夢は、「経済開放による中国の発展」だったから、ここで権力を手放す愚を避けた。

 伊藤氏の本によると、老いていくに従い、鄧小平は切り捨てた胡耀邦と趙紫陽を偲び、一人悲嘆に暮れる時が増えたと書いてある。マスコミの報道に出ないが、こうした個人的喜怒哀楽の事実が私の心を静める。鬼のように冷酷に命令したのでなく、苦悩しつつの判断だったと知れば、そこには多少の救いがある。やらなければ自分がやられるという、中国社会のおぞましい残酷な様相が浮かんでくる。

 もう一つだけ、鄧小平の苦悩を示す事実を、伊藤氏の本から引用しよう。
「1993年に刊行された著書の中で、鄧小平氏は、毛沢東晩年の過ちへの " 行き過ぎた批判" を戒めている。 」「その理由は、" このように偉大な歴史上の人物を否定することは、我が国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く" からだ」
「毛沢東を否定することは、彼が作った共産党の中国、つまり一党独裁を否定することなのだ」

 だから彼らには、文化大革命の検討ができないし、二つの天安門事件への検証もできない。これこそが中国のアキレス腱である。やみくもに中国を賞賛する日本の政治家やマスコミや経済界の人々は、隣国の闇と苦悩をどのくらい理解しているのだろうか。まして友好一辺倒のお花畑の人間たちは、危険な中国についてどれほど知っているのだろうか。

 日本の軍国主義の悪辣さなどとこれ以上言われ続けるのなら、私たちは反対に中国のアキレス腱について、その悪辣さと残酷さと無慈悲さを、世界中に宣伝すれば良い。中国や韓国がやっているように、米国人や英国人、あるいはフランス、ドイツ人に尤もらしく喋らせたり、新聞記事を書かせたりすれば良い。

 ただし、日本がこれをやる時は、中国との戦争を覚悟しなくてはならない。ダブルスタンダードの中国は、自分が他国を誹謗する自由は認めても、他国が誹謗する自由は認めない国だ。

 だから、私は今泉氏の遺言の大切さをかみしめる。
日本の置かれた立場に危機感を持てと、氏が鳴らした警鐘に耳を澄ませる。国の安全保障を忘れてはならない。憲法を改正し、独立国になるべし。その上で戦争をしない工夫をすべし。そのためには国際人になれ。自分の主張を世界に発信できるように、英語を駆使できる日本人になるべし。世界中に日本の友だち、日本への理解者を増やせ。日本一国では、とても中国には敵わない。仲間を増やすこと、集団で国の防衛を図ること・・・・・・、沢山の遺訓が浮かんでくる。

 石原氏のシニスムも思い出される。国を愛する人間を右翼だとか、軍国主義者だとか、笑わせてくれるな、売国者どもよと、氏が冷笑している姿が鮮明になる。

 読書はこれからなのに、随分長い感想になってしまった。さて、これからゆっくりと続きを読もう。
 

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