ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日中戦争』 - 2 ( 満洲国の現実と軍閥が虐げた中国人 )

2018-04-20 13:18:30 | 徒然の記

 石原参謀の考え方の基本には、一つの中国観がありました。つまり中国人には、統一的な近代国家を形成する能力がないという断定です。

 割拠する軍閥による内紛が絶えず、軍閥は列強と手を結び半植民地となりながら分裂し対立していました。この状態が中国であるのなら、張学良の軍閥に虐げられている中国人は、むしろ日本軍の支配下に入った方が幸福でないかと石原参謀は確信していました。

 彼は後に「五族共和」と「王道楽土」を目指し、満州に新しい国づくりをしますが、学校で教えられたのは、軍人の独りよがりな思い込みだとする批判だけでした。しかし今一度中国の状況を、臼井氏の著作で確かめてみました。

  大正14 ( 1925 ) 年の10月に、中国の関税自主権の回復に関する会議が、北京で開かれました。中国代表は関税自主権を強く主張しましたが、英国もアメリカも賛成しませんでした。英米の意見は、一致していました。

 ・中国がまず内戦を終結させ、外国人の生命財産の保護を全うし、統一ある国家としての体制が整ったとき、初めてこの問題は、列国によって討議されるべきである。

 英米の主張を読みますと、「中国人には、統一的な近代国家を形成する能力がない。」とする、石原参謀の意見も暴論とは言えなくなります。

 満州には政府の政策に従った満蒙開拓団だけでなく、内戦に疲弊した中華民国から、漢人や朝鮮人やなどの移住・入植が相次ぎ、人口が増加していました。

  しかし昭和7 ( 1932 )年に設立された満州国は、「五族共和」「王道楽土」とは程遠い国でした。満州国政府の官吏は日本人が70%を占め、中国人は30%を切っていました。皇帝溥儀は就任の翌日本庄関東軍司令官に対し、次のような意に反する書面を提出させられました。

       1. 満州国の治安維持および国防は、すべて日本軍に委嘱する。

       2. 満州国は、日本軍が国防上必要とする鉄道、港湾、水路の管理、また今後の鉄道敷設権を、日本に委嘱する。

       3. 日本人官吏の選定は、関東軍司令部の同意を得る。

 このため中国人の反日感情には、深刻なものがあったと言われています。満州国政府の中国人大臣の言葉を、氏が紹介しています。

 ・満州国成立当時われらは、日満人相提携して、立派な新国家を建設する覚悟であったが、この現状では何もする気になれない。

 ・こんな状態でもし日ソ戦争でも勃発すれば、全満州人は日本に反抗して立つであろう。 

 私は5年前に読んだ、愛新覚羅浩 ( ひろ ) 氏の『流転の王妃』を思い出しました。浩氏は嵯峨公爵家の長女として生まれ、関東軍によって、満州国皇帝溥儀の弟溥傑と政略結婚をさせられた人です。

 この自伝には氏の目を通して眺めた日本が書かれています。臼井氏の叙述を重ねますと、もう一つの日本の顔が嫌でも見えてきます。参考のため、浩氏の著書の一部を紹介します。

 ・満州国の建国そのものが、関東軍の策謀の下に行われたことは、いうまでもありません。

 ・清朝最後の皇帝 ( 溥儀 ) を、満州国皇帝にかつぎあげたのも、関東軍でした。

 ・溥儀皇帝は三歳で、清朝の帝位に就かれました。不幸なことに、在位4年で清朝は倒れますが、廃帝として、そのまま紫禁城で成長されます。

 ・後に城を追われて北府に逃れ、その後北京の日本公使館に避難されました。

 ・満州国建国の翌々年、宣統廃帝は二十八歳で満州国皇帝となります。

 ・しかし当初の話とちがって、皇帝とは名ばかりで、関東軍によって行動の自由も無く、意思表示もできない、傀儡の生活に、甘んじなければなりませんでした。

 ・関東軍のなかで宮廷に対して権勢をふるったのは、宮内府宮廷掛の吉岡安直大佐でした。

 ・大佐は私たちが新京で生活するようになると、事ある毎に干渉するようになりました。

 吉岡大佐は、氏のお見合い時からの付き添いで、やがて中将になった人物です。他人を悪し様に言わない著者が、溥傑氏に無礼を働く様を何度か書いているところからしますと、余程腹に据えかねていたと推測できます。

 ・吉岡大佐に限らず、「五族協和」のスローガンを掲げながらも、満州では全て日本人優先でした。

 ・日本人の中でも関東軍は絶対の勢力を占め、関東軍でなければ人にあらず、という勢いでした。

 ・満州国皇弟と結婚した私など、そうした人たちの目から見れば、虫けら同然の存在に映ったのかもしれません。

 ・日本の警察や兵隊が店で食事をしてもお金を払わず、威張って出て行くということ。そんな話に、私は愕然としました。

 ・いずれも、それまでの私には想像もつかない話ばかりでしたが、そうした事実を知るにつれ、日・満・蒙・漢・朝の、「 五族協和 というスローガンが、このままではどうなることかと、暗澹たる思いにかられるのでした。

 ・日本に対する不満は、一般民衆から、満州国の要人にまで共通していました。私は恥ずかしさのあまり、ただ黙り込むしかありませんでした。

 当時の列強がアジア人に対し傲慢に振舞っていたとしても、日本人が同じことをして良いはずがありません。「ねこ庭」は浩 ( ひろ ) 氏の羞恥を共有し、しかし一方では、日本を悪しざまに批判する現在の中国共産党の政治家には、一言二言返さずにおれません。

 ・私利私欲に固まる軍閥の横行を許し、国の乱れを長年収められず、列強から蔑視されていた自国の情けない有様も、少しは反省したらどうなのか。

 ・大正14 ( 1925 ) 年の10月に、関税自主権回復の会議が開かれた時、中国の意見に賛成したのは、日本だけではなかったのか。

 ・あの時中国は日本政府に感謝し、反日運動をやめ、英国への激しい敵対活動を開始したのではなかったのか。

 ・感謝はその場かぎりでも構わないが、不甲斐ない自国の有様について少しは反省し、「歴史認識」を改めてはどうなのか。

 息子たちに言います。反日左翼の愚か者たちに言われなくても、日本人として恥ずべきことは自ら認め、必要以上の卑屈さに身を屈めてはなりません。歴史は日本だけが作っているのでなく、他国が同時に参加しているのだと、この当たり前の事実に気づいて欲しいと思います。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『日中戦争 』 ( 臼井勝美氏... | トップ | 『日中戦争 』- 3 ( 常識は... »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
史実に基づいた 学習の大切さ (HAKASE (jnkt32))
2018-04-20 19:17:41
今晩は。今回の貴連載が途上でもあり、多言は控えますが、
前回の「満州事変への道」と比べましても、史実によって
学ぶ事の大切さが、少しは自覚できた様な気がする所です。

東京裁判史観と言えば、拙者などは F・ルーズヴェルト
米元大統領が終戦間際に放ったとされる
「日本を 北海道、本州、四国、九州の四島に閉じ込めて 滅ぼせ」
の言葉が忘れられずにいる所です。
結局の所、GHQ の占領政策中 少なくとも初期のそれは、
その様な報復的不良思考で行われていた疑いが大きくあり、
スターリン旧ソ連邦元書記長の暴挙も、そうした傾向に
呼応したものだったのだろうと心得ております。

幣原元総「三条項」が、理想主義に傾き過ぎた所あるのは、
拙者も同感で、これにかぶれたのは 河野洋平元外相
、鳩山由元総理に加え、三木、菅の両元総理も挙げて
良いかと思います。

それに加え、満州国建国当時の 関東軍の正負両面の
事共も、是非押さえないといけませんね。
又次回、勉強にお伺いします。
返信する
温故知新 (onecat01)
2018-04-20 22:27:53
HAKASEさん。

 反日野党の詰まらない国会質疑、相変わらず腐れマスコミの安部政権攻撃、官僚たちの不始末と反安部の動き等々、ニュースを見ていますと、こみ上げる怒りを持て余します。

 そんな日々を送りながら、歴史を遡り、過去を再検討しています。これでいいのかと、自問自答するのですが、現在の浅ましい政治の現状を、正しく理解するには、やはり歴史をシッカリ知る必要があると、そう思います。

 日本の過去には、立派な事実だけでなく、悪どいことも汚いこともあります。けれども、卑屈な「敗戦思考」に陥るまいと、心しています。事実を知ること・・、そうすれば、したり顔の反日政治家や、おかしな保守議員の間違いが見えてきます。

 「急がば回れ」で、日々を送っています。コメントを、ありがとうございます。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

徒然の記」カテゴリの最新記事