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『日本史の真髄』 - 95 ( 円融帝と藤原三兄弟の争い )

2023-05-09 06:52:31 | 徒然の記

 〈  十七闋 七日関白 ( なぬかくわんぱく )    藤原氏内部の権力闘争   8行詩  〉

 共産党とボウフラ君のことは傍において、渡部氏の解説を紹介します。

 「長兄の伊尹 ( これただ ) の病が重く、治療の見込みなしと見るや、次男の兼通 ( かねみち ) は円融天皇に妹の書面を示したのである。」

 妹であっても、冷泉天皇と円融 ( えんゆう ) 天皇の御生母である人が書かれた文書には、「将来摂関の空きができたら、必ず兄弟の年齢の順序にしなさい」、と書かれてます。

 「もともと円融天皇は、伯父たちのうち特に兼通が嫌いで、疎 ( うと ) んじていた。しかしご自分の生母の自筆の書を見せられると、亡き母を悼み悲しみ、また懐かしむ気持ちが起こった。」

 それで生母の遺言に背くことをはばかって、ご自分では少しも高く買っていない伯父の兼通を太政大臣にされたと言います。兼通は牛車 (  ぎっしゃ ) に乗ることを許され、今内裏と称されたそうです。かって田中角栄氏が、「今太閤」と持て囃されたようなものでしょう。

 「平安朝のような男女関係の時代にも、天皇の親を思う気持のすこぶる強かったのに驚かされる。円融天皇がご自分の御生母の手跡を見て、朝廷最高の人事を、ご自分の意思に反して決定したということは注目に値しよう。」

 これ以後も、三兄弟の醜い争いが詳しく説明されます。愛国者の頼山陽と渡部氏が、皇室の歴史の恥部を隠さずに語る理由がどこにあるのか。考えもなく二人がこのようなことをするはずがありませんので、しばらく疑問のまま紹介を続けます。

 「兼通は首尾よく関白・太政大臣になり、長女のはは子を円融帝の女御とし、更に皇后に昇格させた。しかし兼通は、兼家が自分の娘を同じ天皇の女御にしようとしているのが、面白くなかった。甚だしく嫌悪の念を示し、兼家の工作を妨害することに成功した。」

 「ところが、兼通が重病になった。これを聞いた兼家は、もう兼家が死亡したと思い込んでしまった。それで朝廷に出かけて、兼通の後任の関白・太政大臣にしてもらおうと思った。」

 「兼家が参内する途中、兼通の家の前を通るので、兼通に仕える者が〈  兼家殿がやって来ます  〉と報告した。兼通は自分の見舞いに来たと思い、支度をさせて待っていたところ、家の門に入らずに、宮廷に行った。」

 その報告を聞くと怒りに燃えた彼は、四人の者に抱えられ急いで参内したと言います。兼家はちょうど、自分の希望を円融天皇に述べていたところでしたが、死んだと思っていた兼通が突然参内したのを見て、急いで逃げ隠れてしまったそうです。重い病を押して参内した兼通は、天皇に言いました。

 「今日、私の手による最後の人事を行わせていただきます。従兄弟である左大臣藤原頼忠は、関白に相応しい人です。弟の兼家は落ち着きがなく、人に譲らない性格ですから、右近衛大将 ( うこんえのたいしょう ) たるにふさわしくありませんから、その職を取り上げ、治部卿に落としましょう。」

 「天皇は彼の意見を認めざるを得ず、かくして兼家は左遷された。代わって頼忠がその日のうちに関白に任ぜられ、後に氏 ( うじ ) の長者・太政大臣となった。彼は六十四代円融帝に仕え、第六十五代花山帝の時もそのままの位にとどまった。」

 出世といっても、天皇を取り巻く少数の藤原氏の間の高官人事だけなのですが、頼忠も兼通と同じことをしています。

 「円融帝の女御として、娘の遵子 ( のりこ ) を宮廷に入れ、更に皇后はは子 ( 兼通の長女 )  が亡くなると、遵子を皇后に立てた。」

 しかし頼忠は比較的立派な人物だったようで、倹約家で身辺を飾らず、権力闘争に敗れた兼家に同情し、天皇との間を色々と取りなしています。兼通が反対していた、兼家の次女詮子 ( あきこ )を女御にすることも手助けしました。

 「詮子は、後に第六十六代一条天皇となる男子を産み、円融天皇も詮子を寵愛されたが、頼忠に遠慮され、皇后には頼忠の娘遵子を立てられたのであった。」

 「このため兼家は再び落ち込んで宮廷に出仕せず、家に閉じこもってしまい、詮子も里帰りすることになった。円融帝は何度も兼家に参内を促し、ようやく出て来た彼にこう申された。」

 「自分は天皇になってから十六年にもなり、政治をとることに飽きたので、位を皇太子 ( 花山天皇 ) に譲ろうと思う。そして詮子との間にできた子を、皇太子 ( 後の一条天皇 ) にするつもりである。お前は以前から、不平の色をしていたが、自分は前からこう考えていたのである。」

 こうして花山天皇が即位され、兼家の姪のとお子、頼忠の娘のまさ子を女御にされました。天皇の寵愛は、最初の女御とお子に傾いていましたが、この人はまもなく死亡し、天皇は世をはかなむ気持ちが強くなられたそうです。

 円融天皇に心配りを頂いていたにもかかわらず、花山天皇のお姿を見ていた兼家とその息子の道兼が、世にもまれな陰謀を巡らせます。この愚かしい陰謀については、次回に紹介いたします。

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