ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

日航機123便墜落事故 - 45 ( 親中派でも立派な首相 ? )

2024-07-26 17:47:02 | 徒然の記

 2年前の9月に、鈴木首相について「ねこ庭」で取り上げていましたので、過去記事を紹介します。

 最初は、氏の経歴を調べています。

 ・昭和22年に、日本社会党から第23回衆議院議員選挙に出馬、初当選。

 ・水産常任委員会の委員として水産庁の設置をはじめ、漁業法や水産協同組合法の成立等戦後の水産政策に大きな役割を果たす。

 ・その後、社会革新党に移る。

 これ以後の文章は、2年前の過去記事です。

  ・なんと鈴木氏は、社会党の議員が出発点でした。

  ・社会党の総理大臣が片山哲、村山富市氏だとは知っていますが、元社会党議員が自民党の総理となっていたとは意外な発見でした。

  ・氏が出馬した昭和22年の内閣は片山氏が総理大臣で、社会党の設立はその2年前の昭和20年です。

  ・昭和20年11月に、戦前の非共産党系の合法社会主義勢力がまとまり、社会党を設立した。社会民主党 ( 右派 ) 、日本労働党 ( 中間派 ) 、日本無産党 ( 左派 ) の主要3派である。

  ・当時の様子を説明する過去記事を読みますと、懐かしい名前が出てきます。社会党委員長として片山哲、鈴木茂三郎氏、書記長として西尾末広、浅沼稲次郎氏などです。

  ・こういう時代に社会党議員として出馬するというのは、鈴木氏が有望な若手政治家と見られていたからでしょうか。

  ・それにしては現在の氏の評価は、芳しくありません。読売新聞社社長の渡辺恒雄氏の意見を紹介します。

  「鈴木さんの首相就任直後から日米関係がぎくしゃくし、財政再建もうまくいかない。支持率の急落もあって、2年余りで政権を投げ出そうとしていた。」

  ・昭和55年7月から、56年11月までの内閣でしたから、実際は2年あまりでなく1年と5ヶ月の短命内閣でした。

  ・評論家八幡和郎氏の評価は、もっと辛辣です。

  「誰でも首相になれるという前例になり、政治を劣化させた。」

 いくら何でもそんな人物が総理大臣になれると思いませんが、立場の弱い政治家となると、評論家は酷いことを言います。

 次に紹介するのはウィキペディアの記事ですが、この説明が一番当時の氏を伝えている気がします。

 ・元々社会党から政界入りしたこともあり、鈴木は鳩派スタンスだったが、外交や安全保障面での経験が乏しいまま総理になったため、しばしば躓きを見せた。

 現在でも旧社会党系野党が親中派ですから、「鳩派スタンス」の言葉は、鈴木氏が中国に親近感を持つ政治家だったという意味です。日本中が「熱烈歓迎」の中国に傾き、中国との明るい未来に浮かれていました。

 せっかく築きつつある日中の友好関係を、「教科書事件」で壊してはならないと懸命になるはずです。

 氏は自民党の総務会長として日中国交正常化後に3度訪中し、当時の最高指導者鄧小平氏と会談しています。鈴木氏に対して、鄧小平から二つの話があったそうです。

   ・日本からの政府借款を受け入れたい

   ・土地を提供するから、共同で中国国内に兵器工場を作りましょう

 この件に関し鈴木氏は、後に次のように語っています。

 「これには正直言って驚いた。日本としては対米関係などを考えると大変なことで、出来るわけはない。」

 「私は、日本は日本国憲法の趣旨から言って、諸外国とそういう面での共同の仕事は基本的に出来ないし、考えてないと即座に断った。」

 「この話は、単なる外交上の駆け引きとして出してきたという印象ではなかった。真剣だった。今思うに当時、中国としても軍備の近代化を考えていたんだろう。」

 「日中共同の兵器工場建設の提案を断った代わりに、円借款の件は約束通り実行した。」

 中国の最高指導者に言われたからと言って、そのまま受け入れていないのですから、立派な日本の政治家だと思います。媚中派の議員が多い現在から見ると、氏はやはりそれなりの人物だったことが分かります。

 マスコミに叩かれ党内で離反され、倒閣に追い込まれていきますが、元社会党議員という先入観に囚われず冷静に考えますと、氏は事実以上に酷評された首相の一人だったことが分かります。

 内閣官房長官の宮沢喜一氏は、日本中が「熱烈歓迎」の中国に傾いている風潮を見て、中国のためにすることが国益になり、自分の名前を高めると考えたのではないでしょうか。

 人間の価値基準を学歴でしかしない氏は、時の国民大衆が喜びそうな政策として、迅速な「官房長官談話」を出したのかもしれません。

 鈴木氏は能吏の官房長官を評価せず、党内の無用な政争を防ぐため、次の総理を中曽根氏と決めていました。人を見る目の適切さを知るだけでも、鈴木氏の不当とも言える過小評価が惜しまれます。

 どうして辞任したのかの理由も、「ねこ庭」から眺めると見えます。

  ・機嫌を損ねたアメリカが、隠に陽に「鈴木下ろし」を始めた

  ニクソン大統領に遅れを取らじと、「日中国交回復」を実行した今太閤の田中氏でも、政界から追放したアメリカです。こうなると鈴木氏は、内閣を維持することができなくなります。
 
  ・次回は横道へ外れ、宮沢喜一氏と小沢一郎氏に関する情報を紹介します。
 
 シリーズの39回でこのように述べ、宮沢、小沢両氏の情報だけでなく、鈴木首相の紹介までしてしまいました。予定していた下記3件のテーマが、2件残ったままになっています。

 1. 「宮沢官房長官談話」   2.  日韓首脳会談での謝罪      3. 「河野官房長官談話」 

 2. 3. のテーマが、「日航機墜落事故」と何の関係があるのかと言われても、「ねこ庭」ではつながっています。酷暑のため思考が狂っているのでありませんので、次回から説明いたします。

 酷暑の中でつき合っておれないという方は、スルーしてください。

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日航機123便墜落事故 - 44 ( 日中友好蜜月時代の事件 )

2024-07-26 12:47:11 | 徒然の記

  〈 「宮沢官房長官談話」について、新たに調べた事実 〉

 「ねこ庭」の中ではつながっていますが、ここまで横道へ逸れると、こんな話がどこで「日航機墜落事故」と関係しているのかと、疑問を持たれる方がおられると思います。

 中曽根内閣以後、日米経済戦争が前面に出てきますが、中曽根内閣直前の鈴木内閣が、実はアメリカの機嫌を損ねていたのだと「ねこ庭」は推察しています。ヴォーゲル氏の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著書が、「日航機墜落事故」に関係があると空想を提起したように、今回は「宮沢官房長官談話」が日米経済戦争の要因になっていると、「ねこ庭」から問題提起をしようとしています。

   ・なぜ鈴木首相は、「教科書問題」について慌ただしく中国を訪問し謝罪したのか。
 
   ・有能な宮沢官房長官が、なぜ鈴木首相に同調し「談話」を公表したのか。
 
 暴論と言われるのを覚悟でシリーズを進めますが、1978 ( 昭和53 ) 年から、1989 ( 平成元 ) 年まで中国が鄧小平氏の時代であったこと・・これが「ねこ庭」の推察の大前提となる事実です。

 中国は、毛沢東が行った文化大革命で経済が破綻し、外国資本を入れて国を再建しなければ共産党政権の存立が危うくなっていました。苦肉の策として鄧小平氏が「社会主義的資本主義制度」という考えを持ち出し、「改革開放政策」を実行したのは、周知の事実です。

 氏は世界第2位の経済大国だった日本を訪れ、支援を積極的に求めました。中国が日本を「熱烈歓迎」し、この時期が日中両国の一番良好な時代であったこと・・おそらくこれが、「宮沢官房長官談話」が出された一番大きな要因となっているのではないでしょうか。

 日中蜜月時代の出来事は、中国側の方に詳しいデータがありますので、平成21年9月17日付の『人民網 日本語版』の記事を紹介します。

   ・1978 ( 昭和53 ) 年10月、鄧小平訪日、君津製鉄所、松下電器工場、新幹線乗車など日本各地の最先端工場と技術を視察

  ・1979 ( 昭和54 ) 年、大平・鄧会談。鈴木総務会長に対し、鄧小平が「円借款申し入れ」と「日中兵器工場建設提案」 

  ・1980 ( 昭和55 ) 年5月27日、華国鋒総理が中国総理として初めて訪日し、中日閣僚会議の年内開催が決定

       ・ 同7月8日、華国鋒総理が大平首相の葬礼に出席するため訪日

     ・ 同年12月3日、初の中日閣僚会議が北京で開催。会議は1987年6月まで計5回行われた

  ・1982 ( 昭和57 )年5月31日、趙紫陽総理が訪日し、「平和友好・平等互恵・長期安定」の「中日関係三原則」を示す。

 『人民網 日本語版』の記事は、日中関係の動きをまとめた記録に過ぎませんが、この記事を読み、アメリカがどのような気持でいたのかを「ねこ庭」は想像しました。推察は、常識的な単純さです。

 第二次世界大戦後に世界の覇権国となったアメリカが、世界一の軍事力と経済力を誇っていたことはすでに説明しました。アメリカもまた「ねこ庭」に似てある意味単純ですから、次のように機嫌を損ねます。

  ・世界一のアメリカは、自分の地位を脅かしそうな国は決して許さない。

 それでなくとも日本は、世界第2位と言われる経済力を持つ国となり、アメリカの貿易赤字を膨らませています。中国が友好関係になり、経済的な協力を深めいてくと、間違いなくアメリカを凌ぐ経済大国が生まれます。

  アメリカが面白い訳がありません。

 教科書事件は、丁度この時、つまり1982 ( 昭和57 )年5月、趙紫陽総理が訪日し、「平和友好・平等互恵・長期安定」の「中日関係三原則」を示した翌月に起こりました。

  誤報事件は二重三重の意味で、日本、中国、アメリカを巻き込み、中国は激しく抗議し、日本は大慌てし、アメリカは両国断絶の好機と喜んだのかもしれません。

  朝日新聞だったと思いますが、当時の新聞記事を紹介します。

  ・ ( 昭和57 ) 年9月、鈴木善幸首相が訪中し、「日中関係はすでに成熟期に入った」と述べ、教科書問題に関しては、日本政府が「日中共同声明」の精神に照らし、責任をもって早急に解決すると表明した。

 マスコミの好きな言葉で言えば「朝野をあげて」、日中の新時代へ熱狂の時だったことが分かります。共産党だけは宮本委員長の方針を受け対立関係にありましたが、朝日新聞もNHKも共同通信社も「中国礼賛報道」をし、経済界も中国への支援と関係強化に積極的でした。

 アメリカは不愉快だったのかもしれませんが、日本のこうした風潮の中で、鈴木氏が慌てたとしても不思議はありません。話が際限なく横道へ進みますが、次回は氏に関する興味深い情報を紹介しようと思います。 

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