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伊藤貫の真剣な雑談 - 63 ( 歴史捏造の例として )

2023-08-29 15:58:34 | 徒然の記

  10. 「伊藤貫の真剣な雑談  第10回 」 ・・伊藤貫X水島総特別対談 ( R4/11/12 )

 伊藤氏の雑談を紹介します。

  ・仏教というのは、そもそも天皇家が国教として持ち込み、これは大切だからお前たち信仰しなさいと言ったものだ。

  ・ということは、天皇家自体が天皇崇拝だけでは不足している、もうちょっと哲学的な、深い思考が必要であると考えた。当時の奈良の天皇家の方たちが、仏教を日本人の支えにしなければ、深い思考力を持つ人間にならないと考えたからだ。

 この間も水島氏はうんうんその通りですと言いながら、雑談に聞き入っています。

  ・それから遣隋使や遣唐使を送って、中国の古典を輸入し、儒教の影響をすごく受けた。

  ・だから江戸時代の末までの日本人には、天皇制( 武士道 )、儒教、仏教という3つのバックボーンがあった。

  ・そしてこの3つのバックボーンが均衡して、日本人の価値判断と思考力の深さを作っていた。

 私のような一般庶民は、歴史を学校で教わり、自分で本を読んでいても、勝手な解釈をしたり誤って覚えたりしています。何かの折に指摘されると、間違いを恥じて修正しますから、理解が違っていてもさほど心配することはありません。

 しかし伊藤氏や水島氏のように世間への働きかけを仕事としている人間に、勝手な解釈や間違った記憶で喋られると、国民は大変な迷惑を被ります。

 ・仏教というのは、そもそも天皇家が国教として持ち込み、これは大切だからお前たち信仰しなさいと言ったものだ。

 ウィキペディアの説明では、次のように書かれています。

  「西暦552年に百済から仏像と経文が伝来したのが、日本への本格的な仏教伝来とされる。」

 「欽明天皇は仏教の可否について群臣に問うた時、神道勢力である物部尾輿 ( おこし )と中臣鎌子 ( かまこ ) らは反対した。」

 「一方、蘇我稲目 ( いなめ ) は、西国では皆が仏教を信じているので、日本もそうするべきだと主張し仏教への帰依を表明したため、欽明天皇は稲目に仏像と経文他を下げ与えた。」

 「稲目は私邸を寺として仏像を拝んだが、その後疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神 ( くにつかみ ) の怒りを買ったのだとして、寺を焼き仏像を難波の堀江に捨てた。」

 「この宗教対立は子(物部守屋と蘇我馬子)の代にも収まらず、用明天皇の後継者を巡る争いで守屋が滅ぼされるまで続いた。」

 一般的に言われている仏教の伝来は、彼が言うように、天皇が積極的に取り入れられたものでなく、朝鮮の百済王から仏像と経典が贈られた時が始まりです。しかも天皇はこれをどうすれば良いかにつき、臣下に問われています。

 先日読んだ頼山陽の『日本楽府』の中では、旧氏族の物部・中臣氏と新氏族の蘇我氏が激しく対立したと書かれていました。旧氏族とは天孫降臨と関係のある貴族で、新氏族とは天孫降臨に無関係な貴族の意味だそうです。

 頼山陽の漢詩を解説したのが渡部昇一氏で、『日本史の真実』の中で取り上げていました。渡部氏が三人の貴族の系譜を説明していますので、紹介します。

 〈 蘇我氏の系譜 〉

   ・蘇我氏は、第八代孝元天皇を祖とする氏族

   ・「三韓征伐」の主役の一人である武内宿禰 ( たけのうちのすくね  ) の子孫

   ・以来朝鮮半島との関係が深かった氏族

 〈 物部氏の系譜 〉

   ・物部氏は饒速日命 ( にぎはやひのみこと ) の子孫

   ・この神は大和に降臨し、神武天皇の大和平定を助けた豪族

 〈 中臣氏の系譜 〉

   ・天児屋尊 ( あめのこやねのみこと ) を先祖とする氏族

   ・この神は天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、その岩戸の前で祝詞 ( のりと  ) を申し上げたという

   ・高天原 ( たかまがはら  ) 時代の最重要の神であり、天孫降臨の際にニニギノミコトのお供をして、日本に降りてきた

 3氏は一括りにして古代日本の豪族ですが、夫々ちゃんと区別があります。神話的伝承が歴史の事実とされていた時代の人々ですから、天孫降臨系の旧豪族にとっては、外国の仏教を取り入れようとする蘇我氏は、とんでもない新豪族ということになっていたようです。

 欽明天皇は百済の聖王から献じられた仏像を見て、「相貌端厳 ( みかおきらきら ) し」と言われ、「敬うべきか否か」を群臣に問われたと言います。群臣を代表する3氏の答えも、渡部氏の著作から転記します。

 蘇我稲目 ( そがのいなめ ) の答え

  「西の国々では皆ひたすら敬っていますから、日本だけが敬わないのは良くないでしょう。」

 物部尾輿 ( もののべのおこし ) と、中臣鎌子 ( なかとみのかまこ  ) の答え

  「わが国は日本で、天下に王 ( きみ ) たるお方は、天神地祀、百八十神を一年中、春夏秋冬にわたって祭り拝むのがその仕事です。今急に外国の神を拝まれるならば、おそらくわが国固有の神々が怒られるでありましょう。」

 そこで欽明天皇は仏像を礼拝することを思いとどまられて、願望している蘇我稲目に下賜されました。稲目は大喜びで寺を作り祀ったのですが、その直後から疫病が流行し、多くの人が死にました。疫病は長く続き、治る気配がなかったと言います。

 「私たちが申し上げたことをお聞きにならなかったので、こんな疫病で死ぬ人が多く出ているのです。早くその仏像を投げ捨てれば、必ず良いことがあるでしよう。」

 物部尾輿と中臣鎌子が天皇に奏し、「じゃあ、そうしなさい。」と欽明天皇が言われ、役人たちが仏像を難波の堀江に放り捨て、寺も焼き尽くしてしまったそうです。

 頼山陽と渡部昇一氏とウィキペディアの説明と、伊藤氏の説明のどちらを信じるかと問われれば、私は迷わず頼山陽と渡部氏と答えます。蘇我馬子が殺された「大化の改新」も、渡部氏の説明では神道派と仏教派の宗教戦争だったそうです。伊藤氏が言うように、最初から天皇が国教として国民に勧めたと言う説明はどこからも出てきません。

  天皇家自体が天皇崇拝だけでは不足している、もうちょっと哲学的な、深い思考が必要であると考えた。当時の奈良の天皇家の方たちが、仏教を日本人の支えにしなければ、深い思考力を持つ人間にならないと考えたからだ。」

 こう言うヘンテコな意見は、哲学的思考を信仰にしている伊藤氏特有の捏造であると、そう言う気がします。腹立たしいと言うより、滑稽で、笑ってしまいます。しきりに感心している水島氏が、情けなくなります。

 次回は、滑稽な彼と情けない水島氏の会話を紹介しようと思いますが、ボウフラ君以外の訪問者は予定しておりませんので、ご注意下さい。

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