ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 22 ( 戦後の日本史から消えた事実 )

2022-12-20 22:13:33 | 徒然の記

 〈 二闋 三韓来 ( さんかんきたる) ・古代の大英雄、日本武尊   11行詩 〉

                      ・神功皇后の「三韓征伐」

 神功皇后の「三韓征伐」の事実を無かったとする反日学者への、渡部氏の反対意見を紹介します。

 「『記紀』に拠らずとも、この頃、南朝鮮半島との交渉が色々あったことは知られている。その一例が、好太王 ( 公開土王 ) の石碑である。」

 「好太王は、満州に興った高句麗の王である。彼は朝鮮半島南部まで進出し、百済と交戦し、日本にも関与したのである。この王の事績を記した石碑は、西暦414年に彼の跡を継いだ王が建立したもので、鴨緑江中流の北岸の通溝に今も現存している。超一級の資料である。「碑文には、好太王即位の年の西暦391年に、次のような事件があったとしている。

 「百済と新羅は元来、属国であった。それで昔から朝貢していた。しかるに倭人が391年に、海を渡ってやってきて、百済や〇〇や新羅を破って自分の国にしてしまった。」

 碑文の原文は漢文で書かれているということですが、氏はこれが『記紀』の「三韓征伐」を裏づける資料であるとしています。

 「更に西暦400年には、好太王は新羅に協力して日本を破り、遠く任那 ( みまな ) ・加羅まで進撃した。この時加羅の兵は、日本軍と共に戦った。「この時日本軍は敗れたが、404年には高句麗に攻め入り、平壌近くまで進出したとしてある。」

 「この好太王の碑文まで嘘だとするなら、およそ世の中に資料というものはないに等しい。そしてこの記録は、神功皇后から応神天皇にかけての『記紀』の記述と、大筋において一致する。」

 「戦後の一時期、韓国の学者で、好太王碑の否定をしきりに唱える人がいたが、それはやはり無理だったようである。」

 日本の反日学者は、戦後こうした韓国の学者の意見を尊重し、そのまま日本国内で広めています。295ページの本の46ページを紹介していますから、このようなやり方をしていますと、おそらく年内には終わりません。どこかで割愛する時が来るのかもしれませんが、今はせっかく氏が、国内の反日左翼学者の所業を具体的に説明していますから、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々には、なるべく丁寧に紹介しようと思います。

 『記紀』の記述から分かっている事実を、氏が述べていますが、文章をやめ箇条書きにします。

  ・応神天皇の頃から、日本は百済と親しくなり、大陸や半島の文化が百済を通じ続々と入ってきた。

  ・南朝鮮に倭人の国があったことは、大陸の資料も認めている。

  ・そこには後に、日本政府が置かれることになった。 

  ・色々な技術者が百済からやってきて、日本の技術専門家の家系の元祖となった。特に重要なのは、阿直岐 ( あちき  ) である。

  ・彼は百済の王様から、良馬二匹を応神天皇に贈るために派遣されてきた。

  ・馬を飼う役目になったのであるが、同時に彼は経典 ( ふみ ) をよく読むことができた。

  ・応神天皇は、皇太子の菟道稚郎子 ( うじのわきいらつこ ) の師 ( ふみよみ ) にした。

  ・これが日本にシナの経典が渡来したことを示す、最初の文献的資料である。

 ここまで紹介してスペースがいっぱいになりましたが、氏の説明によりますと、戦後の日本史から全て省略された部分だと言います。息子たちだけでなく、私にとっても大事なことなので、次回も続けようと思います。興味のある方だけ、「ねこ庭」をご訪問ください。

コメント (2)
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