ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 23 ( 日本の特殊事情 )

2022-12-21 17:08:12 | 徒然の記

 〈 二闋 三韓来 ( さんかんきたる) ・古代の大英雄、日本武尊   11行詩 〉

                      ・神功皇后の「三韓征伐」

 「日本史から消えた事実」の続きを紹介します。

  ・応神天皇は阿直岐に、「お前より優れた博士 ( ふみよみびと  ) がいるだろうか。」と聞かれた。」「王仁 ( わに ) という、もっと優れた者がいます。」と言われ、早速応神天皇は家来を百済に派遣した。」 

  ・王仁が招聘され、皇太子の菟道稚郎子 ( うじのわきいらつこ ) の師 ( ふみよみ ) になり、もろもろの経典 ( ふみ  ) を教えることとなった。

  ・かくして王仁は、書首 ( ふみのおびと ) らの始祖になった。つまり日本の漢字の始まりは、応神天皇の御世にあった。

  ・それというのも、天皇と母后の時代に、三韓、特に百済との交流が親密になったためである。

 次の説明は大事なことなので、箇条書きを止め、氏の言葉を紹介します。

 「実はこのことは、頼山陽の『日本楽府(がふ)』の中には扱われていないが、戦後日本の歴史年表には、王仁も阿直岐も出ていないので、書き加える必要を感じたのである。

 「日本への学問渡来という、文化史上の重大事件に対して、日本の歴史年表が無視の態度をとるのは、結局、神功皇后と応神天皇の事績を認めたくないからであろう。」

 「典籍は古代においては、宝物と同じ貴重品である。その渡来が何となく行われた訳はなく、しかるべき学者が持参したに違いない。輸入書籍商がいたわけではないのである。」

 「その最初の学者の名前も、最初の弟子も、日本の正史である『日本書紀』は明記している。それどころか王仁を迎えるために派遣された人たちの名前も、その家来も明記してある。それを年表で無視するというのは、どういう気なのであろうか。」

 氏の著書の目的は、頼山陽の漢詩『日本楽府』の解説です。「書き下し文」(頼山陽)→「大意」( 徳岡久生氏 )→「解説」( 渡部昇一氏 ) という本書の構成に従い、順番に中身を紹介してきました。氏自身が構成を無視して横道へ逸れ、反日学者たちの日本史改竄について言及するのですから、憤りの大きさが伺えます。

 単に反日左翼学者というだけでは、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に、漠然とした話で終わります。具体的にどういう学者がいるのか、私も横道へ逸れて確認したくなりました。

 真っ先に浮かぶには津田左右吉氏ですが、良心的な歴史学者の印象が強いので、氏を反日左翼学者と断定するには、今も躊躇いがあります。氏は私が常々批判する東京大学でなく、早稲田大学の教授です。『記紀』を否定する学者の一人と断定する根拠は、以前読んだウイキペディアの説明にあります。

 実証主義に基づいて、日本史の見直しをした功労者の一人とされていますので、実証主義とは何なのか、言葉の定義から調べました。ウィキペデイアの説明です。

 「歴史学における実証主義者は、厳密な資料批判を行い、科学的な規律を確定し、事実のみに基づいた歴史記述を行うものである。」「彼らは、歴史を特定の立場に都合よく利用する思想を排し、科学的・客観的に歴史を把握しようという立場から主張する。」

 書かれていることは、学者の姿勢として当然の内容です。しかし問題は、この叙述にある気がします。

 「彼らは、歴史を特定の立場に都合よく利用する思想を排し、」

 現在の私たちが読めば、反日左翼学者たちがしていることと思いますが、学生時代に津田氏の著作を読んでいる私は、別の意味に解釈します。戦前に氏は天皇について調べようとした時、学内だけでなく、学界の学者たちから猛反対を受けています。天皇の存在について詮索するのは、とんでもない不敬罪でけしからんと、研究を断念させられた経験を持っています。

 氏にいわせると、「歴史を特定の立場に都合よく利用する思想」というのは、頑迷固陋な学者の「皇国史観」だったということになります。同じ言葉が時代の変遷とともに変化する不思議さを、私は「時の魔法」と呼びますが、今もそんな気持でブログに向かっています。

 多様な意見を認めることの難しさは、マスコミの報道でも分かりますし、「温故知新」の読書でも教えられます。一つの意見が絶対とされる社会が大抵歪んでいるのは、日本だけでなく、米国、ロシア、中国、韓国・北朝鮮、イスラム圏の国々を見ても分かります。

 大事なのは少なくとも「両論併記」で、対立する意見が存在していれば、バランスが取れます。しかし同時に私を悩ませるのは、「日本の特殊事情」です。保守と左翼が対立するだけならどこの国にもある話ですが、日本の左翼は自分の生まれ育った国そのものを否定します。歴史も文化もご先祖さまも、みんな間違った戦前につながっているとして憎み、軽蔑します。

 過去に何度も述べてきましたが、私が知る限り、社会主義の国でも、イスラム圏の国でも、彼らは自分の国そのものを否定していません。かっては偉大な国だったと誇りを持ち、そんな国へ戻ろうとして、現在の政権を攻撃しているだけです。笑う人もいますが、人類がある限り、私は次のことを普遍の事実として信じます。

  ・捻くれ者は別にして、多くの国民は自分の国を愛し、誇りを持っている。

 次は日本人だけに通用する、普遍の事実と信じていることです。

  ・捻くれ者を別にして、多くの国民は昔から天皇陛下を敬愛し、国民を束ねる中心におられると思っている。

 日本では、この二つを否定する政党と思想は、ご先祖から受け継いできたDNAが反対します。共産党の委員長が他国では国の頂点になりますが、日本では天皇陛下が国民の心の中心におられます。

 「プロレタリアートの独裁」など、日本にはそもそもマルクス主義が根づく土台がありません。金に転び女性に転び、自己保身だけに走り、国民の負託を忘れた自民党議員が沢山いるので、政権の座にある自民党を批判するのなら、それは結構なことです。反日左翼主義者が前記2点に気づいて、別の政治理論を立てられれば良いのですが、後ろ盾の学者たちが反日左翼一辺倒では、現状維持が関の山でしょう。

 私の思いを理解してくれる人がいるのかどうか、惑いつつ、ためらいつつ、次回は津田左右吉氏について述べようと思います。

コメント
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