ねこ庭の独り言

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『日本史の真髄』 - 27 ( 仁徳天皇の人となり )

2022-12-25 18:48:36 | 徒然の記

 仁徳天皇の人となりについて、渡部氏の解説を紹介します。

 「応神天皇は晩年に、年の若い菟道稚郎子 ( うじのわきいらつこ )を皇太子に立て、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと) ( 後の仁徳天皇 )を補佐役とし、長男の大山守命 ( おおやまもりのみこと  ) を山川林野の監督役にした。」

 「当時は必ずしも長子相続でなく、可愛い子を皇太子にした例である。」

 父系相続であれば、長男に拘らない時もあったのだと知りました。そうなるとやはり、問題が生じます。

 「応神天皇が亡くなられると、大山守命は自分が皇太子にしてもらえなかったことを恨み、皇太子を殺して自分が皇位につこうとする。これを知った二人の兄弟が協力して、謀反を起こした大山守命を川に落として殺してしまう。」

 可愛いからと一人の子を溺愛すると、後々の不幸につながると言う話ですが、ここで氏の注釈が入ります。

 「このように『記紀』には、天皇とその近親者の殺し合いのことがかなり多く書かれていて、左翼史家の言うように、皇室美化の歴史だとはとても思われない。」

 歴史を飾るために、凡庸な人物が傑出した偉人になったり、非凡な人間として語られる例がいくらもあります。かって読んだ『金○成伝』は、その良い例でした。

 「菟道稚郎子は、自分が兄をさしおいて皇太子になったのは、常道に反すると言って即位しない。兄の大鷦鷯尊も、先帝が決められたことだから自分が即位するわけにいかないと、これまた即位しようとしない。このような状態が3年も続いた。」

 「それで漁師が魚を献上しようとしても、どちらも自分が天皇でないと受け取られないので、菟道と難波を往復しているうちに鮮魚が腐ると言うこともあったと伝えられている。」

 『古事記』に書かれているとは言え、この辺りになりますと、初めて聞くことばかりです。

 「皇太子の菟道稚郎子は、どうしても兄が即位してくれないので、自分が長生きしていると天下の災いになると言って、自殺してしまった。それを嘆く大鷦鷯尊の様子など、『日本書紀』は詳しく記述している。」

 「皇太子はこうして夭折されたので、大鷦鷯尊が即位された。これが仁徳天皇である。」

 応神天皇の三人のお子が、順に大山守命、大鷦鷯尊、菟道稚郎子の三人であったことを知りました。もしかするとこれを教訓として、長子相続が守られるようになったのでしょうか。

 「今まで繰り返した詠嘆をもう一度繰り返すならば、アカデミックな権威ある年表と見なされる、歴史研究会編の『日本史年代表』( 岩波書店・昭和41年 ) には、仁徳天皇の名前が一度も出してもらえないと言うことは、何たることであろうか。」

 珍しく年表名が出されていますので、ネットで検索してみることにしました。簡単なようで難しい作業で、該当の本がなかなか見つからず、見つかったと思うと肝心の執筆者名が書かれていません。ネット販売のため、表紙や裏扉などが写真撮影してあり、何人かの学者の名前が見えました。開かれたページが曲がっているため、全員を確認できませんでしたが、読み取れた学者名を紹介します。中には学者と言えない朝日新聞記者の名前もありますが、そのまま転記します。

 遠山茂樹  松島栄一  新田英治  原田勝正  藤原彰  前川明久  百瀬今朝夫

 中村尚美  彦由一友  古島和雄  山口啓二  稲垣武 ?

 岩波書店も氏が言うほどに権威のある書店でなく、反日左翼の学者や評論家の悪書を数多く出版していますから、要注意です。「年表」の話に深入りせず、氏の解説に戻ります。

 「上代の天皇の中には、大仏を建立したり、大寺院を造営した方もおられる。それは宗教のことで国家鎮護・万民安寧の祈りのためであり、自分の宮殿を豪華にしようと言う情熱は、日本の皇室には甚だしく薄いのである。」

 「平安朝には唐の影響で都を大きくしようとしたが、宮廷そのものの贅沢さは大したことはない。皇室は贅沢してはいけないのだと言う、仁徳天皇以来の心理的チェックの要素があったと、考えられる。」

 「明治天皇は先祖崇敬の念の強い方であったから、倹約についてのエピソードは数多くある。昭和天皇も皇居造営には熱心でなく、国民の方を先にするようにとのご意向であった。」

 「日本が経済大国として再浮上すると、国際儀礼的にも宮殿が必要になり、新しい建物が作られるようになったが、その時も陛下の希望は質素ということだったと伝えられている。今の皇居が立派なのは、徳川幕府の城跡だったからである。」

 「徳川時代の江戸城はさらに巨大だったし、大阪城も然りである。その一方で京都の皇居は、大身の旗本屋敷か大名の下屋敷と大差なかった。江戸城が皇居になってからも、仁徳天皇以来の理念は生きているというのに、その仁徳天皇が歴史から抹殺されているのは、歴史というものを知らない学者たちのためである。」

 繰り返される氏の詠嘆を読んでいますと、左翼学者の罪深さが分かります。ホイットニー准将から「日本国憲法」の草案を受け取った、東大の左翼学者たちが明治憲法とのつながりを捏造したことだけを重要視してきましたが、こんなところまで手を突っ込んでいました。

 許し難い彼らへの「詠嘆」が、最後の締めくくりにも書かれています。

 「仁徳陵という遺物があるだけでなく、『日本書紀』や『和漢朗詠集』を通じ、庶民の川柳にまで浸透しているというのに、仁徳天皇が全く存在しないという発想は、どう考えてもまともでない。」「キリスト教会があるのに、キリストはいなかったと言った歴史家と同列と見て良いであろう。」

 氏は「詠嘆」という言葉を使いますが、私なら「怒り」としか言いません。

 次回は63ページ、

  「 四闋 四天王  ( してんわう )   用明天皇の「改宗」  5行詩  」

 の書評へ進みます。

コメント (4)
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