四闋 四天王 ( してんわう ) 用明天皇の「改宗」 5行詩
五闋 大兄靴 ( おほえのくつ ) 大化の改新 7行詩
六闋 復百済 (くだらをふくす) 白村江の戦い 9行詩
七闋 放乕南 ( とらをみなみにはなつ ) 壬申の乱 7行詩
今回は、シュナイダー教授と氏の会話を紹介します。
〈 渡 部 〉
・日本の天皇は古代の神々の直系ということになっており、今でも神道の最高司祭のような方です。
〈 教 授 〉
・それは、古代のゲルマン人の間でもそのようなものだった。仏教が来た時、天皇はどうしたのか。
〈 渡 部 〉
・日本では神道と仏教が共存しました。天皇が仏教の寺院を建てられたり、皇子や皇女が仏門に入ったり、天皇だった人が仏門に入る(法皇)になることもよくありました。
〈 教 授 〉
・天皇が神道の最高司祭であって、仏教徒でもあるようなことはいつ頃からなのか。
〈 渡 部 〉
・六世紀末で、イギリスに聖アウグスティヌスが来た頃です。
会話の後自宅へ戻り、氏は教授の質問に正しく答えていなかった自分に気づきます。仏教渡来時の天皇について聞かれていたのに、そのことについて答えていなかったからです。
「私自身最初に仏教に改宗した天皇について、聞いたことがなかった。日本史の本や年表を持ってきていたのに、どこにも〈天皇の改宗〉ということは書いてなかった。ヨーロッパならば、コンスタンティヌス大帝の改宗から始まって、王様や皇帝の改宗ということは重大事件である。」
しかし日本では〈天皇の改宗〉について、歴史家の意識にほとんど上っていなかったのだということに気がつきます。帰国後に『日本書紀』を丁寧に読み、最初に仏教に改宗した天皇が用明天皇であることを知ります。
「私の知る限り日本史の本では、古代の仏教については、欽明天皇の御世(538年)に仏教が渡来したとか、聖徳太子が仏教を興隆したとかいう話が中心で、どの天皇が最初に改宗したかという話は、無視されていたと言って良いと思う。」
言われてみればその通りで、私も改宗した天皇について教わった覚えがありません。そもそも神道の最高位におられる天皇が、他の宗教へ変わられるなど考えたこともありませんでした。
「頼山陽も、天皇改宗という問題意識は鋭くなかったようで、『日本学府(がふ)』においても、すぐに聖徳太子と四天王の仏像の功徳を扱う闋(けつ)となっている。しかし日本で仏教に改宗なさったのは、聖徳太子の御父の用明天皇である。」
頼山陽の詩の背景にあるのが、4回の宗教戦争だったというのが氏の解釈です。用明天皇になられるまで、欽明天皇と敏達天皇がおられ、それぞれの御世に仏教に関し争いが起こっています。事件そのものは『日本書紀』に書かれているが、歴史家がこの争いを「宗教戦争」と見なかっただけであるというのが、氏の解釈です。
1. 欽明天皇の御世・・蘇我氏対物部・中臣氏の争い
2. 敏達天皇の御世・・蘇我氏対物部・中臣氏の争い
3. 用明天皇の御世・・蘇我氏対物部・中臣氏の争い
4. 推古天皇の御世 ・・蘇我氏対物部・中臣氏の争い ( 摂政・聖徳太子 )
4回とも、蘇我氏対物部・中臣氏の争いとなっており、氏はこれを「六世紀における国際派と国粋派の戦い」とタイトルをつけています。どうしてそうなるのかは、蘇我、物部、中臣氏の系譜を読むと分かります。4回の宗教戦争の内容を知る前に、興味深い各氏の系譜を紹介します。今の日本は、保守対反日左翼勢力の対立・争いとなっていますが、当時は国際派と国粋派の争いだったということになります。
古代から日本は、保守と外国に影響された勢力とが争ってきた事実を知ると、なんだそういうことだったのかと思えてきます。徳川300年間の鎖国時代が例外だった訳で、他の時代は国粋派が国際派と対立していました。これが普通の状態なら、今をめくじらを立て大騒ぎする必要もなさそうです。
「外国の影響は受けても、日本の国そのものの本質は変わらないで続いている。考えている以上に日本は、柔軟性のある国ではないのか。」
暮れも押し詰まった慌ただしい毎日ですが、大掃除や買い物の合間を縫い、余裕を持ってブログへ向かえる有り難さです。平常心を失わず、次回は氏が解説する蘇我、物部、中臣氏の系譜を紹介します。