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「日本のジャパンハンドラー・財務省」は、宮沢喜一氏でした。
著名な政治家なので記憶している方が多いと思いますが、今日から検討作業に入り、まず氏の略歴を調べました。
〈 氏の経歴 〉
・大正8 ( 1919 ) 年〉10月生まれ、平成19 ( 2007 ) 年 (88才)没
・東京市生まれ、本籍は広島県福山市
・第78代内閣総理大臣・・( 55年体制最後の総理大臣 )
・初代財務大臣、 第88、89、105、106、107代 大蔵大臣
・第18代農林水産大臣 第56代郵政大臣
・副総理 ( 竹下内閣 ) 第44代内閣官房長官 第98代外務大臣 第30代通商産業大臣
・第12、13、17、18、29代経済企画庁長官 第15代自由民主党総裁 総務会長
経歴を見ても、氏が優秀な官僚であり政治家だったことがうかがえます。氏だけでありませんが、政界でトップに立つ人物は育った環境が大きく影響しています。生涯を通じて変わらない強い自己実現意欲、別の言葉で言えば出世欲が、早くから植えつけられていたのではないでしょうか、
ウィキペディアの解説を紹介します。
・母ことは、司法大臣、鉄道大臣などを歴任した小川平吉の次女
・父の裕は山下汽船に勤務していたが、政界を志し、広島県から国会へ進出しようとして着々と準備を進めていた。
当時氏の家でお手伝いをしていたという、従姉妹の女性の話が紹介されています。
・幼少の頃の3兄弟はいずれも二つ違いで、仲の良い兄弟でした。
・住まいは東京でしたが、夏になると父の故郷福山に帰り、海水浴に出掛けていました。
・お母さんの言うことをよく聞く、礼儀正しい子でしたね。
・高校、東大に通われる頃、私はその頃東京の家へお手伝いに行っていたのですが、勉強ばかりしているのが印象的でした。
東京大学法学部在学中の昭和14 ( 1939 ) 年に、第6回日米学生会議に参加するため渡米しています。
日米学生会議の開かれた昭和14年は、対中和平工作に失敗した近衛内閣が総辞職した年でした。9月にはドイツがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が勃発しています。
米国との関係では12月に駐日米大使グルー氏が日米通商航海条約などの締結を拒否し、日本の対中国政策の変更を要求するアメリカとの交渉が不成功に終っていました。
こういう剣呑な時期に「日米学生会議」が開催され、宮沢氏が出席していました。「学びのねこ庭」ですから、早速調べました。
〈 日米学生会議 〉
・日米学生会議は、日本初の国際的な学生交流プログラムである。
・米国の対日感情の改善、日米相互の信頼回復を目指し、「世界の平和は太平洋にあり、太平洋の平和は日米間の平和にある。その一翼を学生も担うべきである」という理念の下、昭和9 ( 1934 ) 年に発足した。
・会議では、日本と米国からの学生が約3週間にわたって共同生活を送りながら様々な議論や活動を行い、会議全体を通して、様々な世界の問題に対して学生同士の活発な議論を行うとともに、日米両国の参加者間の相互理解を深めていくことを目的としている。
このような会議の存在を、初めて知りました。現在は文部科学省と外務省が認可・支援する財団法人ですが、当時は日本の学生有志の発案による組織だったそうです。話がテーマを外れると思われるかもしれませんが、「ねこ庭」は日本の「ジャパンハンドラー」の萌芽をここに見る気がしています。
この年になるまで「日米学生会議」について知りませんでしたが、学校で教えませんでしたし、マスコミもほとんど取り上げていなかったのではないでしょうか。
ウィキペディアの説明を、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に紹介します。
・当時の日本政府の意思と能力の限界を感じた学生有志は、全国の大学の英語研究部、国際問題研究部からなる日本英語学生協会(国際学生協会の前身)を母体として、自ら先頭となって準備活動を進めていった。・当時の資金、運営面で多くの困難を抱えながらも4名の学生使節団が渡米し全米各地の大学を訪問して参加者を募り、総勢99名の米国代表を伴って帰国した。・こうして第1回日米学生会議は青山学院大学で開催され、会議終了後には満州国(当時)への視察研修旅行も実施されるに至った。日米の関係が険悪になりつつある時期だったため、「学生会議」に参加する学生は特高警察に睨まれ、「この国家非常時に、毛唐と一緒に騒ぎ立てるとは何事か」と叱責を受けたという話もあります。 -
・日本側の努力と熱意に感銘した米国側参加者の申し出によって、翌年第2回日米学生会議が米国オレゴン州ポートランドのリードカレッジで開催された。
・以後昭和15 ( 1940 ) 年の第7回会議まで、日米両国で毎年交互に開催された。しかし、太平洋戦争勃発に伴い、日米学生会議の活動も中断を余儀なくされた。
宮沢氏が参加した「日米学生会議」は、学生数は日米男女合わせて同数で48名だったと言います。特攻警察に目をつけられていたとは言え、参加した学生は当時の「エリート」でした。その学生の中で氏が最も親しくし、戦後も交友を続けた4名の学生についてウィキペディアが説明しています。
これもまた、テーマに無縁と見えてそうでありませんので、次回は4人の学生に関する情報を紹介します。