現在154ページを進行中です。学生が一年かかって勉強する教科書ですから、簡単に読めません。ページ外の「はしがき」に戻り、著作の分かり難さがどこから生まれているのかを、考えることにしました。
「大学で講義される憲法学は、高校における〈一般社会〉や〈政治経済〉の一環として説明される憲法学と、」「大きく異なる。」
「最大の違いは、制度の解説でなく、その制度の沿革をさぐり、」「趣旨、目的、機能を、諸々の見解との比較検討、」「対立し合う価値・利益の比較衡量を通じて、具体的に検討し、」「一定の結論を導き出す、論理構成能力を養うことを、」「目的としている、と言うことである。」
「はしがき」にしても、冗長な繰り返しと、多用される修飾語を省略しています。憲法の内容が広範であるばかりでなく、私を困らせているのは、やはり氏の整理されない文章にあるような気がします。
「第一部 総論」 「第二部 基本的人権」 「第三部 統治機構」
教科書は、大きく三部構成になっています。「総論」を受けた「第二部」「第三部」が、各論ですから、総論で述べられたことが、ここでまた繰り返されます。判例や他の教授の学説が挿入されるのは、教科書だから当然ですが、学生たちは本当に理解したのでしょうか。
これが氏の言う「諸々の見解との比較検討」、「対立し合う価値・利益の比較衡量」なのでしょうが、私には、何でも放り込んで煮た「雑炊」を出されたような気がします。
東大の学生は理解したのだと、もし氏に反論されると、黙るしかありません。現在「第一部 総論」を読み終え、「第二部 基本的人権」の途中ですが、どうもそんな簡単な話ではなさそうです。ブログの第一回目で述べましたが、この本は「反日左翼」の教科書です。難解な文章が綴られているとしても、目的はハッキリしています。息子たちのため、1回目のブログの書評を転記します。
「ここまでで分かったのは、徹底した「明治憲法」否定の教科書だということです。氏の頭には、明治憲法は封建的で日本国憲法は近代的、という固定観念があるらしく、そこから意見が組み立てられています。」
東大の法学部には優秀な学生が多いから、氏の講義の字面は理解したと思いますが、「明治憲法」の否定が、結局は「日本の過去」の否定なのだと、そこまで理解したかどうかです。悪法の「日本国憲法」を有り難がり、戦前の日本を否定する学者が、東大の教室から育ち、日本の憲法学をダメにしている現実を思うと、学徒の一人として、頑張らなくてなりません。
実例を挙げた方が、息子たちに分かりやすいと思いますので、55ページ「平和主義の起源」の部分を、そのまま紹介します。長いけれど、我慢してください。
「平和主義原理が、日本国憲法に採用された背景には、」「昭和16年8月の〈大西洋憲章〉( 侵略国の非軍事化の原則 ) 、昭和20年7月の〈ポツダム宣言〉( 軍国主義者の勢力の否定、戦争遂行能力の破壊、軍隊の武装解除 )、」
「昭和21年2月の〈マッカーサーノート〉( 戦争放棄、軍隊の不保持、交戦権の否認 ) など、国際的な動向、」「とりわけアメリカを中心とする、連合国側の動きがあるが、」「それに加えて、日本側の意向も反映されていると、」「見ることができる。」
この部分は、つい先日まで『最後のご奉公』の書評で言及した内容です。著名な教授の講義ですから、東大生は真面目に聞いたと思います。
「特に、憲法制定当時の幣原首相の、平和主義思想が、」「マッカーサーノートの、一つのきっかけとなったと考えられる。」「幣原首相がマッカーサー元帥を訪問し、憲法問題を含め、」「日本の占領政策について会談した際、戦争放棄という考えを、」「示唆したと、伝えられている。」
「幣原はそれが、天皇制を維持するため、必要不可欠だと考えたのである。」「従って日本国憲法の、平和主義の規定は、」「日本国民の平和への希求と、幣原首相の平和主義思想を前提とした上で、」「最終的には、マッカーサーの決断によって作られたと、解される。」
「日米の合作とも言われるのは、その趣旨である。」
息子たちに言います。このいい加減な叙述が、東大の憲法講義です。「東京裁判史観」そのものが、氏の頭を占有しています。もはや「外国かぶれ」とういう段階でなく、氏は「獅子身中の虫」、「駆除すべき害虫」です。
一体この説明のどこが、「諸々の見解との比較検討、」であり、「対立し合う価値・利益の比較衡量」なのでしょうか。ここにあるのは、「ご先祖様の否定」と「日本の歴史の否定」です。日本の憲法学の権威などと、笑わせないで欲しいものです。
氏が展開しているのは、「羊頭狗肉の講義」です。