昭和2年、内戦の続く中国で、武装蜂起した大衆デモが、イギリスの租界に侵入するという事件が発生しました。幣原外相の許に、駐日イギリス大使が訪れ、共同出兵を促しました。
「このままでいくと、漢江だけでなく上海も危ない。」「われわれは、居留民と権益保護のため、」「中国へ兵を送る方針です。」「日本にも、共同行動をお願いしたい。」
しかし、中国に対し不干渉主義をとる外相は、言下に拒絶しました。塩田氏の説明によりますと、幣原外相は次のように考えていたそうです。
・ 中国の排外主義の矛先は、いつも日本に向けられていた。
・ しかし不干渉主義政策の効果が現れ、今度は日本でなく、イギリスに集中し始めた。
・ 中国で、再び排日主義が火を噴いては大変だ。居留民保護のためにも、不干渉主義が最も効果的なのだ。
イギリスは諦めて独自に出兵しましたが、中国政府と中国人は、こんな昔から激しい排日を続けていたのかと、改めて教えられました。江沢民氏や習近平氏が、ことさら反日を主張しているのでなく、もっと根深いのだと知りました。日本を千年恨むという韓国も同じで、彼らの反日感情は、手のつけようが無いような気がしてきました。
同じ年の3月に、さらに大きな事件が発生します。蒋介石軍が南京に入城し、その一部が外国人の住居や領事館を襲い、略奪や暴行を繰り返したのです。
「南京の揚子江岸に停泊中の、イギリスとアメリカの砲艦は、」「蒋介石軍に砲撃を始め、間も無く兵員の上陸も敢行した。」「暴徒は、日本の領事館も襲撃した。」「しかし日本は、最初から最後まで無抵抗を貫いた。」「日本の駆逐艦 " 檜 " が停泊中であったが、一発も砲撃しなかった。」
当時の状況を、塩田氏が述べていますが、これがいわゆる「幣原外交」でした。4月には、漢江でまたも騒動が起こりました。中国人の群衆が、日本の水兵を襲撃し、その勢いで、日本租界に侵入し略奪を行います。この時もイギリスの駐日大使が、外相を訪ね、共同出兵を促しますが、今度も色良い返事をしませんでした。その時の答えを、氏の著作から紹介いたします。
1. よその国と違って、シナは心臓が一つでなく、無数にある。
2. 心臓が一つだとそこを叩き潰せば、その国は麻痺容態に陥る。
3. しかし支那は、一つの心臓を潰しても、他の心臓が動いていて、鼓動が停止しない。
4. 全ての心臓を叩き潰せれば話は別だが、それは到底不可能だ。
5. 武力制圧の手段を取ると、いつになれば目的を達することができるのか、予測がつかない。
6. 以上の理由で、わが国は共同出兵をしない。
群雄割拠する中国について、幣原氏の認識は的確であったと思います。この認識があれば、泥沼の中国戦争に引き摺り込まれることもなく、敗戦しなかったのではないかと、そんな気もします。日本のリーダーとして、氏は間違いなく卓越した人物の一人だったのではないでしょうか。
しかしネットを検索しますと、次のような情報がありました。
「領事館を含む事件の惨状に立ち会った、佐々木到一中佐は、その時の酷い被害状況を以下のように記している。」
「領事が神経痛のため、病臥中をかばう夫人を良夫の前で裸にし、」「薪炭車に連行して27人が輪姦したとか、」「30数名の婦女は、少女にいたるまで陵辱され、現に我が駆逐艦に収容され、」「治療を受けた者が、10数名いる。」「警察署長は射撃され、瀕死の重傷を負った。」「抵抗を禁ぜられた水兵が切歯扼腕し、この惨状に目を覆うていなければならなかった。」
砲撃を許されなかった駆逐艦の艦長は、のちに割腹し命を絶っています。
「多数国民を救うためなら、少数の犠牲には目を瞑る。」
国のリーダーに求められる、苦渋の決断ですが、これが 私の言う「冷徹な幣原外交」です。
現在、334ページを進行中ですが、私には今もなお、幣原元総理の人物像が理解できないままです。「日本国憲法の生みの親」と言われる氏について、著者の塩田氏は自分なりの理解で説明していますが、私には違った幣原氏が感じられてなりません。
息子たちと、「ねこ庭」を訪問される方々にお願いします。もう少し、時間を貸してください。