ねこ庭の独り言

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『 最後のご奉公』 - 4 ( 学閥と閨閥 )

2021-08-13 20:21:13 | 徒然の記

 明治5年生まれの幣原元総理(男爵)は、『最後の殿様』を書いた徳川義親侯より、14才年長です。日清戦争が始まった時、幣原元総理は大学の3年で、義親侯は8才でした。

 殿様育ちの義親侯は我が道を行く劣等生で、幣原元総理は優秀な学生でしたが、どちらも東大生です。明治維新を成し遂げたのが、薩長土肥の下級武士というせいもあったからでしょうか、当時は「立身出世」が男の道でした。

 塩田氏は、そんなつもりで伝記を書いていないのでしょうが、親子、友人、知人、親戚など、詳しい説明を読んでいますと、政治家と役人には、学閥と閨閥が切っても切れないものだということが分かります。

 当時大学といえば、明治天皇が作られた東大があるばかりでしたから、ここに全国から、とびきり優秀な人材が集まりました。北大のクラーク先生が言ったように、「青年よ、大志を抱け。」の時代で、政治家なら総理、軍人なら大将が青年の夢でした。

 伝記の中から、学閥・閨閥の部分だけを抜き書きします。幣原元総理と関係の深い、二人の人物 ( 加藤高明、木内重四郎 )と共に、ネットの情報を含めて紹介します。

 〈 1.   加藤高明 ( 義兄 ) 〉

  ・ 明治14年、東京大学法学部を首席で卒業し、三菱に入社。

  ・ イギリスに勤務し、帰国後は、三菱本社副支配人となる。

  ・ 明治19年、岩崎弥太郎の長女・春路と結婚。後に政敵から「三菱の大番頭」と皮肉られる

  ・ 大正13年、憲政会が比較第一党となり内閣総理大臣就任。

 〈 2.   木内重四郎 ( 義兄 ) 〉

  ・ 明治21年、東京大学法学部を特待生として卒業し、官界に入る。

  ・ 農商務省商工局長、韓国総監府農商工務総長、朝鮮総督府農相工務部長官等を歴任。

  ・ 明治44年、勅選の貴族院議員、大正5年、官選の京都府知事に就任。

  ・ 岩崎弥太郎の次女・磯路(いそじ)と結婚。

  ・ 弥太郎の長女と結婚した加藤高明が、憲政会総裁をであったため、木内も憲政会に所属。

 〈 3.  幣原喜重郎   〉
 
  ・ 明治28年、東大法学部を卒業した幣原は、後の首相・濱口雄幸と成績は常に1、2位を争った。
 
  ・ 明治36年、岩崎弥太郎の五女・雅子と結婚。
 
  ・ 大正13年 加藤高明内閣の時、外務大臣となる。
 
  ・ 以降、若槻内閣、濱口内閣で4回外相を歴任した。
 
 幣原元総理だけでなく、政界も官界も経済界も、学閥と閨閥が有力者たちを結びつけています。宮沢喜一氏は、「東大の法学部を出ていない人間は、二流だ。」と言うのが、酔った時の口癖だったらしく、周囲のひんしゅくを買っていました。私が知らないだけで、現在の日本も、形を変えながら、こうして動いているのかもしれません。

 著者の説明によりますと、幣原元総理は積極的に岩崎家の五女と結婚したのでなく、先輩である加藤氏に口説かれ、渋々同意しています。なぜなら当時の氏には、韓国勤務時代からのイギリス人の恋人がいたからです。相思相愛の仲でしたが、自分の将来のため、考え抜いた末恋人を断念します。

 薄情な人間と氏を責める者もいますが、文豪森鴎外も、同じ経験をしています。鴎外はドイツ留学時代に、現地の女性と恋に陥りますが、親ばかりでなく、親類縁者に反対・説得され、諦めています。名作「舞姫」は、鴎外の悲しみを描いた作品だそうです。

 幣原元総理と鴎外については、時代の流れでそうなったのだと、非難でなく、むしろ同情が先に立ちます。本人も、相手の女性もです。

 だが、物好きで恋の話を紹介したのではありません。情に流されず、理で外交を考える冷徹な氏を語るための、ヒントになると考えました。次回は、「幣原外交」の冷徹さを紹介いたします。

コメント (4)
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