ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『 最後のご奉公』 - 3 ( 外交官への決意 )

2021-08-12 21:43:57 | 徒然の記

 氏は、ドキュメント作家と呼ばれますが、一体その意味は何なのでしょう。ネットで調べても、当たり前すぎるせいか、説明がありません。「ドキュメント」だけを検索すると、これはあります。

  1 資料的な文書。記録。   記録映画。記録文学。

 「ドキュメント」の対立語は、「フィクション」ですが、反日左翼の学者たちや、テレビや新聞が常に手本を見せていますから、これは検索しなくても知っています。空想、作りごと、絵空ごと、捏造、嘘・・と、いくらでも言葉があります。

 20才の心で、読書をしていますが、私の心には学徒の躍動感がありません。塩田氏の著書の一行ごとが、苦い薬を飲んでいるような味です。作家が伝記を書くというのは、その人物に好感を持っているからです。嫌悪する人物の伝記を書いた作家の話は、聞いたことがありませんから、氏が幣原氏について述べるとき、好意的な語り口になるのは、当然です。

 現在192ページを読んでいますが、幣原氏の「国際協調外交」、「平和外交」を好意的に語れば、勢い軍や政府の政策には、批判的になります。

 氏は反日左翼作家ではありませんが、微妙に私と異なる位置に立っています。幣原氏を肯定し、憲法を肯定し、GHQを肯定する、その氏を肯定すると、

  ・「自主憲法制定」  ・「皇室護持」・・

 という、日本の一番大切なものに到達できません。知らないことを教えてくれる氏は私の師ですから、黙って読みますが、息子たちには言います。この書がドキュメントであるのなら、学徒は教えを受けるしかありませんが、こんな読書ばかりをせずにおれない戦後の日本を、父は無念に思います。

  1. 資料的な文書。記録。   . 記録映画。記録文学。

 ネットの説明はそうですが、資料でも、記録でも、作者の取り上げ方次第で、違ったトーンが生まれます。羅針盤の針をそこに合わせ、ためらいつつ、戸惑いつつ、私は先へ進みます。

 幣原氏が、外交官を目指そうと思った、直接のきっかけは、大学二年の末に起こった、日清戦争だそうです。明治27年8月、日本は清国に宣戦布告しました。

 「世界中の人々は、新興国の日本がアジアの老大国の清と戦っても、」「勝ち目はないと思った。」「日本とすれば、国運を賭した戦争であった。」

 しかし日本は、黄海海戦に勝利し、旅順口を攻略し、山東作戦を実施し、ついに清の北洋艦隊を降伏させました。李鴻章との間で講和の談判が始まり、下関条約が調印されます。

 「幣原が大学三年だった1年間、日本国中が、」「日清戦争一色に、塗りつぶされた。」「同じ年頃の若い連中は、口を開くと悲憤慷慨し、国の行く末を論じ合った。」

 日本は下関条約で、清から台湾と遼東半島を獲得しました。しかし、ロシア、フランス、ドイツの三国が異を唱えました。この話は「臥薪嘗胆」の言葉とともに、誰もが知っていますが、日本は遼東半島を還付させられました。

 「日本は戦争に勝って、外交に負けたのだ。」「こんなことではいけない。」「国運を打開するため、俺は外交官になるぞ。」

 氏は固く決心したそうです。その氏が、どうして国運を傾ける「日本国憲法の生みの親」と言われるのか。先を読まずにおれません。本日はここで終わりますが、明日も続けますので、「ねこ庭」へお越しください。( 楽しいことや愉快なことは、当分ありません。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『 最後のご奉公』 - 2 ( 陛下とマッカーサーの写真 )

2021-08-12 14:41:53 | 徒然の記

 どのページを読んでも、日本の歴史です。随分本を読んだつもりですが、塩田氏の著作は私の知らないことを沢山教えてくれます。

 「知っているつもりなのに、知らなかった事実」・・そんなものばかりです。私たちがよく知っている、「陛下とマッカーサーの写真」もその一つです。モーニング姿で立たれた昭和天皇の脇に、開襟シャツ姿のマッカーサー元帥が立っている、あの有名な「写真」です。

 敗戦というものが、どういう現実だったのか、息子たちのためにも、氏の叙述を紹介しようと思います。

 「昭和20年9月15日、総司令部は横浜から東京に移り、」「日比谷のお堀端に立つ第一生命相互ビルに、陣取った。」「マッカーサーの公邸は、そこから20キロ先の米国大使館内に設けられた。」「天皇は総司令部でなく、大使館の方へ出向くように言われた。」

 これが陛下とマッカーサー元帥の、歴史的な会見の叙述で、他の本では陛下のお気持ちや随行者など、詳しく書いていましたが、氏は簡単に説明しています。

 「天皇が案内されて入ると、マッカーサーがノーネクタイの開襟シャツ姿で迎えた。」「挨拶が終わると天皇は、お付きの者を一人一人紹介した。」「マッカーサーは、天皇と通訳の奥村二人だけで、隣の応接間に入るように言った。」

 部屋に入ると、いきなりマッカーサー元帥が、「ここへお立ちください」と言い、陛下は部屋の中央に立たれた。

 「何をさせられるのかと思っていると、マッカーサーが大股で近づいてきて、」「横向きに並んで立った。」「それを合図に、陸軍写真班の腕章を巻いたアメリカ兵が現れた。」

 彼はガエタノ・フェレーズという名前の、元帥専属のカメラマンで、彼と共に各地を転戦してきた人物でした。彼は天皇と元帥の姿を何枚か撮り、終わると部屋を出て行きました。あっという間の出来事だったそうです。

 ここから先も、私の知らなかった事実です。

 「東久邇内閣は、天皇のマッカーサー訪問について、一応秘密にした。」「天皇が、敵将であるマッカーサーを自ら訪問したという、」「前代未聞の事実を、国民にどうやって知らせたら良いのか、」「説明に苦慮した。」「その結果会見の事実だけを簡単に発表し、お茶を濁した。」

 「ところが総司令部は、大々的に発表し、」「日本が戦争に負けたことを、日本国民に思い知らせようと考えていた。」「そのためわざわざ、天皇とマッカーサーが並んで立つ姿を撮影させたのだ。」

 総司令部は、この写真を新聞各社へ送りましたが、当時の日本にはまだ、報道の事前検閲制度が残っていました。しかし総司令部から送られてきた写真であるため、各社は、一面のトップ記事で報道しました。

 「刷り上がった翌日の新聞を見た、内務省の検閲官は、目を丸くした。」「内務省は協議の結果、朝日、毎日、読売の各社に対し」「発売禁止処分を通告した。」「開襟シャツ姿のマッカーサーと、モーニング姿の天皇が並んで立つ写真を発表することは、」「畏れ多いという判断である。」

 翌朝そのニュースが総司令部に伝わり、成り行きを見守っていたマッカーサーが激怒します。総司令部はマッカーサーの名前で、指令を発しました。

 「新聞と通信の自由に関する制限は、すべて撤廃せよ。」

 総司令部の民間情報検閲課長のフーバー大佐が、新聞各社の代表を呼びつけました。

 「発禁処分を受けた新聞も、自由に発行して差し支えない。」

 ところが検閲の大元締めである内相の山崎巌は、総司令部の考えについていけませんでした。司令が出された直後に、新聞記者を集め、自分の見解を述べました。

 「言論、出版、結社については、今まで通り許可制をとるが、」「制限は飛躍的に緩和されている。」「しかし、治安警察法の精神はこれからも生かしていくつもりだ。」

 「国体を破壊するような言動は、依然として取り締まりの対象になる。」「政治犯の釈放は、当面考えていない。」

 日本の終戦時の内閣は、鈴木貫太郎内閣でした。彼は陛下の玉音放送が終わるとすぐに、総辞職し、後継首班に選ばれたのが、皇族の東久邇宮稔彦氏でした。敗戦が決定しても、未だに本土決戦を唱える軍人があちこちにいたため、天皇の威光が必要でした。皇族内閣を作るしかないと考えたのは、内大臣木戸幸一でした。

 それを考えますと、山崎内相の意見も一つの事実として納得しますが、著者の塩田氏は切り捨てます。

 「時代錯誤の内相談話は、すぐさま総司令部に伝わった。」

 時代錯誤も何も、戦争は終わったばかりです。別の言葉は、思いつかなかったのでしょうか。内相の言動を、すぐさま問題視した総司令部の側に立つ叙述です。

 「内相の発言は、占領政策批判ではないかと、総司令部が構える。」「総司令部の中から、内相を首にすべきだという声が出ているそうです。」「噂を聞きつけた、内閣秘書官長の緒方竹虎が、首相に会って耳打ちした。」

 首相は即座にマッカーサー元帥を訪ね、皇族である自分の内閣がいけないというのなら、いつでも辞めると申し入れます。元帥は、皇族であっても首相の思想と言動は民主主義的であると言い、辞任を求めませんでした。

 その6日後に、総司令部が次の要求を入れた覚書を示してきました。

 ・政治的、公民的、及び宗教的自由に対する制限の除去

 ・内相を含む全国の警察幹部と、特高警察全員の免職

 ・政治犯の釈放

 これを見た首相の言葉を、そのまま転記します。

 「マッカーサー元帥は、この前の会見の際、大臣を変える必要はないと言っていた。」「にもかかわらず、1週間も立たないうちに、この指令を出してきた。」「これは元帥が、私の内閣を信用していないということだろう。」

 東久邇首相は、全閣僚の辞表を取りまとめ天皇へ提出したということです。当時も今も、こうしたGHQ統治下の話は、ほとんど語られません。新聞やラジオが事実をそのまま伝えていたら、果たしてGHQの統治は成功し得たのかと、疑問が湧いてきます。総司令部は、日本政府の言論統制は撤廃させましたが、自分たちの統制は容赦無く守らせました。70年以上経った今も、その統制の多くをマスコミが守り続けています。

 息子たちは、今回のブログをどのように受け止めるのでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする