温故知新No2

静岡県の牧之原市から、盆栽、野球審判、蕎麦打ち、おやじバンド、その他徒然なるままに、ブログしています。

2017 恩人の逝去

2017-12-08 20:53:09 | 日記・エッセイ・コラム
二日前、私の恩人である元榛原町役場助役増田俊郎氏が亡くなられた。
この頃闘病生活を送っていたとは聞いていたが、ただ病状は安定し、まだまだ奥様の介護による生活が続くと思っていた。

しかし、主治医の往診を受け普段通りとのお墨付きを得たその日の夜から容態が急転し、翌日明け方静かに息を引き取った。

氏は、私が榛原町役場に就職しその最初の部署、総務課行政係の係長で、私の最初の上司であった。
したがって当然にその影響は大きく、しかも氏は、当時職場きっての仕事師であり、切れ者であった。

したがって、大学時代のぬるま湯生活がまだ染み込んでいる心身を一気にたたき上げられ、新人職員とは程遠い(私にはそう思えた)オーバーワークを毎日強いられた。

自分の担当事務はしっかりと法律、事務処理の基礎から仕込まれるが、それ以外の仕事も与えられ負荷がかけられていた。

今でも覚えているが、そんな中でも毎年4月1日の辞令交付の前夜は、たいてい異動辞令作りで日が替わる。

年度替わりの直前に出す人事異動の内示だが、要はそれ以降の昇格、昇給などの調整、そこに組織の改編が加われば新たな組織名での異動など、辞令交付までのわずかな間の作業は膨大。

今となれば人事システムで自動的に辞令書案文ができるが、当時は手動。
係長が案分原稿を手書きでなぐり、それを私が心もとないワープロで辞令書台紙にプリントアウトする。

それを昼間の通常仕事を終えた夕方から、対象100人前後の辞令を作り始めるので、最後の町長印を押す時には午前0時を回る。
毎年の恒例事務であった。

ただし、これをはじめとする過酷な作業も、増田氏の元では何にも苦に感じなく、私は粛々とこなしていった。
氏は事細かい指示、指導を与えるが、一方ひたすら自ら考え、激しく動き職務を遂行していた。

そんな姿を見ればこちらも否応なく考え、動かざるをえない。
そして、氏のそんな姿勢に私の性格が共鳴していたのだろう。

今思えば、この時のたたき上げが、私がその後行政マンとして一つの道を歩み、定年を迎えることができたその礎であったと確信する。

氏は、その後様々な部署の課長職を異動したが、私も大方その都度氏の後を追うような異動歴であった。
最後は助役になり、これも私の恩人である大石哲司元榛原町長の補佐役を勤め退職された。
その時私は、私が就職した時の氏のポスト、行政係長になっていた。

それにしても、私が定年を迎えたその年にお亡くなりになるめぐりあわせを不思議な感覚で振り返る。
就職から退職まで、私を指導し、時には叱咤激励し、私の公務員生活を終わるまでの生きざまを見届けて逝かれたのか・・・。

私は、この1年間で最も大切な恩人二人を一気に無くした。
元榛原町長であり元県議会議員の大石哲司氏が昨年の11月、そして増田氏がこの12月。

60歳を迎え、さあこれから恩師と楽しい老後をと思っていたところであるが、それが叶わぬものとなる。
年の瀬を迎えた。
まだ今年を振り返るには早いと思うが、やはり今年は一生のうちで印象に残る大事な1年のひとつであった。

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