温故知新No2

静岡県の牧之原市から、盆栽、野球審判、蕎麦打ち、おやじバンド、その他徒然なるままに、ブログしています。

2021 新たな解釈「流転」・・・浮世かるたの

2021-07-31 06:53:06 | 作詞家藤田まさと先生
久しぶりに、藤田まさと先生の「流転」の歌詞に関するコメントをいただきました。

M Kawai 氏から
「はじめまして
清水次郎長について調べいたところ、玉川カルテット、東京ボーイズから裏町人生、流転、藤田まさと先生にたどり着きました。
流転の歌詞の中の、「浮世かるたの」の、「かるた」について、ある発見をしました。
高校3年生の息子の数学の宿題で、ジョロラモ・カルダーノの確率論、「サイコロあそびについて」調べるというものがあり、私も一緒に調べました。
ジョロラモ・カルダーノはイタリアの医師であり数学者であり、人生を賭博に費やした方です。
カルダーノを、英語表記はCardano、ポルトガル表記は、Cartanoとなるようです。
日本の「かるた」はカードが由来です。流転の「かるたの」は「カルダーノ」のことではないでしょうか。
もし、藤田まさと先生がジョロラモ・カルダーノという人物を知っていたらですが。偶然でしょうか。「浮世かるたの浮き沈み」はまさにジョロラモ・カルダーノの人生そのものです。」


「流転」の歌詞は、語調が軽快でありながら、その解釈が難解なので、藤田先生がこの歌にかけた意図するところを手繰り寄せようと、過去から様々な皆様がこのブログに訪れ、それぞれのお考えを述べていただいている。

あらためて「流転」の冒頭を記すると

『男命を みすじの糸に
 かけて三七 二十一(さいのめ) くずれ
  浮世かるたの 浮世かるたの 浮き沈み』

日本人の藤田先生が手掛け日本人の心の底に流れる情緒を綴った「流転」、てっきり藤田先生が引用したのは、安土桃山時代宣教師が鉄砲やキリスト教、カステラ等と共に伝えたとされるカードで、いわゆるポルトガル語で「carta」を語源とする「歌留多」「骨牌」と思っていた。

ところが、久しぶりに投稿されたあらたな解釈が、なんと日本から離れた外国のエピソードからのアプローチ。

これで、流転のミステリーロマンがさらに広がる・・・。

M Kawai 氏の「もし、藤田まさと先生がジョロラモ・カルダーノという人物を知っていたらですが」については、やはり、それを伺いに天国の藤田先生のところへ行かなければならないが・・・。

ただ、藤田先生は博学+雑学。
実は、藤田先生がお亡くなりになったとき、ご夫人から先生の蔵書を先生の出身地、当時の榛原町に寄贈するということで、寄贈には目録作りが必要と、町の職員であった私とあと数名が世田谷の先生のご自宅に行き、二、三日の予定で目録作りに取り掛かった。

ところが、なんと先生の蔵書は、家の壁という壁すべてが本棚となっていて、そこにびっしり書籍が並べられていた。
当初数日で終わる目録作りであったが、目録カードをいくら記載しても、数人の職員が数日ではかどる量ではなかった。

もう、2日目の段階で目録作りはギブアップし、とにかく本を町へ送って、目録作りは町に帰ってからと蔵書を10トントラックに積み込み、とりあえず町に帰ってきた思い出がある。

そんな蔵書は、数にして4、5千冊、その中には、文庫本から雑誌、専門誌、美術、歴史に関するものなど、あらゆるジャンルの書籍であった。また、洋書もあり、外国語の原文もあった。

だから、そんな膨大な量の書籍に囲まれていた藤田先生は、博学であり、かつ雑学であった、ただ、ジョロラモ・カルダーノに関する図書があったかどうかは、今となってはわからない。

そのいただいた蔵書は、今の牧之原市にあり、その時の蔵書目録が残っていると思うので、調べる手立てはある。
ずばりジョロラモ・カルダーノという名を冠した書籍なら目録から探しだせるが、人物名鑑などでは、なすすべがない・・・。

ただ、M Kawai 氏の考察は、カルダーノと「かるたの」の掛け合わせ以上に、カルダーノの人生が「流転」の歌詞の情緒に重ね合うというひらめきをお寄せいただいたことに敬服し、感謝します。

藤田先生が、何かのきっかけでジョロラモ・カルダーノというイタリアの人物を知り、しかも賭博に人生を費やしたことからヒントを得て、浮世かるたの浮き沈みと作詞した・・・。

なんとも、藤田先生の作詞の視野が世界にまで広がっていたとは・・・。

こんなコロナ禍の殺伐とした時代、それでも、藤田まさと先生の「流転」のわずかな文字数の歌詞に心を寄せていただける方がいるということに、何かほっと心が温まる気がします。

コメントありがとうございました。




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2016 久しぶりに「流転」考察

2016-12-13 06:38:06 | 作詞家藤田まさと先生
私のブログで、心を込めて綴るわが郷土出身の藤田まさと先生の、「流転」のいつもながら謎めいた冒頭の歌詞に、流れ流れてたどり着いた方がコメント。

「通りすがりの人」。タイトル「賽の目くずれ」

「はじめまして。
私、趣味で言葉遊びの「雑俳」と言う「笑点」の様な事を大の大人が案外本気で取り組んでいる会に所属している者でございます。

今回、何故こちらのブログにたどり着いたかを申しますと、近々臨時の勉強会を催すにあたり出された兼題が「物者附(ものはづけ)」と言う種目になりました。
「○○であるするものは」と言う形式で出題されるのですが「○○」の部分を裏に隠して、表現上は別の言葉で裏のお題を想像させる句を作らねばなりません。

今回の兼題に「鳥であるするものは」と言うお題が出まして十名ほどの同人が各々八句出句、計八十句の中から秀句を八句選ぶにあたり中に「賽の目」という投吟が見られました。この句の裏にあるべき「鳥」のもの事は何であろうかと考えておりました。

おそらく「渡り鳥」、もしくは「旅烏」の「賽の目次第の旅から旅へ」的な演歌の歌詞から
前記ののどちらかを込めた句でであろうと読んだので、そのような歌詞の歌が有るかとPC上で探しておりましたところ貴方様のブログを拝見するに至りました。

さて、前置きが長くなりましたが貴ブログの中に「流転」の歌詞中「男命を みすじの糸に 賭けて 三七 二十一目(賽の目) くずれ」の意味が…を拝見致しまして「裏は何だろう?」と考えてみました。
後の映画の内容なども参考に私なりに想像致しました。

二十一は単に三と七を掛けた数字と言うよりも、サイコロの面がそれぞれ方位を表す…「一天地六」「南三北四」「東五西二」の反対両面の和が七であり、且つ全ての面に方位の意が含まれておる様ですので、この「一・六」「三・四」「五・二」の七目掛ける三組の「三七」なのだと思います。

つまり流れ流れて「天地四方」のどこにも身を置く場所が無いほどその身を持ち崩しててしまった。「賽の目崩れ」のはみ出し者だと言っているのではないでしょうか。

三は「三筋の糸の三」と「三組の七目」の「三」の掛け調でもありましょう。
あとに続く「浮世かるたの 浮き沈み」博打の札の裏表、浮き沈みに人生をなぞらえたものてしょう。

昔の演歌の作詞家は都々逸における造詣がかなり深く七五調あるいは七七調での作詞がその殆どで七音の内訳も都々逸の「三・四 四・三 三・四 五」のリズムを踏まえて作詞されているように思えます。

おそらく演歌のリズムが単調にならずに尚且つスムーズに聞こえる様な語彙運びにする事が身に付いていたのではないでしょうか。

演歌には粋で素敵で泣かせるフレーズが沢山あり私の様に「雑俳」を志す者にとっては大変勉強になる
「学校じゃ教せえない」教科書なのです。

末永くご健勝でブロクをお続けになられる事を心よりお祈り申し上げております。

生意気な事を長々と書きなぐり失礼いたしました。」


拙宅ブログまでよくお越しいただきました。
あらためて、一つのフレーズ賽の目くずれをとっても、いろんな角度からの考察、きりこみでこんなにも解釈が広がるとは。

それにしても、「雑俳」という、日本語の持つ妙を得た使いまわしを掘り下げ、裏に隠されている真理を探究するご趣味とは・・・。
まるで、裏心理を探究するポケモンGOか・・・!?

それにしても、考察は尽きなく、賽の目そのものの意義を青竜・朱雀・白虎・玄武をなぞるがごとく、方位に意義を見つけ、しかも崩れに男の流転を導く。

今、藤田まさと先生がご存命なら、通りすがりの人に、座布団1枚というだろう。
しかし、いずれにしても、流転の世界は藤田先生の心の中。

ただ、通りすがりさんが述べるように、「昔の演歌の作詞家は都々逸における造詣がかなり深く」はもちろん、藤田先生の博学は、検証済み。

もう三十数年前、藤田先生がお亡くなりになった後に奥様から家の蔵書を寄贈すると申し出があり、あの当時の私を含めた榛原町職員の数名が、目黒のご自宅に行き、蔵書の記録と梱包を数日かけ行う予定だった。

しかし、藤田氏のお宅の壁という壁には、すべて頑丈な本棚が据え付けられ、ここにびっしり本が納められていた。

その数2、3千冊。
ジャンルはありとあらゆるもの。
冊子から専門書、哲学から美術集など。
それこそ、その蔵書で図書館が成り立つほどの量と質。

結局、1冊1冊記録して搬送などと言っていたら何か月かかるかわからないので、とにかく梱包して、トラックに積みこみ配送することでなんとかしのぐ。

そんな情報に埋め尽くされた藤田先生の頭の中だからこそ、洗練されたひとこと一言の言葉が湧き上がり、人に愛される歌詞が出来上がっていたのだろう。

通りすがりの方、ご教示ありがとうございます。
解釈はいろいろあり、やはり、最後は藤田先生に聞くしかありません(!?)。

でも、残された者が想像を高め議論し合うことは、先生の遺徳に近づくこと。
最後、このブログへのエールをいただきました。

お互いに、切磋琢磨、精進していきましょう。



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作詞家藤田まさと先生の「流転」の意味No6

2014-06-08 21:00:00 | 作詞家藤田まさと先生

久しぶりに「流転」の歌詞の意味について、コメントが寄せられた。
「「三七」はいったい何なのか・・・!!!???
博打にはサイコロ,花札があり,この歌詞には両方が含まれているのでしょう。
花札(おいちょかぶ)では、手札とめくり札を合計した数の末尾が九または九に最も近い者が勝ちとなります。
三六(9)なら勝ち、三七(10)なら外れとなり、人生流転となるのでしょう。
あくまでも私見です。」

コメントありがとうございます。
私の「藤田まさと先生の流転の意味」に毎月必ず2、3人の方が訪れる。
おそらく、カラオケで歌っているうちに、あるいは巷で耳に流れてきた時に、そのフレーズ「賭けて 三七 賽の目(二十一目)崩れ」の意味が分からず、インターネットで調べようとして、ここまでたどり着いたのだろう。
しかして、この意味のズバリといえる結論は、でていない。
サイコロ説(!?)、オイチョカブ説(!?)、歌詞のゴロ合わせ説(!?)など、いろいろコメントが寄せられた。
きっと、どの説も正しいのだろう。
藤田先生があの世とやらへ参られてしまって、今となっては正解を教えていただける方はいない。
それにしても、いつまでも話題が絶えないこの「流転」は、いつの時代でも日本人の心をとらえ愛され続けている、いい曲なのだろう。
牧之原市の誇りである。
http://www.city.makinohara.shizuoka.jp/bg/profile/ent/1101.html

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作詞家藤田まさと先生の「流転」の意味No5

2013-09-24 07:02:03 | 作詞家藤田まさと先生

久しぶりに、藤田まさと先生作詞の流転に関するコメントいただき。
「賽の目は18だが21は理屈に合わないのが流転と言っているのだと勝手にかいしゃくしています。」
コメントありがとうございます。
自分の理屈に合わない、自分の思うようにいかないのが人生と、藤田先生は語っているのか・・・?
簡単な詩ながら、奥が深い人生訓のような気がするが、今となっては、藤田先生に聞きたくても、この世にいらっしゃらない。
ところで、最近の藤田先生の話題として、今まで牧之原市静波の郷土資料館に建てられていた藤田先生の銅像と流転の碑だが、老朽化で資料館を取り壊した後そのままとなっていた。
藤田先生先ご出身の地元細江の市立小学校に移転の話が持ち上がり、移転することに。
ただし、流転の碑は細江地区からのたっての要望で、藤田先生の菩提寺「照国寺」のほうへと話がまとまった。
移転がいつごろかはわからないが、移転後は地元の皆様が碑を大切に管理されるとのこと。
なんだか、久しぶりに寄せられた流転に関するコメントは、何かの縁があったのか!?
またのお越しをお待ちしています。

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2012藤田まさと先生のご関係者からコメントNo2

2012-02-18 22:50:37 | 作詞家藤田まさと先生

最近このブログに訪れていただいた「吾妻ゆきお」様からコメントいただき。

どうも、大震災に会われた福島にお住まいの方のようです。

「前略
 伊吹とおる先生も審査員として、伺っておられたのですね。主宰・伊吹先生も、星野先生も亡くなられ、「アカシヤの雨が止むとき」の水木かおる先生(編集長)も亡くなられ、歌謡詩同人誌「北斗星」は廃刊となりました。
 伊吹先生は東京赤坂溜池にあった旧国際自動車の総務部次長、実名唐崎正晴さんで、S35年、私が入社したときの上司でした。本城さとるという詩人もいたのですが,その方も私の上司で、私はその方々に誘われ、歌の道にはいりました。だから「朱に交われば紅くなる」の例えどおりになった、と思っています。現在は歌謡曲研究会「こけし人形」という同人誌があって、全国の詩人、そして作曲家が一緒になって歌作りをしています。私もその仲間です。この「こけし人形」という同人誌は、今年700号を迎えることになった日本最長の同人誌で、途中間が何回か抜けているので,計算は合いませんが、60年以上続いている、日本で唯一の同人誌です。主宰は福島県相馬市の相馬詩彦先生で、現在83歳、いたってお元気で700号に備えています。伊吹先生もこの会出身で、「星影のワルツ」の作詞者、白鳥園枝さんもこの会の会員です。
 「北斗星」誌の話に戻りますが、当時の北斗星誌に「藤田まさと賞」という内部の賞があって,私は第3回?かな、「藤田まさと賞」の受賞者です。がS46年、私の父が関係していた事業の再編統合が行われ、父に呼び戻され、福島に帰りました。今、私は藤田まさと賞をもらった「母さん泪が欲しいの」を改作し、鎮魂歌「ありがとう母さん」に変えて、知恵遅れのソロシンガー本田知美と「被災地巡り」や老人ホーム、養護施設などの「慰問活動」に精をだしています。宣伝をさせていただきたいのですが、4月14日(土)に「福島市音楽堂大ホール」で「負けないぞ,福島復興宣言!大市民集会」を開催します。主催はNPO「負けないぞ,福島宣言!プロジェクト」です。私は一線を退き、会社の業務には口を出さない約束で、今はこのイベントに精を出しています。出演者は東京芸大高橋裕教授ひきいるオーケストラ「アンフィニ」とその奥さん高橋晴美率いる合唱団「カント・ハルモニア」約120名の方々が福島までボランティアで来福してくれます。また、中原中也賞授賞詩人・和合亮一の「福島に生きる、福島を生きる。」を世・u條Eに発信、地元からは福大、東稜高,福島三中の子供達、そして地元のアーチスト「弁慶と牛若丸」東京から「水木ノア」前述した、本田知美ら、総勢200人近い出演者となります。ぜひご予定の中に入れてください。福島は風評被害でショゲ切っています。全国から福島に足を運んでいただくことが一番元気が出ます。どうぞよろしくお願い致します。だいぶ長い文になってしまい恐縮です。もしご参加いただけるのであれば詳細資料送付させていただきます。すみません、この辺でやめます。ありがとうございました。」

伊吹先生が企業の幹部ご出身だとは・・・。

あの温厚で、ゆったりとした話し方からは想像もつかない、てっきり、根っからの文芸家だと思っていた。

ところで、コメントの吾妻様は、想像するに70歳を過ぎた頃。

趣味の道を今のお歳で活かし、被災した福島の復興に尽力されている。

まさに我々茶レンジバンドの理想像。

福島に駆け付け、何もできないが、大市民集会の中に溶け込みたい。

ただ、なかなか簡単には駆け付けることができない距離。

はるかかなたの静岡から、祈るしかないのか・・・。

このブログを見て、福島に行きたいと考える方は是非ご連絡ください。

こんな連絡役にしか、残念ですが今は行動できません。m(_ _)m

そう、まだまだ復興はこれからの東北地方。

春の陽気を待つなどと、浮かれている場合ではない。

がんばれ東北のデザインに変えます。

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2012藤田まさと先生のご関係者からコメント

2012-02-10 20:46:44 | 作詞家藤田まさと先生

ありがたいコメントいただきました。

「私は、半世紀も前になりますが、歌謡詩同人誌「北斗星」に所属していた「吾妻ゆきお」と申します。

「藤田まさと」先生は「北斗星」の最高顧問で、主宰は「伊吹とおる」先生、編集長は「水木かおる」先生でした。

実は、私も「流転」の歌詞一番の意味が分からず、誰かに聞きたいと思っていました。

たまたまあなたのサイトに出会い、疑問が解けた、と思っています。

あなた方の、少し疑問を残したままの解釈がいい!

私は、自分自身ではすっきりした思いです。

藤田先生は風貌「野武士風」、よく中央線「猿橋」の袂「葛城荘」での「北斗星詩話会」においでになり、野村俊夫先生や星野哲郎先生などの詩友をお呼びになり、私達ひよっこ詩人達のお相手をしてくれました。

とにかくこういう学習をしてくれている方々がいらっしゃる、ということを知っただけで大感激です!」

お話の内容から推測すると、結構な御高齢と見えますが、よくぞこのつたないブログにたどり着いていただきました。

御氏と藤田先生とのご交誼をうらやましく思います。

私は藤田先生とはお会いしたことがなく、今も残念に思っている者です。

仕事柄、また私の地元ご出身ということで、お亡くなりになった後、奥さまやご子息ご夫婦とたまたまのご縁で、藤田先生を慕っている者。

ただし、大学時代に流行歌の歌詞の分析を卒論とした関係で、作詞家藤田まさと先生は、絶好の研究材料。

それがたまたま地元の偉人のご縁で、勝手な解釈をしている次第であります。

星野先生とは数年前までお会いする機会がありました。

ここ牧之原市が全国に誇れる藤田まさと先生を顕彰する「藤田まさと歌の祭典」という素人カラオケ大会の審査員に、この牧之原市に年1回来ていただいておりました。

それにしても、藤田先生の追悼のカラオケ大会と言うことで、審査員は、星野先生、村沢良介先生、伊吹とおる先生、四方章人先生、松井由利夫先生といった、素人カラオケにはもったいないぐらいの審査員で行うカラオケ大会です。

今でも20回を超えて行っています。

ただ、星野先生、松井先生はもう審査員席に座っていいただくことができません。

とはいっても、藤田先生、あるいは星野、松井、村沢、伊吹、四方先生の音楽家の真髄が直に味わえる市の誇りのカラオケ大会として、今後も引き継がれていくことと思います。

話はそれましたが、「流転」の冒頭歌詞は、歌う歌手一人ひとりそれぞれの想いで歌っているのかもしれません。

勝手な解釈に、それでもご納得いただき、少しは気が落ち着いたということは、こちらも共感いただける方がいるということで、うれしい気持ちです。

これぞという解釈は、やはりあの世の藤田先生に会い、心行くまで教えていただくまでは、少し我慢するしかありません。

今から楽しみにするには、まだ早いか・・・。

コメントありがとうございました。

またお寄りください。

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作詞家藤田まさと先生の「流転」の意味No4

2011-03-28 21:53:35 | 作詞家藤田まさと先生

コメントいただき。

「私は単に「上原敏」のファンで、「裏町人生」と「流転」が好きなだけの歌好きです。

多分同年代なのでこの手の歌に興味のある人が周りにいないからついコメントしてしまいました。

貴方の様に作者の藤田氏への造詣が深い方に失礼な事をしたと反省しています。

歌の解釈は百人百様で、それぞれがイメージを膨らませながら楽しむ事が原点であり、酒の摘まみにそれぞれの考えを披露する事で良いと痛感しています。」

上原敏の淡々とした(昔はみんなそうか!?)歌は、私も郷愁を感じる一人で、藤田先生とともに、一目おいています。

藤田先生は私の地元出身。

また、先生には直接お会いしたことはなかったが、お亡くなりになった後から縁あって、先生の夫人、またご子息ご夫婦と話を持つ機会があり、地元の誇りである先生の顕彰に関わってきた者。

したがって、先生に関することでの疑問などは、変に地元としてなんとか回答をしなければならないとの気持ちがでてきてしまうのだろうか・・・!?

理屈を並べ、勝手な解釈をして恐縮に思います。

流行り歌は、好きになる人それぞれの思い入れがあり、貴殿のおっしゃるように、個々が満足すればそれでOK.

ほろ酔い加減で聞く流行り歌は、最高。

またのお越しをお待ちしています。

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作詞家藤田まさと先生の「流転」の意味No3

2011-03-27 07:09:03 | 作詞家藤田まさと先生

「男命を 三筋の絲(いと)に かけて三七 賽の目 くずれ」

ご指摘いただいた流転歌詞の解釈が、頭から離れられなく、いろいろ調べているが・・・、なかなかすっきりしない。

何かヒントはないかと、先生の著書を探したら、散歩道3部作である「歌謡散歩道」「落書散歩道」「戯書散歩道」と先生がお亡くなりになった後、ご子息の知生氏が編纂した「世迷散歩道」のなかで、今手元にあったのは、世迷と戯書の2部があった。

P3250040

しかし、この中では、ヒントとなるものはなかった。

もともとこれらの本は、先生のつれづれ想う所感を、1ページ4、5行の短文で表されている随筆集。

したがって、先生の作詞の個々のエピソードなどが掲載されているわけではないので、参考とならなかった。

後の残りの散歩道ははどうか調べてみるが、期待はできそうもない。

そうなると、あらためて、他の糸口を探るしかないが、そもそもこの歌は、数十年前井上靖の「流転(サンデー毎日掲載)」が映画化され、それの主題歌に作られたもの。

そうなると、糸口はこの「流転」のあらすじ。

時代をさかのぼれば、江戸時代天保十一年、歌舞伎の世界で三味線の弾き手「新二郎」が、歌舞伎俳優の成田屋と対立、そこで三味線を捨てた。

その後は紆余曲折複雑だが、ポイントを拾うと、

・お秋という旅芸人の娘の美しい踊りを見て、再度三味線の芸に打込んだ。

・お秋と寄席へ出るその初演の日、お秋を踊りから遠ざけ、成田屋の妻にしようと考えていたお秋の父親勘十は小屋に放火した。

・新二郎は勘十と争うはずみに勘十を殺し、流浪の旅に出た。

・三年後、新二郎は、九州でヤクザになっていた。

・しかし新二郎は、訳あって、三味線への愛着が戻って来た。

・新二郎は江戸へ戻ったが、勘十殺しの罪で岡っ引源三に追われる身であった。

・新二郎は、一端手放した三味線「谺(こだま)」が、めぐりめぐって手元に帰り、弾くことができた。

と、おおざっぱにいえばこんなストーリーである。

この井上靖のストーリーを読んで、藤田まさと先生は、詞を創ったのだと思うが、この筋書きと先生の歌詞を比較し言えるのは、次の点。

・三筋の絲=三味線

・賭けて=三味線の芸を極める

・賽の目くずれ=思わぬ事態から三味の芸を離れる

この辺りは、読み取れるのではないかと思う。

それにしても、やはりわからないのは、「三・七」である。

賽の目を二十一目と記述する歌詞もある。

この場合、二十一目をなぜ賽の目と読ませるのかというと、賽コロ1から6を足すと合計で21となるので、賽の目のあて字とすると、インターネットのあるブログに載っていた。

これはこれで、正しいのかもしれない。

ただし、三・七をかけて二十一とした場合、二十一と崩れとの関連性が理解できなくなる。

「かけて」は、やはり3・7をかけるのではなく、三筋の絲に対しかけるということではないのだろうか。

ここであらためて、新二郎が、三味線に芸を極めたいと思っていたところが、ある拍子に人を殺したために三味線を捨てるという筋書きから、「男命を 三筋の絲に 賭けて」までは、なんとなく理解できる。

この後は、おそらくは藤田先生の作詞家としての独自の世界。

想像するに、「三・七」「賽」「浮き世かるた」は、新二郎が身を崩した任侠の世界から創作した言葉。

また「浮き世かるた」は、花札、株札と人生の浮き世を重ねた。

流転の曲全体が、人生流転を表現するように、山あり谷ありと賭け、博打とを重ねている・・・。

私の頭では、この辺りまでである。

ちょうどコメントをいただいている方から再度コメントが寄せられた。

「僭越ですが、昨夜のコメントをもう少し詳しく述べてみます。

二十一の目と書いて「さいのめ」と読ませる事もあります。

歌の文句は意味よりも語呂合わせとリズムを重視している事が多く、三味に懸けると博打に賭けるの間に「三七=二十一」をかけたのではと思います。

作者の意図は図り難く、もしかしたら藤田氏が「ブタ」の「0」をかけた事も考えられますが、そこまで深読みしなくてもいいと私は解釈しています。」
了解しました。

ゴロ合わせもおそらく作詞の手法には重要な部分。

藤田先生がお亡くなりになり30数年がたった。

今、私に、あるいはこの曲を好きで歌うカラオケ愛好者などに、大きなミステリーを与えてくれている。

今となっては、あの世にいらっしゃる藤田先生に聞くわけにもいかず、ミステリー(!?)追及はここまでか・・・。
でも、藤田先生の遺品などが牧之原市役所にあるので、機会があったら少しそれをみさせてもらうか。

それにしても突き詰めれば、「三七」はいったい何なのか・・・!!!???


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作詞家藤田まさと先生の「流転」の意味No2

2011-03-26 07:33:20 | 作詞家藤田まさと先生

私の歌詞の解釈について、ご指摘のコメントが寄せられた。

ありがとうございます。

「三かける七は二十一。賽の目の合計は二十一。

依ってかけて三七賽の目崩れ。」

私も単純に歌詞をそのように解釈していた。

しかし、二十一が賽の目くずれとは一体何だろうと次の疑問が生まれた。

また、「かけて」は3・7にかかる言葉なのか、むしろ三筋の糸に「かけて」いるのではないかとも考えた。

ただし私の矛盾するところは、賽は6までしかないので、浮き世かるた、つまり賭けごとに使う「おいちょかぶ」の札を想像し、3・7は0でカブ(3・6)のくずれと勝手に解釈しているところだ。

ここは、少し藤田先生の本、たしか3冊ほどあったので、読み返してみるか。

またご意見ください。

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作詞家藤田まさと先生の「流転」の意味

2010-09-24 21:16:07 | 作詞家藤田まさと先生

藤田まさと先生は、私たち牧之原市の出身。

郷土が誇る大作詞家である。

そのヒット曲は、古くは「流転」から、最新(とはいっても約30年ほど前になるが)は、「浪花節だよ人生は」に至る数多く、聞けばだれでも耳にしたことがある曲ばかり。

そんな藤田先生の「流転」の冒頭の歌詞の意味を調べるための検索が時々私のブログに入る。

「男命を 三筋の糸に 賭けて三七 賽の目くずれ」

の意味がわからないようだ。

私もこの曲を最初聞いた時は、意味もわからず歌詞だけが頭の中に入った。

そのうちこの意味は何だろうと疑問に思うようになったが、参考書は当然になく、いつしかそのままになっていった。

しかしこの頃になって、もしかしたら、と思うようになった。

先生がお亡くなりになった時に、ご遺族から牧之原市に頂いた遺贈品にはいろんなものがある。

膨大な蔵書、レコード大賞の盾、達筆な文字で書かれた表装額、数百万円するといわれる羽織袴。

そしてそれとともに、昔のSPレコード盤からLPレコード盤まで、蔵書を除いただけでも数百点もの貴重な遺品をいただいた。

そのレコード盤の中で流転の挿絵に、粋な着物姿の三味線をもった男が、巷を歌いながら歩く姿が描かれていた。

今思いだすと、この姿こそ先生の言う三筋の糸ではなかったと想像する。

つまり、芸の道(三味線=芸)に命をかけて道を歩んだものの、三七、つまり三六はカブ(9)だが、10ではずれであった・・・、ということではないのか。

浮き世カルタとは、いわゆる博打。

男命をかける人生はいわば博打。その中では勝つ時もあれば負ける時もある、いや負ける時があるが、また勝つ時もある、ということを先生は短い詞の中で表そうとしたのではないのかと思っている。

勝手な私の解釈で、何の根拠もないが、漂漂たる人生流転の題名からしても、そんな波乱万丈が男の人生だと教えてくれているように、50数年生きてきたこの頃になって、なんとなくわかるようになった気がする。

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郷土の作詞家「藤田まさと先生」

2008-09-29 22:40:09 | 作詞家藤田まさと先生

突然ですが、今日たまたまチャンネルを変えていたら、「昔なつかしの映像」ということで、NHKビッグショー「藤田まさと」をやっていた。

藤田まさと(正人)先生は、我が牧之原市の生んだ偉大な作詞家。

昭和初期の頃から約50年、数々の作詞によるヒット曲を生んでいった。

最初の頃は、「麦と兵隊」、「岸壁の母」などの戦下ものや「旅笠道中」、「妻恋道中」などの任侠もの、また晩年の「灯りがほしい」「浪花節だよ人生は」など、一度は誰でも聞いたことがあるような曲を出し続けた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%A8

今年、先生の生誕100周年となる。そんな関係で、昔の映像をリプレイしたのかも知れない。

その先生とは、私が職場に勤め始めた2年間が先生の最後の人生と重なる。

しかし、ついと先生とは会うことなく、せっかくの地元出身の偉人を拝見することがなかった。

しかし、先生が亡くなられた後、深く関わることとなった。

その最初は、先生が亡くなられたということで、地元での回顧展を2、3年開催し、あるいは、先生の奥様から、蔵書を寄付されるということで、東京の自宅まで、受け取り(実際には梱包と発送)にいった。

当時の先生の自宅は、壁という壁はすべて本棚がすえつけられ、数千冊という本で埋め尽くされていた。

実際、その寄贈された本の整理は、その後数年間を要している。

今思えば、就職後30年近くになろうとするこの間の私のベースとなる、ものの考え方、生き方は、どうも出だしの藤田先生との関わりが大きく影響しているのかもしれない。

少し大げさかもしれないが、それほど、藤田先生の生き様、エッセンスは、就職しだしたばかりの私に大きなショックを与えた。

1 男命を 三すじの糸に 賭けて三七 賽の目崩れ

  浮世カルタの 浮世カルタの 浮き沈み

2 どおせ一度は あの世とやらへ 落ちて流れて行く身じゃないか

  泣くな夜明けの 泣くな夜明けの 渡り鳥

3 意地は男よ 情けは女子 ままになるなら 男を捨てて

  俺も生きたや 俺も生きたや 恋のため

今でも暗記でキーをたたくことが出来る。

この「流転」の歌詞を刻んだ石碑が牧之原市内に先生の銅像と一緒に郷土資料館に置かれている。

この流転の意味するところは、若い頃良く理解できないでいた。

しかしこの頃になり、なんとなく分かるような気がする。

人生、人それぞれの行き方がある。

だた、どんな人生だろうと、自分の信念で生きていくこと。

今日の番組の最後、藤田先生が「たとえちっぽけな人生だろうと、常に戦い続ける。そんなことを誓う。」という力強いコメントを朗読した。やはり先生らしい、と感じた。

大学時代、流行歌をゼミの卒論で取り上げ、その後の就職先で、まさにその流行歌の大御所を知ることが出来たことは、何かの縁であると感じていた。

今日の番組は、おそらく30年ほど前のもので、初めて見るものであった。

しかし、お会いしたことがない先生であるが、懐かしく、しかも郷土の誇りと自慢げにテレビを真剣に見ていた。

コメント (1)
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