まだまだ風も強く冷たい毎日で、春はまだ遠い、という感じですが、ぼちぼちバンド練習を開始したいと思います。
昨年申し合わせたように、毎月第2土曜日午後。
したがって、3月8日(土)から始動とします。時間は、この日夜所用があるので、午後1時からとします。
場所は、いつもの私の家の工場。
都合がつかない方もいると思いますが、集まったメンバーで、始めたいと思います。
よろしく!!!
「どんな時も♪~ぼくはいつでも♪~ここで歌を歌ってるだけ♪♪♭♭♯」
轍(わだち)Byこぶくろ
ありがたい(!?)コメント入りました。
「いや~先日の温故知新さんのジャッジは実に素晴らしかった!
ストライク、ボールの見極めと試合を通しての安定感。
それとコールのタイミングがまた良かった。 グ~~!であった。
あの”間”はやはり盆栽から得たものなのでしょうか。
それともラブラドールでの飲み会の成果でしょうか
多分焼津の鬼軍曹も納得でしょうね。
今年の温故知新さんからは目が離せない!
投稿 しがない印刷屋」
恐れ多いほどの褒め殺し!
焼津の鬼軍曹を持ち出すということは、ここで褒めておいて、3月9日の審判講習会で、鬼軍曹とともに叩き潰すという魂胆か!!!
その手には乗らない。
こちらはマイペース!
指導する鬼塚軍曹の足を踏みながらも、しっかりと位置取りをするほどの強心。
雨が降ろうが、槍が降ろうが、鬼塚軍曹の雷が落ちようが、審判講習会を受けてやる!!!
今年1年の審判活動は、土曜の天気でおおよそ想像がついた!
今年は、強風、砂嵐、みぞれ混じりの冷たい雨に立ち向かう、孤軍奮闘の乱れ審判ダー!???
プレーを再開したのはいいが、あいかわらずの強風。
ただし、グラウンドは、先ほどの雨により砂埃は舞い上がらなくなった。
それにしても、大変なのは、選手たちである。
特にピッチャーは、1球ごとにタイムをかけられたり、雨で体が冷えたり。もちろん指先は、大変冷たくなっているであろう。
こんなとき、ピッチャーはいかに集中を途切れさせないかが、大きなポイントとなる。
この対戦は、相良中学対牧之原中学。両校は同じ市内で、手の内は十分分かっている。
ピッチャーも、初戦ということでエースの投げあい。
しかし、結果は、8対0で相良中学の勝利。
チーム力からはこんなにも差がつくものではないと思うが、両ピッチャーの途中での投げ合いで大きく差がついた。
相良中学のエースは、淡々と投げる。時には大きくそれるボールもあったが、次にはきわどいコースに投げている。つまり、投球に集中していたように見えた。
一方の牧之原中学のエースは、崩れ方が大きく、ボールが続くケースが多くあった。集中が途切れ修正できないようだ。
しかも、こんなときは回りの守備がフォーローするところだが、輪をかけ足を引っ張る。
中盤3回、4回の3点ずつ相良中学が加点したのは、こんなところからであった。
そして、こんな悪天候のとき集中力を切らしてはいけない者は、やはり審判員。
冷静かつ正確に状況を判断、ジャッジすることが求められる。
この時の私は、試合前から強風の状況を考え、集中に専念しようと考えていた。
したがって、投球判定も、自分では思うように正確に判定していたと思っていた。
とちょうど、雨で試合を一旦中断したときに本部に帰ってきた折、バックネットの後ろで試合開始から虎視眈々と(?)見ていた、しがない印刷屋審判員から、今日のストライクゾーンは、しっかりと安定しているね、と褒めていただいた。
いつもは辛口の印刷屋審判員であるが、今日はどうしたものか、甘口(!?)であった。寒さで頭が冷え切っていたのか(!?)
ただ良く考えれば、今日のジャッジはいいね、ということは、逆をいえば、日ごろは不安定と暗に言っていることなのか。あの印刷屋審判員のことであるから、そのぐらいは言いかねない・・・!。
マア今回は素直に受け取っておこう。
しかし、その後はやはり、辛口であった。褒めた後しっかりと、後ろから見た球審の体勢の注意。
構えたときの前足が外側に向いている。前足は、投手に向かっていなければならない、というありがたい忠告をいただく。
こちらは、そのとき隣にいた、身長170数センチの甲子園級のY木審判員とは違い、足の長さは、学童野球級。キャッチャーの後ろで、大きく股を開き腰をすえれば、おのずと足の先は逆ハの字になる!
前から私は、審判講習会で言いたかったのであるが、人間の自然の姿勢を無理して不自然にしようとうするのは、どこかで無理が生じると思っている。
案の定、このごろは、ひざが踏み込んだときに時々痛くなる。腰は、ちっとのことで、ギックリ腰寸前。
ということで、無理な姿勢の審判の疲労が蓄積して、このごろ足腰が弱くなっているのだ・・・。
あと2週間の後の3月9日から県下東・中・西部の3地区において、一斉に審判員講習会が始まる・・・。
おわり。
昨日の審判は、おそらく今までにない経験の強風、砂埃&雨の天候。
朝のうちはそれでも風もなく、と思っていたが、私が担当する試合が始まるころには、強風。
しかも、グラウンドは乾燥しているため砂埃がきつい。
ピッチャーが投球モーションを起こそうとすると、風が吹き砂が舞い、何度となくタイムをかける。
このタイムをかけるタイミングには気を使う。投球に入れば、ストップできない。せいぜいボールを体の前面で保持したところまでであろう。
また、ピッチャーが投げる前にバッターが、風により打撃の構えを崩す場合がある。しかし、ピッチャーが投球に入れば、投げさせなければならず、この場合、バッターが目をつむろうものなら危険も伴う。
ましてや、球審が埃が目に入り、目をつむってしまえば、大変である。
いつも風の強い日の審判には気を使う。
しかし、あの強風の中で、風にあおられ打球を見失うなどのアクシデントもなかったことは幸いであった。
しかし、その強風とともに、途中から雲行きがおかしくなり、冷たい雨が突如降り出したのには参った。
降り始めは砂埃が舞わなくなるのでちょうどいい、などと思っていたが、そのうちみぞれ混じりの雨。
さすがに子供たちの健康上を考え、カウントが2ストライク2ボールの途中であったが、選手をベンチに引き上げさせしばらく様子を見る。
私たちも本部席に戻ったが、雨がしみこんだユニフォームが風でさらに冷やされ、ブルブルの状態。
この後どうしたものかと思案し、御前崎測候所に今からの天気を問い合わせた。
そうしたら、雨は長続きするものではない。ただし、風は収まらない、とのことであった。
そうこうするうちに15分ほどたったところで、空も明るくなってきたので、再開することに。
つづく・・・。
今から、この地区の全日本少年軟式野球大会が相良サブグラウンドで行われる。
全日本少年、といっても要は中学生の大会。ただ、主催が全日本軟式野球連盟なので、中体連とは異なる名称で行うようだ。
いずれにしても、子供たちにとっては、いつもどおりの相手。
今日の審判は、2試合目の球審。したがって、朝の支度には少し余裕がある。
今日の天気は少し風があり、肌寒いけど、考えてみれば今の時期からグラウンドを使い野球ができるというのは、やはり恵まれている。
まだ雪が積もっている地方では、練習すらもできないだろう。
甥がいる盛岡も、まだ室内練習かもしれない。
ただ、今の時期に練習量が多い暖かい地域のチームが、必ずしも強いということにはならないのが、不思議である。
今日も中学生のどんなプレーを見ることができるか楽しみである。
明日は、我が静岡県野球連盟榛南支部の総会。
いよいよ野球シーズン到来である。
ほぼ一週間続いた沈没船撤去作業は、今日の午後3時ごろ終了した。
明日は、潜水して残骸の確認をし、全作業が終了。
これで、静波海岸は安全に海水浴に、マリンスポーツに興じることができる。
今回の沈没船付近は、ちょうど川と海岸とを仕切る突堤のすぐ横。
実は、この付近がちょうど波の状態がいいらしく、サーファーにとって絶好のライディングポイントだったようだ、それが、昨年の夏終了以降、立ち入ってはいけない海域となっていた。
しかし、これで心配するものはなくなり、思う存分楽しむことができる。
全国にも知れ渡ったサーフィン愛好家のメッカ「しずなみ」が戻った。
今のこの冬場でも、昼の日差しがあるときは、サーファーがライディングしている。
寒くないのかと心配するが、おそらくそれ以上に、波に乗って、自然に溶け込んでいる自分に満足しているのだろう。
沈没船撤去作業・・・終了!
沈没船撤去作業は佳境に入り本体部分の撤去へ。
ところがこれが思うように行っていないようだ。
船体を海底からスポッと吊り上げると期待するが、そうはいかない。
頑丈と思われた船体も、60数年の波風でもろくなっている。
少しずつ掴みながらの除去。
昨日夕方、SBS静岡放送でこの様子を特集していた。
60年余のロマンを掘り出す、というものではなく、自然環境のバランスが崩れ、砂浜の砂がなくなってきた結果の沈没船引き上げ、という構成。
それでも静波海岸の砂の供給バランスが崩れ、問題となっているということを報道され、まあいいか。
今日当たり撤去は終了し、砂を取り除きながら掘り進んでいた航路を元に戻し終了のようだ。
65年間積もった歴史は、ちょっとやそっとじゃあ引き上がらない!
昭和17年に沈没して、次第に静波海岸の砂浜に埋もれていった座礁船は、砂に厚く覆われ、なかなか本体を現さない。
聞けば、捕鯨船団のキャッチャーボートだという。それが、何の理由か、この静波海岸に座礁し、その後その船体の重みで、次第に海底に沈んでいった。
しかし、60数年が経過し、ここにきて、海底の砂の量が減ってきたので、砂に覆われていた船体が出てきた。
ここ数年、静波海岸の海水浴場では、ある場所での足の裏の切り傷が、徐々に増えていった。
そう、その原因が、この沈没船。
したがって、静岡県と牧之原市は、その危険性を重要視し、1千数百万円を予算化して今回の撤去作業となったようだ。
今日の作業は、いよいよ本体部分を上げる予定であったが、思った以上に船体の上に砂が覆っていた。
昨年の調査の段階では、船体は、腹を上にしてほぼ半分が海底から出ていたのであったが、その後の年末から1月にかけ、砂の堆積があり、船体を1メートルほど砂が覆っているとのことである。
海の底も、年中変化がないように見えるが、じつは、夏から秋にかけ砂浜に近い海底の砂は、沖合いに流され、しかし、冬場の沖合いからの風などで、砂がまた砂浜に押し寄せるようだ。
自然の現象は、この繰り返しだが、ここ30年の歳月は、この砂の供給バランスがくずれ、沖からの砂が海岸に打ち寄せられなくなった。
それは、河川からの砂の供給量の減少と港などでの沖に伸びる防波堤などに原因があるようだ。
本来は、川から流れ出る砂が、歳月をかけ砂浜にたどり着いて砂浜を形成する。
しかし、川にダムができ、水量が減った分砂が流されない。
また、海岸の沖合いはるかに大型船の岸壁や防波堤などが建設されているが、これらは砂の供給ルートを絶つ結果となった。経済の進展は、自然との緊密なバランスで成り立つ。
今日の作業は、大型バケットでとにかく、船体を覆う砂の除去。
でも、ときどき、船体の一部分をバケットではさんだのか、大きな木片などをすくい上げていた。
すくい上げた木片、金属の破片などは、クレーン船本体の甲板に並べられそのつど分析されているようだ。
今は、海底の砂などを浚渫するバケットであるが、明日からは、物をつかめるようになっている、通称オレンジといわれる、よく車のスクラップ現場で車を握りながら丸々1台をつかみ上げる、バケットに取替え、作業をするようだ。
明日、いよいよ本体に挑戦!であるが、昔の20数メートルの船は結構丈夫にできていて、また重量であるようだ。
今日、作業船は、いよいよ沈没船近くまで来て、船尾のほうから次第に選手に向かって大きなバケットを何度となく、海底に沈めていった。
また、時には、砂浜で待機しているダイバーが船体から携帯電話で交信し、この冬空、ダイバーが作業の進み具合と船の位置を確認しながら作業を進めている。
バケットは時々、木片や金属をすくい上げるが、その量と大きさから、まだまだ本体にまでは達していないようだ。
60数年来沈んできた船体が大型船クレーンに持ち上げられるのは、明日の午前中ではないかと関係者が行た。
明日はいよいよ本体の姿が見られるか!?。
静波海岸に沈没船が沈んでいた!
しかも砂浜に近い場所で、潮が引いたときには先端部分が少し見えていた。
静波海岸は県下でも最大の海水浴場。しかも、年中サーファーなどのマリンスポーツでもにぎわっている。
したがって、沈没船船体の破片などで怪我をしないか心配していた。
そこで、県の御前崎土木事務所が骨を折って予算化し、今回撤去作業となった。
昨日から始まった作業は、沖合いから浚渫船で沈没船近くまで海底を掘り進み、航路を作る。
浚渫船を沈没船に近づけ、最後特別のバケットでつかみ出すという予定のようだ。
作業は、順調に進めば今日の午前10時過ぎから最後の撤去に移るようだ。
それにしても、大型浚渫船での海底掘削は見事。そして最後の沈没船引き上げは、めったに見られない光景となるだろう。
結構新聞社、テレビ局からも問い合わせがきているようだ。
今日は、私は今から榛原中学の練習試合審判。間に合えば、見に行きたいと思う。
(写真:昨日の段階での浚渫作業の様子)
流行歌による’70年代社会意識分析(No17)
この分析のNo9から続いてきた意識の方向性の今回は、まとめ(結論)部分です。
いままでの分析結果を総括しようとしていますが、あの当時、この卒論を書き始め、この結論部分に来たときには、おそらく4、5日経ったちょうど疲れがピークのときであったように記憶すします。
しかも、言いたいことを言って論述してきた経過を、なんとか結論に結びつけようと必死になっていた。
今あらためてこの部分を読見返すと、本当に理屈っぽく、無理やり昭和49年当時のオイルショックと社会意識のつながりを明確に分析しようとしているように感じる。
今回の部分は、自分の頭のなかでは整理整頓ができていながらも、それを文字に落とそうとする困難さと疲労で、複雑な論文となっている。
あの当時の頭の柔軟性には、今とっても付いていけない。
あの当時言いたかったことは、要は、オイルショックで圧縮された人々の意識は、明確な解決を図らないまま何処かへ飛散していった、という結論としています。
ただし、この結論は、自分ながら納得しない結果となり、次からの補足で補いながら、結論の補完をしていくこととなります。
ではどうぞご覧ください。↓
頴娃(えい)高校は、鹿児島薩摩半島の南端にある、広がる丘陵と海を間近にみる場所にある。
あとから分かったのだが、私たちが行った日から2年生が修学旅行。なんとなく校長先生も時間に余裕があるといった感じで、その分いろんな話が出てきた。
特に歴史には詳しく、昨日訪問した人吉市と牧之原市の関係が、鎌倉幕府時代に現在の牧之原市地域から相良(さがら)氏が人吉に移り住み統治した縁であるのだが、その相良藩のことを実に詳しく話すほど。
あるいは、江戸時代、江戸からの隠密が、この鹿児島に入り込むにあたり、方言で江戸の者とすぐばれるので、事前に人吉で数年暮らし、方言に慣れてきたところで、鹿児島入りした、とも言う。
また、この頴娃高校に来る途中、次第に大きくなってくる開聞岳のことを話すと、戦争のとき、知覧から特攻隊が開聞岳に最後の別れをし、帰らない戦地への出撃に行ったとも、語ってくれた。
ただし、話も弾みこちらの用件も一応校長先生に話したので、ぼちぼち、と思っていたら、校長先生が、では進路指導主任を呼びますから、といったのには、少しまいった。
それから、進路指導主任に校長先生に伝えた訪問の目的と就業の依頼を改めて話すことに・・・。
実は、頴娃高校訪問のあと、この3日間まったく南九州の名所、観光地を見ていなかったので、最終の今日早めに切り上げ、車の中から、頴娃に向かいながら次第に大きくなる、その清楚でかつ雄雄しい姿の開聞岳に帰りがけ寄って行こうと考えていた。
しかし、進路指導主任の先生も、結構熱心に話を聞いてくれ、あるいは、事前に静岡県、牧之原市、スズキのことを勉強してくれていたようで、質問なども沢山いただいた。
したがって、話が終わる頃には、むしろ急いで鹿児島空港まで直行しないと飛行機の時間が間に合わないほどとなっていた。
今回の出張は、様々な大変すばらしい方々に会うことができ、また、一応の成果があったと満足している。
だが、ひとつだけ残念であったのは、開聞岳を間近に見ることができなかったこと。
富士山をスリムにし、その分、天に向かっているようにも見える開聞岳。
日ごろ富士山を見ている者にとって、新鮮な気持ちを抱かせる。
しかも、特攻隊員が最後開聞岳を見て戦地へ果てていったともなると、感慨もひとしおである。
今回、市長から是非知覧特攻記念館を見るように、とのお勧めもあったが、時間がなくそれもできず・・・。
この開聞岳、知覧特攻記念館の2つの名所は、今後何かの機会にと楽しみに取っておくこととする。
「出張「鹿児島・熊本」へ行ってきました。」おわり。
コメントが入っていたと思えば、じいじから。
「ハーイ!了解しました。楽しみでーす。夜だけ参加?