のらやま生活向上委員会 suginofarm

自然と時間を、都市と生命を、地域と環境を、家族と生きがいを分かち合うために、農業を楽しめる農家になりたいと考えています

社会共通資産としての農地を引き継ぐために (3/3)(のらやま通信258/1605)

2016年04月28日 | 農のあれこれ

効率が最優先される農業の現場で個性的な障がい者の居場所があるのか。似たような話が畑でもいえそうです。効率が最優先される農業の現場で基盤整備されていない“個性的な”畑が役に立つのか。作物を生産する場としてだけで評価されない何かがないと難しいかもしれない…。労力をかけなく済み、それでいて社会的ニーズがあって、少なくとも再投資できるほどの収益が上がるもの…。そんなことを考えていたところ油糧作物にたどり着きました。ナタネやヒマワリは花が咲けば景観作物です。種子から搾れる油はビタミンEの豊富な健康的な食用油です。健康志向の社会的ニーズも高そうです。もし油が採れなくともお花畑にできただけでも農地として維持できます。遊休農地が解消されます。ナタネは収穫・調整まで機械利用体系ができていますが、ヒマワリは機械を使うと収穫時の損失が大きく、大規模に取り組んでいるところは少なそうです。手仕事になるヒマワリの種子採りはむしろ障がい者に向いているかもしれません。健康イメージの強い商品ですから、たとえば企業のギフト商品にしてもらえれば企業イメージも上がって、企業が障がい者を積極的に雇用するきっかけにできるかもしれません。この4年ほど、遊休農地を活用したヒマワリ油の商品化を模索してきましたが、今年からは障がい者との協働によるヒマワリ油を本格的に販売したいと考えています。

わが家は昭和の初めに分家に出て、私が3代目になります。独立した時点では十分な面積の田畑があったわけでなく条件の悪い田畑もあったそうです。自ら土地改良を行い、山林を切り開き農家としての基盤を築いたようです。腰まで水に浸かって稲を刈り取ったり、戦中、男手を兵士に取られ、慣れない牛車を曳いて堆肥を運んだことなど、じいさん、ばあさんからよく聞かされました。亡くなったじいさんの相続のときに、この畑はずーっとわが家の本流で守っていってほしいと懇願された土地もありました。
このような話は特別美談でも稀有な話でもなく、どの家にもどの農地にもよくある話でしょう。それぞれの農地にはその時々の農民の汗と涙が浸み込み、それぞれの思いが宿っています。原野を開墾し、時には隣人と境界争いをして、子孫が飢えることのないよう土地を耕し子孫繁栄を願ったはずです。今年、堆肥をすきこんでも、その肥効が現れるのは来年かもしれないし、10年後かもしれない。でもいつかはいい畑を残してくれてありがたいと感謝される。後々、自分の行いが評価されるかぎり自分は“生きている”。もちろん、長い時の流れの中では所有者が代わったり、家の断絶もあるでしょう。しかし、地域としてみれば豊かな田畑は個々の所有者のものだけでなく、地域の財産、資産でもあるはずです。
“規模の経済”で維持できない田畑があるなら、家族農業も“効率化”のなかで存続できないなら、別の価値、社会的価値を生み出しながら引き継がねばならない。そんな思いから消費者や障がい者の方々を田畑に招き入れる試みをしてきました。
これからの農業経営は、家族経営はもちろん、大規模な企業的経営であったり新規就農や企業参入があったり、様々な形態が混在するでしょう。新規就農も企業参入も時代の趨勢ですから志があるならぜひ挑戦していただきたい。ただ、地域の先人たちが築き上げた農地という社会的資産の意味を理解したうえで挑戦してほしいと思います。
社会と経済のグローバル化が標榜される一方で、人と人とのつながりが切り裂かれ、ライフスタイルも個人化し、これまでの地縁、血縁、組織縁というのがどんどん薄く細くなっている気がします。グローバル人として生きていける人間はごく一部の限られた人だけです。その他大多数は新たな人間関係や働き方を探さねばなりません。私は“顔の見える関係”や地域の資源をもとに付加価値を生み出すというなりわいに共感してくれる人たちとともに喜びを分かち合って生きていきたいと思います。
(農業を営む傍らここ20年ぐらいの間に取り組んできたことをまとめる機会があり、それを3回に分けて紹介しています。     by mi)
(2016年5月)

社会共通資産としての農地を引き継ぐために (2/3)(のらやま通信257/1604)

2016年04月28日 | 農のあれこれ

数年『農教室』を受講すると毎年同じような作業をすることになるので、何か新しいことに取り組みたいという会員もでてきます。そんな中から、自分の食べる米を自分が納得する方法で作ってみたいという声が出てきました。近接地で新たな水田を用意できるほど地元でまだ認められていませんでしたので、わが家の田んぼでやってみますかということに。でも、わが家も経済活動として米作りをしているので、その田んぼでできた米は全量買い取ってもらいますよとお願いしました。それがわが家の「納得米プロジェクト」、消費者自身が農作業をする米のオーナー制度です。食べる米を自給するというのですから、当然、農業機械利用が前提となる規模の水田です。トラクターも田植えきもコンバインも消費者自ら操作してもらいます。それがこのプロジェクトの魅力のひとつでもあったようです。
初年度は5人が20aの田んぼで、その後メンバーが増えて10人で50aの田んぼで米作りをしたこともありました。10aあたり8俵の米が収穫できると、一人当たり4俵。4人家族なら平均的な米の年間消費量1俵に相当します。家族の食べる米を消費者自身によって自給できることになります。初めの5,6年は除草剤を使わない米作りを目指してぬか除草や機械除草などいろいろと試みたのですが、雑草を抑えられず手取り作業が年毎に負担になり、途中から除草剤を使用することに。わが家の『納得米プロジェクト』は13年続きました。わが家からすれば50a分がオーナー制として常に売り先が決まっていたのはありがたいことですし、人手を要する苗作りなどでは一緒に作業をしてもらい、たいへん助けられました。
『手賀沼トラスト』が活動を始めて10年が過ぎるころから周辺の農家の理解も得られ、いろいろと声をかけてもらえるようになりました。また、樹林地の地主であるHさんが亡くなり、H家の畑50a、水田20aも管理しなければなりませんでした。しかし、任意団体のままでは農地を正規に借用できませんし、組織としてこれだけの面積を管理する組織力もありませんでした。そこでわが家の『納得米プロジェクト』のメンバーを中心にH家から作業受託する任意団体をつくり、観光サツマイモ農園の運営と米作りを始めました。『手賀沼トラスト』としては法的問題を解決するため2011年7月にNPO法人化し、農業機械操作のできる会員も増えきました。2014年からは手賀沼に面した遊休農地10aにヒマワリ、ナノハナの景観作物を栽培して、我孫子市の補助金対象事業に取り組んでいます。今年は新たに手賀沼に面した20aほどの遊休農地で景観作物を栽培し、来年からは80aの水田で周辺住民を巻き込んだ米作りもはじめる計画を立てています。街の人たちを巻き込んだ任意団体を立ち上げてから17年、ようやく農地保全の担い手として周りから期待されるところまできました。

一方、都市近郊でありながら純農村風景のままのわが家周辺でも耕作放棄地が目に付くようになりました。基盤整備された水田はまだ規模拡大をめざす稲作農家に利用集積されていくのですが、畑はなかなか新しい担い手は見つかりません。野菜専業農家であっても労力面から規模拡大には限度がありますし、そもそも市場出荷から直売にシフトした生産者は規模拡大にはあまり興味を示しません。そんなときに障がい者を雇用する企業の方と知り合いました。農家の労力不足に障がい者が役立てられないかということでした。労力不足で悩んでいた露地野菜をつくる農家に相談したら試してみたいということで、一年、様子をみました。結果は、補助的労力にはなりえても一緒に行動する人材が必要で、単純には労力の補強にはならないとのこと。障がい者がかかわるなら別の業態を探さねばなりません。




(農業を営む傍らここ20年ぐらいの間に取り組んできたことをまとめる機会があり、それを3回に分けて紹介しています。     by mi)
(2016年4月)

社会共通資産としての農地を引き継ぐために (1/3)(のらやま通信256/1603)

2016年04月28日 | 農のあれこれ

TPP、農家のあなたはどう思うの?と問われることがあります。「農業者もある程度は国際的な自由経済の中で生き残りを図らねばならないとは思うけど、TPPのような外圧を待つまでもなく、日本の農業はすでに内部崩壊しつつあって、消費者の皆さんがこれから何を食べていくのかを考えた方がいいですよ」というような話をします。
 今、食料品売り場にいくと地場産のものだけでなく輸入されたものから植物工場でつくられたものまでいろいろ並べられていて、一見、豊かな食べ物があるように見えます。でも、どの店にいっても同じようなものが並んでいることに気がつきませんか。違う名前のスーパーマーケットであっても同じプライベートブランド商品であったり、いつも同じような野菜が並んでいたり…。実は農産物流通はすでに市場機能が失われ、少数の大手業者によって支配されています。均一な品質で大量に流通できるものしか店頭に出回りません。当然、生産側も大規模化して、売れるもの、効率的に作れるものだけを生産することになります。いつでもどこでも同じ農産物しか流通しない。言い方を換えれば、もしかすると食べたいものが食べられないのかもしれない。それって、空腹にはならないけれど家畜の給餌のように“食べさせられている”ことになりませんか。食べたいものを食べるには、自分で作るか、誰かに頼んで作ってもらうしかない。前者なら市民農園とか体験農園とか。後者なら提携とか、契約栽培とか…。
 農産物の流通がこういう状態ですから農家も変わらざるを得ません。市場が崩壊し米価も下落している。これまでなら兼業農家という選択もあったけど、これからは農業事業者として自立するか、離農するかのどちらかを選択することになる。農地も大規模経営に適した効率のよい農地しか守れない。最近の農政の大転換はこれらをさらに推進する方向です。30年前、私が就農する際、環境問題へのひとつの取り組みとして生活と経営が両立できる家族農業が理想という思いがありました。しかし、担い手不足や耕作放棄地など当時も課題とされた状況が、さらに深刻化しているように思います。

20年近く前、知人を介して我孫子の農家Hさんを紹介されました。}Hさんの家には中世の城跡でもある裏山と手賀沼に面した田畑があります。後継者もなく、自分も高齢化して維持するのが大変になってきた。JRの駅から歩ける範囲にあって開発圧力も高まっているが、なんとかこの環境を残したいということでした。Hさんの家のまわりは農村景観が残っているけど、その裏には住宅地が広がっています。朝夕や休日には多くの人が散歩しています。手賀沼と農地とそれに続く樹林地は周辺に暮らす街の人たちにとっても財産のはずです。だったら、街の人たちにもこの環境を維持管理してもらえるような仕組みをつくりましょうということになりました。1999年2月に「手賀沼トラスト」という任意団体が発足しました。実態はともかく大きな志を反映した名前にしました。
「手賀沼トラスト」の会員のうち農家会員は地主のHさんと私の二名。ほかはみな街の人たち。樹林地の下草を刈ろうにも刈払機を使ったことはありません。子供時代に田舎で農作業を手伝わされた経験があって、リタイアして時間にゆとりができたので土いじりでもしてみたいという方ばかりです。農作物栽培の基礎知識も持ち合わせていません。環境保全とは掛け声ばかりで担い手となる人材を育成するところから始めなければなりません。たまたま会員の中に大学農学部で先生をされていた方がいましたので、『農教室』を設け、その方に講師になってもらいました。







(農業を営む傍らここ20年ぐらいの間に取り組んできたことをまとめる機会があり、それを3回に分けて紹介します。     by mi)
(2016年3月)

女ががんばる都市近郊酪農(のらやま通信255/1602)

2016年04月28日 | 農のあれこれ

 とうかつ女性農業者ネットワークという千葉県北西部東葛飾地域の農家の女性達の集まりがあります。母はそのグループのメンバーで、年に数回の集まりを通じて地域の仲間たちと交流・学習をしています。冬は比較的時間がとれることから、先日、東葛飾地域の農家2軒と1事業所の見学に行きました。今回、母として私がうれしかったのは、オヨメと一緒に参加できたことです。同じものを見てきいて何を感じてくれたか、若い女性の感覚であちらこちらの農家女性の姿をみてほしいと思いました。
うかがったのは船橋市のM牧場。女性オーナーがきりもりしていました。年のころ40代前半?先代はとなりの鎌ヶ谷市で酪農と梨の複合経営をしていたそうです。牛の排泄物を堆肥にして果樹を育てるという循環農業でしたが、住宅地の増加に伴って気をつかうことが増えていたそうです。そのころ長女のMさんは1年間ヨーロッパの酪農家で研修をし、そこでの経験がその後の彼女の進路を決定づけたそうです。鎌ヶ谷市から船橋市へ移転し、ヨーロッパの機械を導入して牛を飼う酪農をはじめました。
搾乳、乳搾りは朝と夕方の二回。牛にえさを与え、糞尿の始末もして堆肥にする。人間より大きな体の牛を相手にするのだから仕事の大変さは想像できます。でも、たいへんであろう日々の仕事をこえた、なにものかに達成感と充足感を感じるのだろうなと彼女の話しぶりから感じました。要するに『牛がすきなのね』ということです。「体の模様がちがうだけでなく、毎日世話をしていると牛の体調の変化もわかる」無責任な突然の来訪者であるおばさん軍団は牛たちを見てカワイイとのたまう。
M牧場の牛たちは一定のスペースのなかに何頭かがいてフリーで動けるようになっていました。ヨーロッパスタイルの育て方です。フリーで牛が自由に動ける一方、精密に牛は管理されています。牛の固体識別番号が足にICタグ付けされ、とハンディターミナルで管理されていて、搾乳の時にICタグを読み取ってウシ君がその日に何歩歩いたかわかるしくみになっています。歩いた歩数で牛の健康状態がわかり、発情期までわかってしまうそうです。M牧場は搾乳をする農家ですが、牛に乳をだしてもらうためには牛が出産をしなければならず、毎週のように牛の出産があるそうです。朝夕の搾乳に加え子牛の世話もして、まさに100頭の牛の家族がいるという感じでした。
 搾乳スペースも見せてもらいました。人間がおっぱいに手をやってしぼるのではなく完全に自動化されていて乳首を消毒したらホースつきの機械をとりつけて牛乳は自動的に搾乳されるそうです。牛の固体管理や飼育・搾乳のシステムは彼女の判断で海外のシステムを取り入れたそうですが、海外研修した彼女にはわかっても家族にはそれが伝わらず、栃木の先進農場へ視察に行き、家族を説得したそうです。
 わが家のオヨメのワンポイント感想「よその家は効率化していると思った。」今回の研修のキーワードその1は『作業の効率化』でした。効率があがったら、働きやすくなり、自由な時間が増えるかもしれませんし、あるいは仕事を増やすことができるかもしれません。M牧場の場合、従業員が数名いました(労働の外部化)。牛の固体管理のシステム化により特定の人のカンにたよるのではなく、だれでもが牛の状態がわかるようになっていました(機械化とシステム化)。
 総じて酪農の世界では大きなお金が動きます。牛自体高価ですし、設備投資も半端ではない。びっくりしたのはえさの干草はすべて輸入だということです。円高だ円安だという為替レートの変動によってえさの価格はかわるのだなあと倉庫の干草を目の前にして思いました。戦後の物価の優等生は牛乳とタマゴといわれてきました。価格が変わらないということです。生産者の努力のたまものだと頭を下げると同時に国産の牛乳といいながらえさは外国産、ちょっと複雑な感想ももちました。

 そしてそして、わがやの『非効率を効率化する』最大の課題は山のような書類の整理整頓です。特に母である私!(笑)つぎからつぎへと仕事を抱え追いつかないという実態ですが、まあ、失せモノさがしの時間の多いことこのうえなしです。その点オヨメはそれが上手です。みならわなくちゃ。(by sa)
(2016年2月)

逸品はチャレンジしたものだけの称号(のらやま通信254/1601)

2016年04月28日 | かしわかあさん

 「農産加工所かしわかあさん」はわがやの母の“お城”。加工所の営業者となって4年、加工場を立ち上げ、各種機械の取扱いを覚え、商品を開発、製造して、今年は売ることにチャレンジします。
 梨の加工品も8種類になりました。ジャムが2種類に、ドレッシング、焼肉のたれ、梨入りパウンドケーキ、蒸しパン、ソフトクリーム用ジャム、パン用ダイスカット。これらの原材料として利用している梨は、宅配の箱にも直売の袋にも入れられないC品、キズついたり、落下したりしたもの。傷ついていても家族が日々汗を流して育てた梨はかわいい子どもたちです。さらに手をかけて目をかけて作った加工品は目に入れても痛くないかわいい孫たちです。
 「朝市で買ったのだけど…」「S百貨店で買ったのだけれど…」どこのお店で売っているのですかって、ときどき直接お客様からお問い合わせがあります。商品のラベルに記載された連絡先を見てわざわざ連絡をいただいたことをうれしく思う一方、柏駅近くで月1回開かれている朝市もS百貨店もたまたまの販売です。より広い販売先を考えなければいけないなあ、と。
 現在、道の駅しょうなん農産物直売所と農産物直売所かしわでの2箇所が常設の販売店です。次の一手(一店)を考えて営業をかけるのでしょうが、むやみに動いても…。そこでまずは「知ってもらう!」ということで『ちばの食の逸品2016』コンテストへチャレンジしました。
 『ちばの逸品』は千葉県産農林水産物の加工品で埋もれた逸品を発掘し、これに光をあて、商品力の向上や販路拡大を支援することを目的としたもの。商品を特徴づける原材料は100%千葉県産であることが条件です。梨加工品は大いに参加に値すると思い、応募を思い立ちました。
昨年秋から予備審査(書類審査)、1次審査(一般審査員による食味審査)を経て、わが家の“かわいい孫たち”も幸い1月20日の最終審査に残りました。
食のプロの面々にどう評価されるか、審査員のかたがたとのやり取りの中で今後へのヒントが得られるのではないか、そんな期待を持って出かけました。
審査のポイントは①千葉県らしさがあるか、②原材料・栽培・加工の方法等に特徴があるか、③パッケージデザインは優れているか、④販売ターゲットの設定と商品は合っているか、⑤食味が優れているか。千葉県の梨は、栽培面積、収穫量、産出額ともに日本一ですからポイントの①と②については問題なし。⑤の食味についても、一般審査員の試食では一定の基準はクリアーしています。あとは審査員の皆さんのおこころのまま…。
今年の最終審査に残ったのは、(1)たまご農家の作ったプリンと卵焼き、(2)九十九里の海水から作った塩、 (3)養豚農家の作ったソーセージ、(4)無農薬のコシヒカリの米粉で作ったケーキ、(5)わが家の梨で作ったジャムの5点。いずれも生産者がこだわりを持って作った原材料を自ら加工した商品。商品への思い入れはみんな同じです。パッケージデザインと販売ターゲットの設定、これが課題だぞとまず思いました。
審査員の方々からは次のようなアドバイスをいただきました。「千葉県の梨は日本一でこの商品ならどこへも営業できる。とびこみ営業でがんばれ。」「販路を広げるとき価格をどうするかよく考えたほうがよい。地元の直売所での販売価格とはちがいます。」
やるっきゃないですね。
審査結果は1週間内外で届くとのこと。上位入賞した商品については、入賞後1年間以下のような支援がされます。1.PR機会の提供(マスメディア等への商品情報提供、千葉県の県産品PRサイトでの紹介、千葉県PRイベントへの優先参加)、2.販売機会の提供(イベント等への優先出展)、3.商品力向上のための助言等の支援。これがあれば営業しやすくなります。
良い知らせがくるにせよこないにせよ、自分でハードルを選んでチャレンジしたことに無駄はないはずです。(by sa)
 
(2016年1月)

食卓から地球を冷そう(のらやま通信232/1403)

2016年04月28日 | 農のあれこれ


植物は空気中のCO2を吸収して育ちます。しかし、その木を燃やすと、木に吸収されたCO2が再び空気中に放出されます。また、そのまま地中に埋めても微生物に分解されて、CO2に戻ってしまいます。そこで、木を炭にして炭素を固定します。炭は地中に埋めても分解されず、CO2に戻りません。つまりCO2が排出されません。炭を埋めた畑で栽培された野菜。それが地球温暖化の原因とされる空気中の二酸化炭素を削減し、地球を冷すことが期待されるクールベジタブル、つまり『クルベジ』です。
京都に出かけるついでがあったものですから、こんなクルベジの社会実験をすでに始めているお隣の亀岡に立ち寄ってみました。
亀岡では放置されて困っている竹林を地域の未利用バイオマスとしてとらえ、バイオマスの回収→炭化→たい肥との混合→農地施用カーボンクレジット 取引→クルベジ® 販売という流れをつくっています。竹の伐採、炭化は地元の民間事業者に任せ、市農業公社が竹炭と混合した堆肥を製造し、炭の投入実績を管理するため散布まで行います。協賛企業5社からは栽培地看板や商品ラベル等についてクレジット取り引きしています。
 
販売は地元のスーパーマーケットで扱ってもらっています。店の入り口の正面に「クルベジ」コーナーが置かれ、5分ほど観察していたのですが、その間でも何組かのお客さんが足を止め品定めをしていました。残念ながら購入した場面には立ち合いませんでしたが、マスコミで取り上げられ、小売店の努力や広報等によりその存在はある程度は認知されているようでした。ほかのノーブランドの野菜の価格と比較しても、特に高いというわけでもないようです。もしかすると、ほかの野菜コーナーと離れた場所の特設コーナーであることが、かえってほかの野菜と比較できずに、購入を躊躇してしまっているのではないかという印象も持ちました。
 
JR亀岡駅から徒歩で10分ほどのところにはクルベジ農法による市民農園が開設され、地元の農業者による農業体験塾のようなものも行われているようです。農作業にはまだ早い時期でしたから露地畑はまだ休んでいましたが、ビニールハウスの前には竹炭の入っているであろうローンバッグが置かれていました。
亀岡の事例は、大学研究機関と行政だけでなく、地元事業者・農業者や民間企業との協力を得ながら、社会実験がうまく離陸しているようです。あとは消費者がその価値を認識し、購入行動まで成熟すれば実験が成功。さらに社会運動という形に醸成されれば温室効果ガス削減の一歩にという期待が膨らみます。そのためにも柏市での社会実験が重要な役割を担うことになると再認識させられました。
 
わが家で行われた1月のナシの剪定枝の炭化試験の結果が少し前に報告されました。わが家の畑から排出される剪定枝は約9t。炭化した炭の量が約3t。そのうち難分解性炭素量が約1t。難分解性炭素とは炭から揮発分(有機質)やミネラル(灰分)を差し引いたもので、安定的に貯留可能な炭素・元素状炭素という意味のようです。
わが家のナシ畑から、計算上とはいえ、毎年1tもの炭素を固定化できるというのは予想以上の量でした。樹木は当然、竹やもみ殻よりも炭素の抽出率が高い値のようで、産地として取り組むようになればさらに大きな数値となって社会にアピールできるかもしれません。

山里はパネルもイネも籠の中(のらやま通信253/1512)

2016年04月28日 | 散歩漫歩

 この秋(冬?)もドタバタ家族旅。長野県伊那谷へ果樹の苗木を仕入れに行くついでに遠州から奥三河、東美濃地方を巡ってきました。
新東名高速道路を初めて走って、掛川市の観光農園「キウイフルーツカントリーJapan」さんへ。園内では各種キウイフルーツの食べ比べやバーベキュー、畑の散策、小動物とのふれあいなどができます。収穫の最終期でしたが、6種類のキウイフルーツを試食できました。写真右側からゴールデンイエロー、ヘイワード、アップルキウイ、農園オリジナルのピュアカントリー、ゼリーのような果肉のファーストエンペラー、小さいけれど特別甘くて一番人気の紅鮮。段々甘くなる順番でした。
掛川から浜松にかけて「ブルーベリーの郷」や「豊岡梅園」「はままつフルーツパーク時の栖」などの果物をテーマとした大規模な観光農園が立地し、生産、加工、販売だけでなく体験プログラムまで競いあっています。消費者は季節ごとにどこに行こうかと楽しいでしょうが、経営する方は生き残るのにた~いへん。
奥三河の山里を走っていると、こんなところまでと思えるようなところにもネットフェンスで囲まれたソーラーパネル。あれ?栗畑にもフェンス?ウメ畑も?なんでなんで?と思っているうちに、田んぼ全体を取り囲むフェンスが出てきて、ああそうか、イノシシ避けなんだと。ここでは田んぼに入るのにはフェンス扉の鍵も持って行かねばなりませんね。でも、クリ畑まで囲わねばならないとは…

恵那市岩村の町並み。ここは鎌倉時代からの城下町で、まだ昭和、大正の雰囲気がプンプン。どの家の玄関先にも花が飾られ、町が大事にされている様子がうかがえて好感持てます。通りの正面に見える山の上が東美濃岩村城跡。天空の城と呼ばれて最近人気の備中松山城と並んで日本三大山城のひとつとか。岩村の町から少しはずれたところに「農村景観日本一の地」という看板がありました(岩村町富田)。京都大学の先生がこの景色を気に入って、そう名付けたとか。写真正面中央山頂が岩村城址。古代の仁徳天皇のみた“カマドの煙”が見えてくるような盆地の散居風景でした。
中津川は栗きんとん発祥の地といわれ、栗きんとん屋さんが公式マップに14店舗も紹介されています。それぞれのお店の自慢の栗きんとんを食べ比べできるような企画商品も。先日、テレビで紹介されていたお店でお茶と一緒にいただきました。
伊那からの帰りはいつもここでひとっ風呂浴びてひと休み。昭和3年建設の諏訪片倉館。片倉製糸工場従業員向けの保養施設で、ヘルスセンターの原型?映画「テルマエ・ロマエⅡ」のロケ地にもなったようです。国の重要文化財指定の産業遺産のひとつ。
 いつもの突貫旅行でしたが、すっきり気分転換できてこれからの冬仕事に励めます。  (by mit)

(2015年12月)

相関と因果と直感と科学(のらやま通信252/1511)

2016年04月28日 | ミツバチプロジェクト

7月に国立環境研究所で「ネオニコチノイド系農薬と生物多様性」という公開シンポジウムが行われました。この農薬は90年代から主力殺虫剤として広く使用され、農業生産に大きく貢献してきました。一方で、欧米を中心にミツバチ類など野生生物への影響が問題視されていて、国内の一般市民の間からもそのリスクを懸念する声が出されています。今回のシンポジウムは第一線で研究されている4人の研究者たちがこの殺虫剤に関わる問題の最低限の事実関係を整理し、生態リスク評価を考えるうえでの注意点を整理したいという趣旨で行われました。
わが家のナシ栽培でもネオニコチノイド系農薬は特にアブラムシ類の特効薬として使用しています。この農薬は昆虫以外の人や野生動物への影響がなく、①卓越した殺虫効果。②浸透移行性、③残留性のような特徴を持っています。たとえば、アブラムシは植物の生長点に取り付き植物の生育に悪影響を与えます。殺虫剤を散布しても植物が成長したら、またアブラムシが寄ってきます。ネオニコチノイド系農薬は一度散布すると、植物の中に浸透移行し、時間がたち新たに成長した部分に取り付くアブラムシにも殺虫効果があります。結果として農薬散布回数が減り、農業の現場では“21世紀農業の救世主”“理想的な農薬”と言われたこともありました。
ところが、この農薬が普及し始めた頃から昆虫の数が減少し、特に欧米からミツバチの大量死が報告されるようになりました。ネオニコチノイド系農薬の出荷量の増大と昆虫の数の減少に相関関係があるというのです。その後、この農薬がいかに悪かという議論が活発化し、EUでは2年間、この農薬の使用を禁止し、環境への影響を把握するという事態にまで発展しています。
このような現状に対して、4人のパネラーたちに共通していたのは、農薬悪者論のほとんどが科学的データのない中でリスク評価されている、論理的思考ではなく直感的判断にしか過ぎないという意見でした。
まず「毒性が強いこと」と「リスクが高いこと」は別のもの。ミツバチに対して毒性の低い殺ダニ剤の方がリスクの高いことは証明されている。ダニのいないオーストラリアではミツバチの大量死はない。昆虫の減少と携帯電話の普及率にも相関関係があるが、電磁波の影響はないのか…。科学的にはどの因果関係もまだ証明されていないといいます。
農薬を使用しないと農業生産量は激減し、減農薬を実現しているエコファーマーの半分はネオニコチノイド系農薬を使っているといわれます。たとえば農薬を使わずにナタネを作付けすれば減収し、収入が減ればナタネの栽培は減少。早春期の蜜源が減少することになれば、ミツバチにはさらにダメージになるという声もありました。全植物の3/4はミツバチ等の送粉者に依存し、それらの植物による農業生産額は一割弱のシェアーだが、ビタミンAの供給では五割を担っているそうです。
農薬は不可欠だし、重要な役割を果たしているミツバチが少なくなっても困る。要は、農業の持続性と生態保全性のバランスの問題。因果関係を解明しようにも実験室での行動と生態系のなかでの行動は全く異なり、科学的に判断することもたいへん難しい。ミツバチに影響を与えない殺虫剤の開発の方が早いかもしれないという意見もでました。ならば、それまでの間、どうすればいいのでしょうか。
玉川大学のN先生は、ミツバチたちのために蜜源植物を増やそうといいます。さいわい耕作放棄地が大量にあり、そこに花の咲く植物を植えれば地域の景観形成にもなる、と。
なあんだ、わが家で取り組んでいるヒマワリとナタネ(構想中)の地あぶらづくりと同じことじゃないか。生物多様性にも寄与できる仕事だと、専門家からお墨付きをいただいた気になってかえってきました。   (by mit)

(2015年11月)

まっすぐな歴史と誇り引き継いで(のらやま通信251/1510)

2016年04月28日 | 散歩漫歩

山の中腹に忽然と赤い大鳥居が現れました。全国の信者からの寄進で建てられたようです素足になり詔を受け、身も心も清めてご神体とのご対面です。何度も参詣しているという方に「ご利益はありますか」と聞くと「こうして毎年、参詣できることがありがたい」と。不謹慎なことを聞いてしまいました。
出羽三山の湯殿山神社での話です。山を下りた里に湯殿山総本寺大日坊というお寺があります。弘法大師の開創、出羽修験道の霊地で、徳川将軍家の祈願寺という歴史もあって、明治期の廃仏毀釈以前は日本で有数の規模を誇った寺院だったそうです。ここでは修行の究極の姿、即身仏・真如海上人を直接仰ぎ見ることができます。二十代から木の実などしか口にしない木食の行に入り、96歳で生身のまま土中に入定という説明も伺えました。
かつては「西の伊勢参り、東の奥参り」が一対の人生儀礼のひとつだったそうですが、“他言無用、言わず語らずの山”といわれ、今日でも厳しい戒律が生きているようです。今年から地元の二つの講の役員を務めることになり、そういえば明治42年生まれの祖父が地元の八日講(出羽三山講)の最後の役員をしていたと思いだし、その足跡を垣間見ようと7月、山形県庄内地方へいつものように突撃夫婦旅。
庄内といえば、だだちゃ豆を代表とする“在来作物”。現在も50種類以上が受け継がれ栽培されているそうです。イタリアンの奥田シェフの活躍で知られるようになりました。鶴岡出身の藤沢周平の時代小説でも焼き畑農法で作られる藤沢カブや民田ナスなど、山海里の恵みが数多く取り上げられています。こういった食文化が評価され、鶴岡市が昨年、日本で初めてユネスコ創造都市ネットワークに加盟認可されています。これを機にグリーン・ツーリズムを通じたまちづくりを一層進めるとのこと。
鶴岡の街から日本海に出る湯野浜海岸の入り口におしゃれな農産物直売所がありました。店内がとても明るいので見上げると、農業用鉄骨ハウスをそのまま利用していました(写真)。もともと作物が健康に育つように作られた施設です。冬は暖かく、夏涼しい、しかも明るい。農産物直売所というとプレハブやログハウス風が多いのですが、これはいい着想です。
店内には時節柄、色とりどりのミニトマトのほかに、ジュースやケチャップ、カレーなど、トマトを原材料とした加工品がたくさん陳列されています。自前の加工場も持っているといいます。聞けば七年前に土建業から新規参入した事業所とか。近くの砂丘の中の畑を大規模に経営。トマトの他、特産のメロン、イチゴ、キャベツ、ナス、エダマメなど13種もの野菜を作付け、土づくりに力を入れ、差別化を図ろうとしています。レストランも持ち、加工品はネット販売で活路を見出そうとしています。成功事例として紹介されているようですが、本当の評価はこれからかもしれません。互いに頑張りましょう。
庄内には、城のあった鶴岡と北前船で栄えた酒田の二つの街があります。片や譜代大名酒井家が領民との信頼を深めながら江戸期一貫して治め、片や「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」と歌に詠まれるほど栄華を誇り、防風林や灌漑事業に貢献した日本最大の地主本間家の本拠地。朝ドラ<おしん>で有名になった酒田の山居倉庫、クラゲ展示で名を馳せる加茂水族館、時代小説ファン垂涎の藤沢周平記念館、もちろん出羽三山の羽黒山など、他にも見どころいっぱい。落ち着きの中にも自信と活力があふれている感じです。時間の経過に耐えたものはそのまちに風格を与え、まちに暮らすことの誇りに通じる。こんな想いを再認識した旅でした。         (by mit)

(2015年10月)

果物は必需品?贅沢品?(のらやま通信250/1509)

2016年04月28日 | 農のあれこれ

 果物食べていますか?1日200g果物を食べようという運動があるが果物の世代別摂取量は年々減少している。摂取量が多いとされる60代以上でも平均160gほどだが、これからを担う若い世代の果物の摂取量は極めて低いものとなっている。20代~40代の平均摂取量は1日64gほどしかないのだ。さらにこの世代は全く摂取しない0gの割合が5割もいる。また農家の7割は60歳以上だ。果物をめぐる現状は、高齢者が生産して高齢者が食べる時代になっている。若い世代には今までのやり方ではなく、別のアプローチが不可欠な状況となっている。
 そんな中、若い世代の一員でしかも果樹農家である私がこれからどうしていくべきかを考えるキッカケとなるかもしれないと、去る7月23日に農水省主催の「くだものフォーラム」に参加してきた。このフォーラムでは、基調講演として上記のくだものにまつわる現状と果樹農業振興基本方針について、栄養学における果物摂取による健康効果についてあり、生産者2名と高級果物専門店の千疋屋総本店、カットフルーツ販売の弘法屋の事例発表、及びパネルディスカッションがあった。
 まず果物の摂取が少なくっている理由は、価格が高い、低所得、ジャンクフード等不健康な食品の選択肢が多いということがあげられる。また子供の場合、保護者の摂取状況や家庭での入手可能性の影響が大きくなる。果物はどうしても嗜好品だ。さらには贅沢品となっているのではなかろうか。極論すれば、果物はなくても困らないもの。果物が必需品であるかどうか3000人を対象に調査したところ、大人では3割ほどしか必要であると答えていない。子どもにとって必需品であるかどうかの調査では5割は必要だと答えている。大人と子どもでの差、これは頭の中では子どもに果物を食べさせた方が良いと思っている大人は多いということになる。これを改善するにはどうしたらよいのか。食育という言葉を初めて聞いてからだいぶ経ったが、単純にカラダにいいから、美味しいからと伝えるだけでなく、生産者の気持ち、さらには生産地から消費者までの流通の大変さを伝えることも大切である。食育だけやっていれば良いというものでもなく、食環境の整備も必要となっている。低価格化を実現するための仕組み作りや家庭菜園、産地やフードシステムの向上が必要だと考えられている。これらは日本だけの課題ではなく世界中で課題となっている。
●千疋屋のおはなし
 難しい話はここまでにして、あの西郷さんも足しげくスイカを買いに通っていた千疋屋総本店について話そう。創業181年目の千疋屋は現在の埼玉県越谷市にあった千疋村から由来している。京橋千疋屋や銀座千疋屋をのれん分けしたが現在資本関係はないという。平成17年に日本橋三井タワーに日本橋本店をオープンし、1Fのメインストアをフルーツミュージアムと呼び、2Fのフルーツパーラーでは6000円で2時間食べ放題だが連日盛況だという。千疋屋の取り組みは、年間100日の産地周りで産地との連携の強化、糖度選別の強化、エチレンガス発生を防ぐ鮮度保持シート、保証カードがあげられる。普通の八百屋ではあり得ない手間を二重にも三重にもかけているのだ。
千疋屋では国内産が90%を占めている。日本における果物の需要は40%が国内産、60%が輸入品であるから千疋屋における国内産の需要は大きい。シャインマスカットの需要が高まってきているように種無し、皮ごと食べられる、手軽な果実が人気だという。果物は糖度と酸味のバランスが重要だが、輸入品のグレープフルーツのような酸味のある果物は敬遠されてきている。さらにお馴染みのバナナの消費は伸びてきていて、房単位から1本単位へと販売形態が変化してきる。
また売上の30%は外国人だという。日本の果物は日本国内だけでなく、外国での需要が高まってきている。現に中東から月間数千万円のオファーがあり、特にメロンやマンゴーが人気だという。本当に消費者が求めるものを作れば、どんなに高い値段だとしても買ってくれる市場は確実にあるというのが千疋屋の考え方だ。
●果物はワクワクするもの
 これから日本の果物は国内だけでなく国外にアピールするチャンスが幾度ともある。5年後には東京五輪で多くの外国人が日本にやってくる。外国へアピールするのには絶好のチャンスだ。しかしどうだろう、ホテルの朝食にフルーツは確実にあるが、パインやグレープフルーツ、オレンジ、バナナ等外国産のものが多く並ぶ。このような身近なところから変えていかなければならないだろう。また美味しい果物をただ輸出するだけでなく、保存方法や食べごろ、食べ方、さらには生産者の思いまでをも輸出する必要がある。
果物は嗜好品だからこそ、ワクワクするものだ。これから生産者としても美味しい果物を作ってワクワクを届けていきたいと思う。日本の果樹農業を絶やさないために。これからの日本のために。    (co-sk)

(2015年9月)

“地あぶら”でからだも地域も健康に(のらやま通信249/1508)

2016年04月28日 | グリーンオイルプロジェクト

7月下旬、わが家の隣の畑でヒマワリが咲きだしました。最初に10a分、一週間置いてから20a分。離れた畑では、これから順に合計60a分ぐらいのヒマワリが咲きます。ヒマワリの種子から油を採ろうというのです。
なぜナシ農家のわが家でひまわり油?実は切実な課題が目前に。農業の担い手がいないというのはここ何年も言われてきたことです。最近20年間で農業就業人口が半減したといいます。しかも平均年齢は65歳を越えたとか。最近の農政の大転換は農業事業者として自立するか離農するかを迫るものです。効率的に利用できる農地は大規模経営や企業参入も可能でしょう。市街地に隣接していれば市民農園や体験農園としての利用も可能です。でも残りの農地は?残土埋め立て?資材置き場などへの転用?害獣の隠れ家?いずれも地域で農業を続けていくには……。専業農家として生き残っていくために、自分の経営農地だけでなくその周辺の遊休農地も管理していかねばならない状況と判断しました。
でもナシ園の拡張も限界がありますし、わが家に他の野菜を作付ける余裕はありません。除草しているだけや緑肥を播いているだけでは経費はでません。管理が容易で作業が機械化できて収入が得られるもの。昨今の健康ブームで食用油が注目されていることもビジネスチャンスです。
栽培しているヒマワリの品種は中オレイン酸種に改良された“春りん蔵”。低温圧搾・未精製の食用ひまわり油にはオレイン酸、ビタミンEなど有効成分がたっぷり。オリーブ油と変わらない成分含有量があります。大手メーカーの食用油の原材料はすべて輸入品。どのように作られたかを確認することは難しい。地元で採れるひまわり油なら種子採りなどに消費者自らが関わることもできます。バターに代えて、サラダに、ドレッシングにも、コスメ利用もできます。“地あぶら”で食用油国内自給率3%から脱却しましょうという提案です。
わが家で食用ひまわり油づくりに挑戦するのは今年で4年目。はじめはNPO法人手賀沼トラストの有志で10aほどチャレンジ。開花して種子採りまでは良かったのですが、種子の保管状態が悪かったようで、50リットルの油が無駄に。2年目に再挑戦して、3年目は手賀沼トラスト事業として手賀沼湖畔の10a、柏市あけぼの山公園事業として10a、農業生産法人ちゃちゃちゃビレッジとして10aでヒマワリを栽培し、好評を得ました。今年の3月には東京ビッグサイトで開かれた【健康博覧会】という展示会に出品してみたら、くせのない油、心地よい余韻の残る油と高評でした。そこで今年はわが家とちゃちゃちゃビレッジの共同事業として90aぐらい作付けてあります。
規模拡大となると問題は作業の機械化です。特に収穫時の機械化。流通している国産食用油の多くはナタネ油や大豆油。どちらも機械化ができています。農機具メーカーに問い合わせても「ヒマワリですか…」という声ばかりで自信なさそう。そこで7月はじめ、ナタネ、ヒマワリ、ダイズを二年三作して地あぶらづくりに取り組んでいるNPO民間稲作研究所(栃木県)に伺ってきました。
ちょうどナタネ油を搾っているところでした。ヒマワリは4月上旬に種まきをしたということで、もう花は満開を迎えていました。種蒔きから収穫、調整、乾燥、圧搾まで一貫した機械化がなされています。雑草が出る前に種を播けば中間除草は必要ないこと、汎用コンバインでもうまく刈り取りができないこともあること、専用の乾燥機があることなど、参考となることばかりでした。油脂植物の花はミツバチの蜜源になり、ミツバチにより交配がうまくいくと、種子も充実するという相乗効果も期待されます。蜜源と畑の肥沃化のためにレンゲも輪作体系に組み込んでいるといいます。
こうなりゃ将来は、食用ひまわり油と蜂蜜もわが家の商品にラインアップじゃー、なんてね。
(by mit)

(2015年8月)

枝をつなげる、未来につながる(のらやま通信248/1507)

2016年04月28日 | 今年の梨づくり

 農業技術の進歩はめざましいものがある。明治時代以降、それらの進歩は日本の農業経営の成長に大きく貢献してきた。農業機械や施設の開発・改良、栽培技術の改善は生産体系を大きく変え、大規模経営を可能にさせた。さらには肥料や農薬、品種改良等、生産者だけでなく農産物自体、消費者自身にも直接影響を与えるものまでも大きく変わってきた。
 日本における梨栽培は他の果物と比べても歴史は古い。弥生時代にはすでに食べられていて、日本書紀にも栽培の記述が残っているほどだ。現在の梨栽培の主流である棚仕立て栽培は江戸時代から始まったと言われている。明治時代に日本の農業技術が進歩し始める以前に、すでに梨栽培の技術の進歩は始まっていたのである。そんな棚仕立て栽培は整枝法の確立と剪定技術の向上により150年の歴史にわたって続いてきている。しかしながら高品質品種の登場による剪定技術の複雑化で作業効率が悪くなってきているという問題もある。
 現在、棚仕立て栽培を進化させた樹体ジョイント仕立て法(以下、ジョイント栽培)が全国各地の果樹園で拡がってきている。この樹体ジョイント栽培は神奈川県農業技術センターが梨の早期成園化、省力・低コスト栽培技術開発に向けて研究が進められてきたものである。わが家のある千葉県東葛飾地域では手で数えられるくらいの農家がジョイント栽培を取り入れている。その数少ない農家の中に加わろうと、わが家でもジョイント栽培を試験的に一部に導入しようと決めた。ジョイント栽培とはどういうものなのか。今までの1本樹(慣行)の場合、腕となる主枝を2本、または3本出し、そこにさらに細い枝(側枝)を何本も出し実をつけるというもので、たくさんの実を付け収穫量を上げるのに時間がかかった。ジョイント栽培は腕となる主枝を一直線にし、さらには隣同士複数の樹を接ぎ木で連結し、直線状の集合樹として仕立てあげる新しい仕立て方法だ。慣行では1本の力で養分を汲み上げていたものを、ジョイント栽培で集合樹とすることで複数の力で養分を汲み上げ均等に巡り渡せられるようになるのだ。樹をヒトに見立て簡単にイメージしてもらうと、慣行の場合、腕を大きく拡げているヒトが何人も園内に点在し、それぞれが自分のエリアを確保している状態である。ジョイント栽培はというと、何人ものヒトが肩を組んだ列が複数列あるというもの。慣行が「自分のために」だったものが、ジョイント栽培では「一人はみんなのために、みんなは一人のために」となる。ジョイント栽培の最大のメリットとしては作業動線の単純化により作業の効率化をはかれること、早期成園化を目指せることだろう。
 そんなジョイント栽培をわが家も取り入れることになったのは理由がある。1つは樹の老木化により収穫量のピークが過ぎたことで早期成園化を目指したいこと、もう1つは近年悩ませられている白紋羽病という病原菌の問題である。白紋羽病は梨だけでなくリンゴや柿、ブドウなど、すべての果樹の根に影響を与える病気である。それがジョイント栽培で根に与える影響を軽減できるのではないかと考えている。
 わが家は上図のように連結はまだしていない。これをするために苗木を生育している段階である。翌春、もしくは翌夏に接木し連結する予定でいる。
●全く新しい栽培技術
 梨の新しい栽培技術はジョイント仕立て法だけではない。栃木県の農業試験場で開発され各地に普及し始めている盛土式根域制限栽培だ。初期費用に相当かかるのだが、植え付け3年目で3t/10aの収量を見込める方法となっている。この栽培方法では地面にビニル、底面給水の塩ビ管と給水マット、遮根シートの順に敷き、培土を盛り、そこに苗を植え、さらに盛土はビニルマルチで覆う。実際の畑の土の上に遮根シートを敷き盛土する。施設栽培のトマトやイチゴのように梨も作ってみようという今までとは全く違う栽培方法となっている。わが家のような白紋羽病に悩まされている圃場でも問題なく栽培可能になる。
 慣行にしてもジョイントにしても根域制限にしても、それぞれの優劣を考えながら取り入れていきたいと考える。   

(2015年7月)

境内と“市”とサードプレイス(のらやま通信247/1506)

2016年04月28日 | かしわかあさん

ここ何回か、柏神社で開かれる『手づくりての市・ジモトワカゾー野菜市』に参加しています。この“市”は柏の街で人と人がつながるゆる~いコミュニティができればいいね!柏をもっと楽しいまちにしたい!という思いで行っている、作る人と買う人をつなぐ“市”です。月に一度、手作り作家さんたちのクラフト品、工芸品、食品、加工品、地元の産直野菜が並びます。出品者の多くは地元の柏や周辺の我孫子、松戸から、中には成田からも。
 これまで梨のシーズンだけ後継者君が参加していたのですが、地域の農家女性で参加しようという声があがり、また農産加工品を作るだけでなく、消費者の方の反応も知りたいという思いから参加しています。
わが家からは、コシヒカリのごはんから作った串だんごとコシヒカリの米粉から作ったシフォンケーキ、ナシやキウイフルーツのジャムやドレッシング、トマトケチャップなどです。道の駅しょうなんの農産物直売所で販売している定番商品ばかりです。“ての市”は長く定期的に行われているのでリピーターのファンも多く、そういう方のなかには道の駅をご存知の方もいて「先月買ったお団子がおいしかった」とか「ケチャップを作ったのはあなたでしたか。道の駅しょうなんで買ったケチャップのファンです」とかお客様との会話もはずみます。お客さんとの交流が“市”の醍醐味!
会場を神社にしたのには実は意味があります。柏駅前には百貨店、家電量販店があるのですが、街としてはお客様の流れがそこで止まってしまいがちなのは問題。柏神社は駅から5分ほどの旧水戸街道の交差点のところにあり、“ての市”を目指していただくことで、駅から駅前商店街を通って神社へ行く流れ、また神社から駅前商店街を通って帰る流れができ、商店街にもお客様に足を止めていただくことを期待しています。
6月は柏神社から会場を変えての出張販売『千産千消フェア 青空マルシェ』として高島屋柏店店頭での販売も実現しました。販売までの細かい打ち合わせや当日の会場設営、駐車場案内など、今回もストブレのみなさんのお世話になりっぱなしでした。地元のイベント、産品が百貨店と関わり扱われるというのは百貨店側に地域応援の姿勢があり、百貨店のお客様側にも地元の商品もという要望があるのではと感じました。
 この“市”を運営しているのは、ストリートブレイカーズという団体です。1999年、柏商工会議所青年部創立20周年を機に設立。翌年、柏駅周辺イメージアップ推進協議会イベント部会として位置づけられ、以来様々なイベントが企画され、今日にいたります。
 実はこのストブレさん、若者が柏のまちを身近に感じてくれたらいいという思いが熱く、完全ボランティアにより運営されています。ジモトワカゾー野菜市では販売用の長机のレンタル料のみが出店者の負担です。柏神社に行けば、机が用意してあって販売を終えて撤収したあとの後片付けもストブレさんがやってくれています。出品者は場所を提供していただいて、まさにおんぶにだっこ状態。いろいろな年齢の方たちが参加していますが、中でもリーダーのKさんのバランス感覚、押し付けがましくなくそれでいて細かい気配り、自然体の穏やかさには頭が下がります。
ストブレさんの様子を見ていると、イベントの段取りを楽々こなしている感じがします。彼らの応援団もいて互いに声をかけあい楽しそうです。市民参加などと書くと堅苦しい。もっと肩の力をぬいて楽しんでやっているという感じです。それぞれ普段のお仕事があってそれとは別の活動の楽しみを見出しているようです。自宅(ファーストプレイス)や職場・学校(セカンドプレイス)ではない、一個人としてくつろぐことができる第三の居場所“サードプレイス”になっているのかも。(by sa)

(2015年6月)

さあ今日は大師様だ(のらやま通信246/1505)

2016年04月28日 | 散歩漫歩

毎年5月1日から5日まで、地域最大の民俗行事“送り大師”が行われます。四国八十八ヶ所巡りに習い、地元に札所を置いて5日間で巡ってきます。柏市を中心に白井市、鎌ヶ谷市、松戸市域まで及び三十数集落が講中に参加。今年は柏市逆井区が結願区となって行事全体を仕切ります。泉区の講中役員として初日の1日、17km 余り歩いてきました。今年の結願区逆井の観音寺で出発式。700人あまりが集まりました。かつては野良道を歩いたのでしょうが、今では大師道を鉄道が横切り、札所をマンションが取り囲みます。JR常磐線柏駅すぐ近くを歩くときはやはり少し恥ずかしい。参加者の中には異国出身の方や子供たちも。もちろん、般若心経を一緒に唱えています。
2日目はわが地区の札所でお接待。「もてなし」「もてなされ」のお互いさま。

5日は結願の祭礼の行われる日。最後の5km余りを歩きます。数百メートル手前で隊列を組みなおし、稚児行列も加わります。会場となった逆井観音寺正面に建てられた御柱の白布がとられて祭礼は最高潮。観客も含め1000人近くが集まったようです。来年は松戸市金ケ作区が結願区。その先は未定とのこと。

かつてはこんな農繁期にやってと苦々しく感じていたものですが、今回、初めて行事に参加し、イメージが変わりました。農作業や田植えで忙しいといっても、これから農作業や田植えをやる人は限られた人だけになるでしょうし、ほとんどの人は大型連休何しようかしらと思うはず。
爽やかな緑の風の中、普段は車であっという間に通り過ぎるまちの裏道を旧知の人や友人たちと何を話すとはなくだべりながら一日歩く。地域の再発見の機会になります。かつては婚活の場となったり、地域紛争解決のきっかけとなったこともあったようです。宗派を問わず、参加したいものを受け入れる寛容さ。今日もてなされたなら明日はもてなす方に回るお互い様という関係性。実にジャパネスクです。

各札所での般若心経は頭の体操とともに呼吸健康法かも。全行程で百回以上唱えます。毎日歩くと「スリーデイマーチ」ならぬ「ファイブデイマーチ」健康づくりイベントのようです。今年も五日間歩けたからまだまだ元気だなんて、若さ具合を測るバロメーターになっているようなことも。
実情にあった運営方法を模索しているようですが、これからはムラ単位の講中による運営は難しいかもしれません。新しい時代には新しい価値を見つけられる気がします。“健康都市かしわ”あるいは“健康都市東葛印旛”を象徴する地域の文化遺産としても継承していきたいと強く感じました。

(2015年5月)

我が家のブランド化計画(のらやま通信245/1504)

2016年04月28日 | 農のあれこれ

ブランディングという言葉を聞いたことあるだろうか。最近は流行り言葉のようにメディアで耳にするようになってきたと感じる。単純にいうと価値を高めることだ。自分自身の価値を高めようというセルフブランディングという言葉まである。そんなブランディングの話をする。
昨年末より我が家は経営の見直しを行っている。新しい世代に交代する転換期である今、改めて経営の改善を図る時期となってきたのである。我が家は単純に梨農家や米農家、野菜農家という訳ではないのはご存知の通りだ。梨も米も野菜も、さらには加工品もと、何でもやる複合経営をしている。各々がそれぞれを好きなようにやっている点と点の集合体が現状の我が家なのだ。これを新しい世代に交代していく中で、点と点をつなぎ1つの大きな球(円)としていく作業を行っていく。この大きな球を作り、さらに大きくしていくことがブランディングというものなのだ。
この大きな球はそのままだと転がってしまう。転がらないようにするためにはそれを支える土台が必要不可欠である。まずその土台作りから始めた。この土台というのはどんな会社でも持っている「理念」というもの。今まで曖昧な表現でしかなかったものを文章化する作業、各々が頭の中でポツンと浮かんでいたものを明確に言葉にする作業を行った。これには時間を大変費やした。家族間で何度も話し合いを繰り返し、きっちりとした土台ではないにしてもある程度形としてはできあがった。我が家の理念は「共感」。我が家の農産物を通じて、関わりあうすべての人々と共感し合い、必要不可欠なパートナー的存在を目指したいと考えている。
土台ができたらその上に乗せる球を作る作業となる。我が家の場合は新しい球を作るのではなく、今ある点と点をつなげ円にし、さらに立体化させる。それをするために、ある6次産業化プランナーにアドバイスをいただく機会を得た。日本各地の一次産業をデザインで活性化するために全国を飛び回っている方。F社のN氏に遠く離れた北海道からわざわざ千葉まで来てもらい、ブランディングについての話を聞かせていただいた。
ブランディングとは、ただ商品ラベルをデザインすること、ロゴマークを制定すること、ホームページを作ること、パンフレットを作ることではないという。これらはあくまでもツール(手段)でしかないのだ。お客様に自分たちの思いを伝えること、思いをわかってもらえるデザインにすること、他とどう差別化するかがブランディングということになる。
企業には有形価値と無形価値が存在する。有形価値というのは土地だったり資産だったり技術だったり数値で表すことのできるもののこと。これらには限度がある。しかし無形価値は違うのだ。無形価値とは数値で表すことのできない部分、すなわち企業のイメージのことである。ブランディングの目的はこの無形価値をどう高めていくか、どう作っていくかということである。ロンドンに本社を置くインターブランド社による調査によると全世界で最もブランド価値の高い企業は誰もが知っているリンゴのロゴのところだ。新しい商品が発表されたら全世界で人々が熱狂する。あのリンゴの一口かじられたロゴが付いているだけで人々は良いイメージを持ち購入していく。同じような形や機能であれば、多少高くともリンゴのロゴを選ぶ。「いいモノ」を作っていれば売れる、結果は後からついてくるという時代は変わった。「いいモノ」を作ることはどんな企業も当たり前だ。その「いいモノ」についての価値を見出し、具体的な言葉にして伝え、アピールしてブランドを構築すること(他と差別化すること)がブランディングになる。
ブランディングという横文字の話を続けてきたが、これは今に始まったことではない。戦国時代にはもうすでに存在していたのだ。合戦の場において敵と味方を区別するために家紋が使われていた。旗やのぼり、鎧や刀に家紋がつけられていた。合戦のなくなった時代になると家の格式を表すために、庶民の間においても家紋が広く使われるようになった。戦国時代においての家紋は敵に向かって自分たちを主張し、味方には誇りを持ち連帯感を高めるツールであった。それが時代が移り変わり現在、家紋ではなくロゴマークとして、お客様に向けて自分たちを主張することに置き換わったのではないかと考えられる。
 これから我が家は新しく生まれ変わろうとしている。話し合いを続けて、より「いいモノ」、より良い環境作りを目指したいと考えている。このブランディングは一過性のものではない。ロゴマークができた、商品ラベルもできた、ホームページもできた、パンフレットもできた、ここでは終わらない。ここからが初めてスタートとなる。その先、お客様に伝えていくこと、それがブランディングとなる。
 さぁ、新しい時代を新しい世代で切り開いていこう。
(co-sk)

(2015年4月)