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『エリック・ホッファー自伝』(読書メモ)

エリック・ホッファー(中本義彦訳)『エリック・ホッファー自伝』作品社

『ハンナ・アーレント』の中で「砂漠のオアシス」のような存在として紹介されていたので、読んでみた。

エリック・ホッファーは、7歳で失明し、15歳のときに視力が回復したものの、正規の学校教育は受けていない。10年間の放浪生活を経て、65歳まで港湾労働者をしながら著作活動をした「沖仲仕の哲学者」として知られている。

職業紹介所で仕事をもらいながら、自己学習を欠かさなかったホッファー。

「私はつましく暮らし、絶え間なく読書しながら、数学、化学、物理、地理の大学の教科書を読み、勉強をはじめた。自分の記憶を助けるためにノートをとる習慣も身につけ、言葉を使って物事を描き出すことに熱中し、適切な形容詞を探すのに何時間も費やしたりしていた」(p. 16)

そんなホッファーだが、あるとき自殺を考える。

「歩き、食べ、読み、勉強し、ノートをとるという毎日が、何週間も続いた。残りの人生をずっとこうして過ごすこともできただろう。しかし、金がつきたらまた仕事に戻らねばならないし、それが死ぬまで毎日続くかと思うと、私を幻滅させた。今年の終わりに死のうが、十年後に死のうが、いったい何が違うというのか。(中略)1930年の暮れが近づき、いよいよ金がなくなったらどうするかを決めなければならない時がきた。もう心は決まっている、自殺だ」(p. 40-41)

しかし、彼の服毒自殺は失敗する。

「私は自殺しなかった。だがその日曜日、労働者は死に、放浪者が誕生したのである」(p. 47)

最も印象に残ったのは、ホッファーがひょんなことから、大学の柑橘類研究所でバイトしていたときのこと。その研究所では、レモン産地で発生した病気の調査をしていたが、原因がわからない。すでに大学の理系の教科書をマスターしていたホッファーは、自主的に植物学の文献を調べまくり、解決してしまう

「教授は研究所の仕事を用意してくれていた。しかし、私は本能的にまだ落ち着くべきときではないと感じ、放浪生活に戻った」(p. 88)

これはすごい。研究機関で研究するのではなく、「働きながら思索すること」が自分の使命であることを直感的に理解していたのだろう。

その後、港湾労働者としてはたらきながら、48歳のときに『大衆運動』を出版し、80歳で亡くなるまで哲学者として活躍する。

多くの研究者は組織に「寄生」しないと研究ができないが、まさに「独力で研究」し続けたホッファーの生き方に感銘を受けた。


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