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1940年代に入ると、雑誌や単行本はほとんど日本語で埋められて、ハングル新聞はすべて廃刊される。

2019-09-08 | 韓国あれこれ・・・

この地の随所に日本式名称…植民地教科書が残した遺産

登録:2018-06-03 23:21 修正:2018-06-04 07:22

[パク・サンジュンの過去の窓] 
文化抹殺政策に退出したハングル 
その場を占めた倭色用語 
80年後の今もあちこちに残滓残る

 
     1934年初等学校理科教科書。左は表紙、右は仁川にあった朝鮮総督府観測所=資料写真//ハンギョレ新聞社

 日帝強制占領期間(日本の植民地期)の雑誌や出版物を見れば、1930年代中後半から尋常でない情況があらわれる。韓国語の文がどんどん減っているのだ。1940年代に入ると、雑誌や単行本はほとんど日本語で埋められて、ハングル新聞はすべて廃刊される。こうした状況はもちろん日本の文化抹殺政策のためだが、その結果として青年層が幼時から日本語で教育を受け、韓国語より日本語を楽に感じるようになった理由もある。日帝強制占領期間が30年以上続き、1940年代に入ると朝鮮半島の知識人の普遍的な言語は日本語になった。

 この時期、朝鮮の教科書はすべて日本語になっている。例えば昭和9年(1934年)に朝鮮総督府が作り発行した初等学校用理科教科書を調べると、最初から最後まで漢字と日本語で、ハングルはただの一文字も出てこない。動物、植物、人体、季節と気候、岩石など私たちの周辺の自然をほとんどすべて扱っているが、すべて日本式漢字の名前で紹介している。今もまだ私たちの文化に広範に残っている日帝の残滓は、このように当時の世代から体系的に洗脳され刻印された跡である。

 この教科書は日本本土のものではなく、遠い朝鮮植民地用であることが分かる内容がいくつもある。例えば、気候を説明するところでは、仁川(インチョン)鷹峰山(ウンボンサン)にあった気象観測所の図が入っている。当時の名称が「朝鮮総督府観測所」であったこちらは、我が国最初の近代式気象観測所であり、解放後にもしばらく中央気象台の役割を果した由緒深いところだ。多くの写真記録でも伝えられるこの建物は、長きにわたり数回の補修と改築を経て、1992年からは「仁川気象台」としての役割を尽くし、2013年に撤去された。今は1920年代に建てられた赤レンガの倉庫だけが残っている。

 また、電気を説明する部分の最後には、京城放送局(朝鮮放送協会)の姿も図で登場する。無線電信について叙述し、放送局のアンテナのようすを強調した図を載せた。この図の建物と放送塔も当時ソウルの貞洞(チョンドン)にあった京城放送局の写真記録と正確に一致する。現在の韓国放送(KBS)は、まさにこの京城放送局にルーツを置いている。

 
                初等教科書141ページの内容=資料写真//ハンギョレ新聞社

 現在北朝鮮地域である江原道通川郡(トンチョングン)海金剛(ヘグムガン)の叢石亭(チョンソクジョン)も、玄武岩の柱状節理と共に小さな亭子の姿が図で登場する。岩石の単元に出ている。関東八景の一等に選ばれる叢石亭は、新羅時代に建てられたというが、北朝鮮ではその一帯の地質地形を天然記念物に指定している。岩石を説明する部分には、その他に火山の噴火と溶岩の姿として日本の鹿児島県の桜島の図が二つのカットで載っている。朝鮮半島には活火山がないためだろう。

 こうした教科書で教育を受けた人々は、私たちの歴史の中できちんとハングルを勉強する機会を得られなかった不運な世代だ。そのため解放後に、韓国語の読み書きにとても困ったという回顧談が多くある。代表的な事例として、ジャーナリストだったリ・ヨンヒ氏(1929~2010)と漫画家のコ・ウヨン氏(1938~2005)がいる。リ・ヨンヒ氏は、解放後に大学に通い朝鮮戦争の時期からは通訳将校として長期服務して50年代後半に記者になったが、その時まで韓国語の文を書くことをまともに習ったことがなく、小中高生用の教科書を求めて独学でハングル文法の勉強をしたと述懐した。

 日本が建てた傀儡国家の満州国で生まれ育ったコ・ウヨン氏は、解放後に帰国するまで、韓国語の読み書きはもちろん、話すこともほとんどできなかったという。平壌(ピョンヤン)出身の彼の両親が満州に移民し、成功裏に事業を展開したおかげで自動車まで所有した裕福な家で育ち、周辺の日本人と事実上同じ社会的地位を享受した。少年コ・ウヨンにとって“母国語”は日本語だったわけだ。

パク・サンジュン ソウルSFアーカイブ代表

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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「鬱陵島事蹟」は、粛宗時代に三陟営将であり鬱陵島の捜討官だった張漢相(1656~1724)が鬱陵島を「捜討」(管理・守護)した後に残した記録だ。

2019-09-08 | 市民のくらしのなかで

“朝鮮の独島領有”を証明する史料「鬱陵島事蹟」新たに発見

登録:2018-10-24 09:48 修正:2018-10-25 09:12

東北アジア歴史財団、筆写本2種を公開  
朝鮮の鬱陵島「捜討」の活動を確認する史料 
民間記録の「恒吉古宅日記」も寄贈受ける

 
          「鬱陵島事蹟」が載っている「喬桐水使公輓祭録」の内容//ハンギョレ新聞社

 朝鮮時代後期の朝鮮の行政力が鬱陵島(ウルルンド)に及んでおり、独島(日本名・竹島)の存在も認知していたことを物語る「鬱陵島事蹟」のまた別の筆写本が発見された。

 東北アジア歴史財団(理事長キム・ドヒョン)は23日、財団が最近、義城(ウィソン)召文国博物館で新たに発見した「鬱陵島事蹟」筆写本2種を公開し、その意味を追求する学術行事を24日に開催すると明らかにした。

 「鬱陵島事蹟」は、粛宗時代に三陟営将であり鬱陵島の捜討官だった張漢相(1656~1724)が鬱陵島を「捜討」(管理・守護)した後に残した記録だ。17世紀の鬱陵島の状況と朝鮮の政策をよく語っているだけでなく、「鬱陵島東南300里余りに島がある」という内容があり、「独島領有権の守護」において重要な史料として挙げられる。

 
           「鬱陵島事蹟」が載っている「節度公両世実録」の表紙//ハンギョレ新聞社
 
 
        鬱陵島の捜討活動が書かれている江陵金氏の監察公派「恒吉古宅日記」//ハンギョレ新聞社

 最近財団が探し出した史料は、従来知られている筆写本(「節度公両世碑銘」に収録)とは異なる異本2種で、それぞれ「喬桐水使公輓祭録」と「節度公両世実録」に載っていたという。財団側はこの史料が「朝鮮時代の捜討官と張漢相の業績に対して疑問を示す」日本の学界の一部の主張に反ばくする根拠になると明らかにした。

 また財団は25日に、江原道三陟(サムチョク)地域の江陵金氏監察公派の宗家「恒吉古宅」に代々伝えられた日記史料を寄贈されることを明らかにした。全部で13冊118本と推定されるこの日記は、19世紀まで2年に1回ずつ、鬱陵島に捜討官が定期的に派遣されたことを示す重要な民間記録に挙げられる。

 東北アジア歴史財団のクァク・ジノ独島研究所長は「『恒吉古宅日記』に捜討活動が記されているという事実は知られているが、まだ史料が詳しく研究されていない。今回財団に寄贈された後にさらに踏み込んだ研究が可能になると期待している」と語った。

写真・北東アジア歴史財団提供

チェ・ウォンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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