3、朝鮮通信使が通った京都ゆかりの場所を訪ねました
淀の納所 京都市伏見区 淀納所
日朝協会京都府連は「通信使の通った道」をできるだけ忠実に通り、通信使一行が休憩したお寺にもたちより住職から古文書を見せていただきながら説明を聞いたことがありましたが、当時の絵画や屏風絵・書・古文書などが、各お寺に、大切に保管されています。その順序に沿ってご案内します。
江戸の通信使は大阪から淀川をのぼり、京都・淀の納所で下船し京都市内に徒歩で入りました。当時の巨椋池(おぐらいけ)は現在の淀競馬場周辺に広がり、桂川と宇治川と木津川の合流地点が、納所から美豆(みず)あたりまで含めて大変広くなっていました。 淀城はこの三川合流の複雑な地形を利用してその中に築城されていたのです。(移設前の旧淀城跡が納所にあります。)
現在の「桂川宮ノ前橋」を東に渡ったあたりに、大きな船着場がありました。現在「唐人雁木旧跡」の碑がたっています。本物の石碑は、近くのお寺に保管されています。唐人とは中国人のことをさしていましたが、外国人の意味や朝鮮人という意味もあります。 雁木とは石の階段状になった船着き場のことです。
旧国道一号線は淀川の一部を埋め立てて造ったもので、その両側の民家は一段高い場所に建てられており江戸時代の面影を残しています
唐人雁木跡
鳥羽 実相寺〒601-8172京都市南区上鳥羽鍋ヶ渕10-1 TEL075-691-9648
通信使は,淀で上陸した後,鳥羽街道を北上します。
途中,実相寺(南区上鳥羽鍋ヶ淵町)が休憩場所とされ
正使・副使・従事官の三使以下、衣冠を改めて入洛に備えました。
通信使が書き残した記録によると、この近辺は水田のほか、木綿や野菜の栽培も盛んで、特に水車の技術に関しては、その技術を持ち帰り、朝鮮の農場に取り入れたと言われています。
第十次の朝鮮通信使も實相寺に立ち寄っていることが確実になっています。 (つづく)
実相寺で、和尚さんの説明を聞く