1910年(8月22日)の韓国「併合」
同年8月22日、韓国「併合」条約 「韓国併合ニ関スル条約」が調印され、韓国は消滅、日本の完全な植民地となりました。「併合条約」と言われるゆえんです。
ここに、1907年の第3次日韓協約以後、1945(昭和20)年8月15日終戦までの38年間のいわゆる「日帝【日本帝国主義=対外的には、国家 が領土や勢力範囲拡大を目指し他民族や他国家を侵略・抑圧し、国内的には、資本主義が高度に発達し生産の集積と独占体がつくり出され、資本輸出が盛んになった段階をいう】(1910年以降満35年間)」と呼ばれる朝鮮・韓国植民地支配が続くこととなりました。
朝鮮王の抵抗は最後まで続き、協定書には正式な王印もない
ところが、このやり方が、法律要件を満たしているので有効だという議論がありますが、 実態はこの条約を締結するのに政治の実権を握り、警察・軍隊を解散させ、日本軍隊まで動員して戒厳令を押しつけ、抵抗する人や抵抗運動を弾圧、殺害、どのような人権侵害・強権政治をしたのかが大問題で、その実態はまさに無法、不当な条約の押しつけだったのです。
また朝鮮王の抵抗は最後まで続き、協定書には正式な王印もなく当時の外交文書として正式な形態を整えていないものとして現在その書類が残っているのです。
日本政府は、「併合」後、天皇に直属し、軍事・行政のすべてを統轄する朝鮮統治機関としてソウル(京城)に1910年10月1日朝鮮総督府を開設しました。
3、「抵抗運動」は地域的・全国的に繰り広げられました。
こうした屈辱的な条約締結に対して韓国人民は激しく怒り、ソウルでは抗議集会が開かれたほか、韓国の各地で抗日義兵(反日の武装闘争。朝鮮では国家の危機に際して自発的に立ち上がった人々を義兵【ぎへい=正義のために起こす兵】と呼んだ)の闘いが高揚、同時に、条約の無効を叫んで自決する高官が続出しました。
日本軍は弾圧のため強力な軍隊を各地に派遣しましたが、その結果1908~1910 (明治43)年までの3年間に約1万7,000人以上を殺害し、約2,100人を処刑したのです。
1910年以降「併合」韓国は、日本の戦争政策の最前線に立たされることになりました。第1次世界大戦へと進みましたがここではその年代的な関係だけ見てください。第一次1914~1919・二次世界大戦 41~1945年を参考に後ろの年表を見てください。
このような状況の中で、1917年ロシア革命など世界の動きと深く関わって歴史は展開していました。
1919年3月1日ソウル朝鮮独立宣言「独立万歳」の戦いが組織されます。
朝鮮の3月1日、3・1記念日といい、朝鮮民衆の抵抗が広がり、今のソウルで「朝鮮独立宣言」文が読み上げられ「独立万歳」の声が、全土に広がりました。これに対し、日本帝国軍隊と警察は、多数の民衆を逮捕・拷問・虐殺し、8000人の命を奪ったのでした。
1919年5 月4日、中国でも五・四運動 北京の学生が日本の中国侵略に抗議して行ったデモに端を発した中国民衆の愛国運動。日本の対中国侵略政策と、それに対する中国民衆の抗議でした。
1919年 6月28日 - ヴェルサイユ条約調印。第一次世界大戦終結しました。1920年 1月10日 - ヴェルサイユ条約発効。 国際連盟発足。
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