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宗教者も各地で立ち上がっています。私の子や孫に『おじいちゃ ん、何もやらなかったの』と言われないよう

2015-07-03 | 戦争反対・戦争法廃止

戦争法案「黙っていられない」

宗教者も法衣姿で国会抗議

 

 

写真

(写真)戦争法案反対を訴える宗教者=2日、国会前

 「宗教者も、もう黙っていられない」―。安倍自公政権が推し進める憲法違反の「戦争法案」へ連日、抗議の声が上がる国会前に2日夜、「総がかり行動」と連帯し、法衣(ほうえ)姿の仏教者やキリスト教の牧師らが宗教宗派を超えて駆けつけ、法案反対の意思を示しました。

 浄土真宗本願寺派法善寺前住職の山崎龍明氏(仏教タイムス社長)は、「“殺すな、殺させるな、殺しを認めるな”。これが仏教者の根本的な精神。こ れを理想ではなく、現実化するために歩んでいる者として、安倍さんのすべてが認められない。宗教者も各地で立ち上がっています。私の子や孫に『おじいちゃ ん、あのとき、何もやらなかったの』と言われないよう立ち上がり、廃案に追い込みたい」と訴えました。

 山崎氏や、本山修験宗管長・聖護院門跡門主の宮城泰年氏ら7氏が呼びかけ人になり、6月28日、「もう黙ってはいられない 戦争法案に反対する宗教者の会」を結成しました。

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「報道機関だけでなく、県民をも侮辱するもので看過できない」と批判している。

2015-07-03 | 琉球新報より

 自民報道圧力、県議会が抗議決議 「県民を侮辱、看過できず」 首相宛て

2015年7月3日

  自民報道圧力問題で県議会6月定例会は2日の本会議で、与党が提案した報道機関への言論圧力と県民侮辱の発言に抗議する決議を賛成多数で可決した。決議で は同問題について「報道機関だけでなく、県民をも侮辱するもので看過できない」と批判している。宛先は安倍晋三自民党総裁。野党自民党は党内の勉強会での 発言が不穏当だとして発言者に反省を求める決議を提出したが、賛成少数で否決された。


 

百田氏発言をめぐる琉球新報・沖縄タイムス共同抗議声明

2015年6月26日 21:50 

 

 

 

   百田尚樹氏の「沖縄の2つの新聞はつぶさないといけない」という発言は、政権の意に沿わない報道は許さないという”言論弾圧”の発想そのものであり、民主主義の根幹である表現の自由、報道の自由を否定する暴論にほかならない。 

   百田氏の発言は自由だが、政権与党である自民党の国会議員が党本部で開いた会合の席上であり、むしろ出席した議員側が沖縄の地元紙への批判を展開し、百田氏の発言を引き出している。その経緯も含め、看過できるものではない。

   さらに「(米軍普天間飛行場は)もともと田んぼの中にあった。基地の周りに行けば商売になるということで人が住みだした」とも述べた。戦前の宜野湾村役場 は現在の滑走路近くにあり、琉球王国以来、地域の中心地だった。沖縄の基地問題をめぐる最たる誤解が自民党内で振りまかれたことは重大だ。その訂正も求め たい。

    戦後、沖縄の新聞は戦争に加担した新聞人の反省から出発した。戦争につながるような報道は二度としないという考えが、報道姿勢のベースにある。政府に批判的な報道は、権力監視の役割を担うメディアにとって当然であり、批判的な報道ができる社会こそが健全だと考える。にもかかわらず、批判的だか らつぶすべきだ―という短絡的な発想は極めて危険であり、沖縄の2つの新聞に限らず、いずれ全国のマスコミに向けられる恐れのある危険きわまりないものだ と思う。

    沖縄タイムス・琉球新報は、今後も言論の自由、表現の自由を弾圧するかのような動きには断固として反対する。

 琉球新報編集局長・潮平芳和
 沖縄タイムス編集局長・武富和彦


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連載 17 この本国寺は、昭和46年には、山科区御陵大岩の現在地に堂舎を移しています。

2015-07-03 | 「私がお話し」します。

 

定宿「本国寺」堀川五条 下京区堀川通五条下る柿本町

 

 現在この場所に本国寺はなく、大きな石碑がたっています。         

寛永13(1636)年以降,通信使は,享保4年(1719)の本能寺宿泊を除けば,すべて本国(圀)寺を宿舎として京都に滞在しています。          

宿館であった本国寺は,当代の文化人にとっては格好の交流の場であり、寛永14(1637)年に通信使が江戸からの帰りに立ち寄った際、漢詩人の石

川丈山(いしかわじょうざん、藤原惺窩門人)が当寺を訪れ、一行の書記であるウォン・シク、号菊軒と筆談や詩文の応酬を行ってい

ます。

 この本国寺は、昭和46年には、山科区御陵大岩の現在地に堂舎を移しています。


相国寺 京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺 門前町701       

 「相国」とは国をたすける、治めるという意味です。            

中国からきた名称ですが日本でも左大臣の位を相国と呼んでいました。    

中国の開封市に大相国寺という中国における五山制度の始まりのお寺がありました。この大相国寺の寺号を頂いて「相国寺」と名付けられたのです。      

中国、開封市の「大相国寺」は現在も存在しており、相国寺とは友好寺院の締結をしています。

両寺院には友好の碑があります。(管長は有馬頼底氏です)


大徳寺 京都市北区紫野大徳寺町53

 近世の大徳寺には朝鮮国の外交使節団が4度滞在しています。

 最初は天正18年(1590)のことです。(江戸以前です。)この時、朝鮮・中国へ侵略を準備していた豊臣秀吉 は朝鮮国王の朝貢入洛を求めた。

これに対して対馬島主らが「秀吉の天下統一祝賀」に名目をすり替えて使節団派遣を朝鮮側に依頼し、実現にこぎつけた。

 一行 約300名は同年7月21日に大徳寺入りし、総見院などに宿泊した。やがて秀吉の命令で文禄・慶長の役が始まる。

  慶長12年(1607)、戦後初めての朝鮮使節団約500名が当寺に宿泊した。徳川家康の国書に対する朝鮮国王の回答国書を携行し、あわせて戦

中の民間 被虜人を連れ帰ることが目的だった。

通信使の正使らは天瑞院、その他の随員は総見院、真珠院、護衛の対馬藩主や五山僧は興臨庵、聚光院、大仙院などで宿泊した。

 

 3度目は元和3年(1617)、4度目は寛永元年(1624)で、宿館には連行されて京都近辺で日本の主人に仕えていた被虜人が訪れ、帰国を促した通

信使の随員たちから家郷の消息を聞いて働哭する場面もあった。


本能寺   京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522 

享保4年(1719)、徳川吉宗の八代将軍を祝賀する目的で、江戸時代に入って9度目の朝鮮使節(通信使)475名が来日した。

このうち大坂どまりとなった129名を除く346名が護衛の対馬藩主などと共に同年9月12日に鳥羽実相寺を経て入洛、本寺に一夜宿泊した。

京都所司代の松平忠周らが挨拶に来て、将軍の命による饗宴の席が設けられた。このとき通信使の随員であった製述官が著した見聞記『海游録』で

は 本能寺のことを「壮麗なことは比すべきものがない」と述べている。江戸からの帰路もまた11月1日より3日まで本寺に滞在した。

 また護衛役の対馬藩主宗氏の一行やその他の護衛の日本人たちは本寺の周辺の寺院や民家に分宿した。(続く)

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