定宿「本国寺」堀川五条 下京区堀川通五条下る柿本町
現在この場所に本国寺はなく、大きな石碑がたっています。
寛永13(1636)年以降,通信使は,享保4年(1719)の本能寺宿泊を除けば,すべて本国(圀)寺を宿舎として京都に滞在しています。
宿館であった本国寺は,当代の文化人にとっては格好の交流の場であり、寛永14(1637)年に通信使が江戸からの帰りに立ち寄った際、漢詩人の石
川丈山(いしかわじょうざん、藤原惺窩門人)が当寺を訪れ、一行の書記であるウォン・シク、号菊軒と筆談や詩文の応酬を行ってい
ます。
この本国寺は、昭和46年には、山科区御陵大岩の現在地に堂舎を移しています。
相国寺 京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺 門前町701
「相国」とは国をたすける、治めるという意味です。
中国からきた名称ですが日本でも左大臣の位を相国と呼んでいました。
中国の開封市に大相国寺という中国における五山制度の始まりのお寺がありました。この大相国寺の寺号を頂いて「相国寺」と名付けられたのです。
中国、開封市の「大相国寺」は現在も存在しており、相国寺とは友好寺院の締結をしています。
両寺院には友好の碑があります。(管長は有馬頼底氏です)
大徳寺 京都市北区紫野大徳寺町53
近世の大徳寺には朝鮮国の外交使節団が4度滞在しています。
最初は天正18年(1590)のことです。(江戸以前です。)この時、朝鮮・中国へ侵略を準備していた豊臣秀吉 は朝鮮国王の朝貢入洛を求めた。
これに対して対馬島主らが「秀吉の天下統一祝賀」に名目をすり替えて使節団派遣を朝鮮側に依頼し、実現にこぎつけた。
一行 約300名は同年7月21日に大徳寺入りし、総見院などに宿泊した。やがて秀吉の命令で文禄・慶長の役が始まる。
慶長12年(1607)、戦後初めての朝鮮使節団約500名が当寺に宿泊した。徳川家康の国書に対する朝鮮国王の回答国書を携行し、あわせて戦
中の民間 被虜人を連れ帰ることが目的だった。
通信使の正使らは天瑞院、その他の随員は総見院、真珠院、護衛の対馬藩主や五山僧は興臨庵、聚光院、大仙院などで宿泊した。
3度目は元和3年(1617)、4度目は寛永元年(1624)で、宿館には連行されて京都近辺で日本の主人に仕えていた被虜人が訪れ、帰国を促した通
信使の随員たちから家郷の消息を聞いて働哭する場面もあった。
本能寺 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
享保4年(1719)、徳川吉宗の八代将軍を祝賀する目的で、江戸時代に入って9度目の朝鮮使節(通信使)475名が来日した。
このうち大坂どまりとなった129名を除く346名が護衛の対馬藩主などと共に同年9月12日に鳥羽実相寺を経て入洛、本寺に一夜宿泊した。
京都所司代の松平忠周らが挨拶に来て、将軍の命による饗宴の席が設けられた。このとき通信使の随員であった製述官が著した見聞記『海游録』で
は 本能寺のことを「壮麗なことは比すべきものがない」と述べている。江戸からの帰路もまた11月1日より3日まで本寺に滞在した。
また護衛役の対馬藩主宗氏の一行やその他の護衛の日本人たちは本寺の周辺の寺院や民家に分宿した。(続く)
