柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

自然

2019-09-22 10:49:16 | Weblog
東電旧経営陣強制起訴裁判、承前。しつこくてすみません。天声人語、サンデーモーニングで採り上げられていて、私も改めて気づいたことがあってまた書いてます。一番怒っているのあの原発事故で入院先からの退去(避難、転院)を余儀なくされ、その途中であるいは転院して間もなく死亡した人の遺族です。その人は生きてます(もちろん)、今も避難生活しているのかどうかは知りません。故郷を追われて知らぬ慣れぬ地での生活を強いられている人はまだ多いのでしょう、その人たちも原告に加わっていましょう。でも、TVがマイク向けるのは遺族たちです。あの強制避難がなければ死んでなかった。そこにいた医者や関係者も「そうだったろう」と肯定します。東電以外に原因はないじゃないか、と叫んでます。ううむ。そこに原発があって果たして事故が起こって放射線が漏れて放射線被害やその後の停電断水による悪影響とここから動かす(転院させる)危険とを秤にかけての決定だったとの因果環境はその通りで、事故がなく動かさないであのままでいたら死んでなかっただろうという推測は立っても、あの時は大事故が起こったのです、その後の決定に皆従ったのです、あの選択が正しかったのです。そこに立たねば話ができぬことでしょう。誰も言いませんが例えばあの時の菅さんや枝野さんの避難命令に誰も従わなかったとして、放射線被害がどれだけのものだったか、です。人がそこから逃げなかったらそれなりの日常は維持されていたでしょうし、福島原発が動かなくなったからと言って北海道の時のように一斉停電にはならなかったんじゃないですかね。でも皆逃げた。命令ですからね。あの命令が必要だったのか(正しかったのか)どうかには誰も言及しませんよね。強制避難させられた者の身にもなれ!という同調圧力は甚大です。原発は安全だと信じていたのはそうでしょうが、そこには想定内外の反論がある。15m津波の警告を恣意に受けなかったという非難にも、あれだけの大津波にただ高さだけを満たした壁が役に立ったかどうかは甚だ疑わしいという反論がある。もっと低い、その分基礎が頑丈でしょう、防潮堤がどこかの港で根こそぎ倒されてましたよね、役に立たなかった。でも建ててなかったことが事実ですからそこを責める。どこまでも仮定の話。それを天声人語は書いてますが、論点をすり替えます、鈍感だったと。危険認識に鈍感だったと。ふうむ、結果的に遡ればそうでしょうが、どれも後出しじゃんけんです。弁護側の弁護士が斜に構えて嘆いて見せてました、絶対的な安全性まで求められていないなんておかしいというくだり、天声人語が「事故前の法規制は、絶対的安全の確保を前提としていなかった」との判決理由を教えてくれてます。自然現象に絶対的な安全なんてない。そう読むのが常識的な判断でしょうし、それは誰もが身をもって受け入れていることでしょうに。大地震大津波は自然現象ですわ。東電の所為じゃないです。だから予見可能性という争点なのですが、備えくらいしておけ、それがたとえ役に立たなかったとしても、という感情論になってます。そして天声人語が言う如き鈍感敏感論。引きます、「当局も専門家も電力会社も、原子力業界全体が安全に鈍感だったので、3人だけを責められない。そんな理屈で責任者を消してしまう手際は手品のようだ」。誰かを悪者に仕立てて謝罪させて留飲を降ろす、世間はそれを求めるので、どんな些細な事故事件でも早々に組織の長がカメラとマイクの前で頭を下げるマニュアルです。それが危機管理だと。正義の味方のマスコミは謝るまで叩きに叩く。謝ればさっと引く、被害者感情などどうあれ。謝罪の場や裁判の報道は過剰に煽るくせに、その後は知らん顔するのみ。被害者弱者に寄り添う振りをして、行政や企業を叩くだけ。サンモ二のコメンテーターたちの言もそこから外れません。言うだけなら楽なことで。自然畏るべし。ここをもっと強調すべきでしょう。違いましょうか。
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