拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

「シンデレラマン」「ミリオンダラーベイベー」「あしたのジョー」

2024-05-21 13:10:12 | 映画

共に、公開後20年くらい経つが、「シンデレラマン」と「ミリオンダラーベイベー」は見てこなかった。タイトルの一部の「シンデレラ」と「ベイビー」がなんだか子どもっぽく感じられたからかもしれない。このほど、動画配信が奨めてきたので見たら、あらま、どちらも大変な名作、感動作であった。以下、それぞれの主人公の似てるところと違うところをまとめてみた。ついでに「あしたのジョー」のことも書いてみた。

【似てるとこ】
・主人公がボクサーであること
・主人公がアイルランド系であること
・勝ち続けるまでは貧乏だったこと
・どんどん勝っていってクライマックスでタイトル戦に挑むこと
・タイトル戦の相手がとんでもないクズであったこと(なお、シンデレラマンの実際の対戦相手はいい人だったそうである。映画でクズに描かれてしまってご家族はお気の毒である)
・良いコーチ又はマネージャーに恵まれたこと

【違うとこ】
・一方は実話で他方はフィクションであること
・一方は男性ボクサーで他方は女性ボクサーであること
・一方はタイトルを獲得し他方は獲得しなかったこと
・一方は家族愛に恵まれ他方は恵まれなかったこと
・一方は充実した後半生を過ごし他方は安楽死を迎えること
・一方はアカデミー賞を獲らなかったが他方は獲ったこと

【あしたのジョーとの比較】
これら二作同様、「あしたのジョー」もボクシングを通じてどん底からはい上がる話である。丹下段平というコーチに出会ったことも、クライマックスで強敵とのタイトルマッチを迎える点も同じである。その試合の相手(ホセ・メンドーサ)が紳士である点はどちらとも異なる。タイトルを取り損なう点は「シンデレラ」とは異なり「ベイビー」と同じ。問題はその後である。矢吹ジョーがメンドーサとの試合直後に死んだかどうかについては説が分かれる。死んだんなら「ベイビー」同様悲劇の結末であるが、死ななかったのであれば、パンチドランカーの症状が現れていたから生活に支障が生じたとしても白木葉子がサポートしただろうからまあまあ胸をなで下ろせる結末である。事実、原作の梶原一騎が作画のちばてつやに伝えたラストシーンは「白木邸で静かに余生を送るジョーと、それを見守る葉子の姿」だったそうだ(ウィキペディア)。それを、ちばてつやが「まっしろに燃え尽きた矢吹ジョーの姿」に変えたそうだ。もし、原作者の原案通りに世に出てたら梶原一騎原作としては異例である。梶原作品の終わり方はたいがい身も蓋もないものだから。

【おまけ】
・体を張ったヒロインがアカデミー賞の主演女優賞をとった点は「哀れなるものたち」と同じ(ただし、体の張り方が違うが)。
・シンデレラマン一家の生活困窮ぶりを見てしまったら、もう「私は貧乏」などと言えない。
・「シンデレラ」の正しい発音は「シンダーエラ」である。そういう名称の女性アイドルグループがあるそうである(今、確認のためにググったら出てきた)。
・同様の映画に「ロッキー」があって、こっちは公開時に見た。と言っても、タイトル戦が終わって、勝って「エイドリアン」と叫んだのか負けて叫んだのかは覚えてない。よく覚えてるのは、牛肉を保存する冷凍庫の中でトレーニングしていて、その冷凍庫の所有者である友達がその場で牛肉を分厚くカットして「喰え」と言ったこと。ああ、私も、牛肉切取放題の環境で赤ワインを飲みたい、と強く願ったものである。
・「比較」と言えば、葉っぱや花による似た植物の比較(ネットでググると出てくる)は大変役に立つ。他方、当ブログの今回の比較は(いつもと同様)なんの役にも立たないことはよく承知している。世間様に対して大変お気の毒である。


加持祈祷

2024-05-21 08:26:40 | 歴史

漱石の「明暗」の主人公は病気で入院したのだが、病名は伏せられている。記述された手術の内容、さらに病気の概要として「楽な病気」「大した病気でもない」「下らない病気」等々の記述から「Ji」?と推測した。だが、ひっかかる点がある。「医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいい」との記述である。「自分の病気」が「Ji」だとすると、「医者の専門」=「婦人が近づかない方がいい」とはなんだろう?真っ先に頭に浮かんだのが性病。だが、性病の専門医が「Ji」の手術をするのだろうか?調査開始。調査終了。推測は当たり。漱石自身「Ji」を患っていて(物書きの職業病?)、手術を受けたのは神田錦町にあった佐藤診療所で、佐藤医師の専門は性病であった。小説はそれを土台にしたものであった。佐藤医師は、漱石の主治医であった胃腸病の医師の友人だったことから、漱石の「Ji」の治療をすることになったそうである。

ところで、その治療の様子は素人目には現在の外科手術とさほど変わらない感じがする。漱石が生きたのは(主に)明治。その頃、既に、日本で西洋医学が浸透していた、ということか。

源氏物語では、病気になったら「加持祈祷」である。当時は「光る君へ」の時代=平安時代=今から千年前である。すると、加持祈祷から西洋医学への転換は、この千年の間に生じたこととなる。ウィキペディアには、「日本では1543年の鉄砲伝来以降に西洋医学も伝えられ」とある。なるほど、戦国末期に伝わった西洋医学が江戸時代の250年を通して広まっていった、とガッテンした。

だが、「西洋医学」と言っても、日本で加持祈祷が行われていたとき、西洋ではどうだったのだろう?ウィキペディアには、西洋医学の芽生えはギリシャ時代のヒポクラテスに遡るが、中世においてはまじない的な治療が行われていたとある。なんだ、日本の加持祈祷と同じじゃんけ。せっかくのヒポクラテスもかたなしである。

因んだ話その1。最近の「光る君へ」の放送回で、都の人々が貴族も含めて流行病でばたばた死んだ。西洋でも、中世にペストが大流行した。ボッカチオの「デカメロン」は、ペストから逃れるため郊外に疎開した貴族達が暇に任せて「お話の会」を開いた際に語られた話、という設定である。貴族のご婦人も実は下ネタがお好きだということがこれを読むと分かる。

その2。「(明治時代の)治療の様子は素人目には現在の外科手術とさほど変わらない感じがする」と書いたが、違うなー、と思ったのは、病室に畳が敷かれていて、そこに入るとき襖を開けることである。このことを書きたかったことが、今回の記事執筆の最大の動機である。

その3。学生の頃、聴いていた深夜ラジオ放送のパーソナリティが「Ji」の手術の体験談を語っていて、最初、病室にエロ本が置いてある意味が分からなかったが、術後、麻酔が切れたとき思わず読んだ、そのとき置いてあった意味が分かったと言っていた。

その4。キャンディーズ解散後にランちゃんが芸能界に復帰したのは映画「ヒポクラテスたち」においてである。このニュースを聞いた際は、え?ランちゃん、全然知らない若い監督の映画で復帰するんだー、と思った。その監督こそは大森一樹であり、後にゴジラ映画で随分楽しませていただいた。ランちゃんが復帰する映画の監督であったということ、大森監督が医大出身であるということ知ったのはたった今である。