2月24日
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
先週予告した河合祥一郎訳のシェイクスピア作品について書きます。
シェイクスピア作品の翻訳は、新潮文庫の福田恒存訳(「ロミオとジュリエット」だけは、中野好夫訳)、白水社の小田島雄志訳、ちくま文庫の松岡和子訳、岩波文庫の野島秀勝(他)訳、光文社文庫の安西徹雄訳、角川文庫の河合祥一郎訳などが、現在入手しやすいものです。この中で、もっとも若い訳者は河合祥一郎さんで、なんと1960年生まれ。ほかの訳者たちの、孫か子どもといっていい年齢です。現在、河合さんの訳は、「ハムレット」「ヴェニスの商人」「ロミオとジュリエット」「リチャード三世」の4作品が出ていますが、どれも一読「すばらしい!」と感じる清新な訳文で、できれば、もっと間を空けずに出版されて、河合訳で主要作品を読み直したいと思わずにいられません。今日は、「ロミオとジュリエット」の一節を例に、河合訳がいかにすぐれているかを見てみたいと思います。
ほかの外国作家の作品でもそうですが、たとえば愛情のやりとりの場面や、怒り、悲しみ、憎しみを登場人物が独白する場面などでは、翻訳文でもそれほど「ここはよくわからないな」と思うことは少ない、と思います。おそらく、このような緊張状態になると、人間普遍の心理がはたらき、その内面を描いた言葉には国境も時代もないからだと思います(それがなにより古典となって残る理由でしょう)。しかし、逆に、「笑い」の場面はどうかというと、翻訳でこれを活かすのは至難でしょう。小説でも戯曲でも、「笑い」の場面ほど時代の制約や国の制約を受ける部分もないでしょう。ドストエフスキーがジョークとして書いているところをうまく訳せている訳者がどれくらいいることか。小説でさえ、「笑い」を訳すのはむずかしいのですから、戯曲ではなおさらでしょう。
しかし、特にシェイクスピア作品は、ジョークの部分がわかっているほうが、なお作品を深く感じられます(と、私は思います)。シェイクスピアのなによりすごいところは、下は「きんたま」の話からはじまって、最後は形而上的な苦悩に達したり、無上の純愛にまで達したりといった人間心理の振幅の大きさをそのまま描いていることにあります。どこかの国の純愛もの(?)のように登場人物が下品でかっこ悪いセリフはひと言もしゃべらず、「君と別れてからもずっと君の事を考えていたよ」などという嘘ばかりつく(あるいは自分の嘘に気づかない低能ばかりが登場する)、「しぼんだきんたま」みたいな作品たちとはまさに正反対です。
「ロミオとジュリエット」から。ロミオがパーティで、ジュリエットにひと目ぼれし、友だちをほったらかしてジュリエットのところへ向かう。ということがあったその翌朝、ほったらかしにされたマキューシオとベンヴォーリオと、ロミオ(神父のところからの帰り)が出会う場面です。河合訳を除いてもっとも新しい松岡和子訳は、こうです。[マ)はマキューシオ、ロ)はロミオ]
マ) 置いてけぼり、置いてけぼりだ、身に覚えがないのか?
ロ) ごめん、マキューシオ、大事な用があったんだ。そういう場合は礼儀を欠くこともある。
マ) そういう大事なご用があると、使いすぎた腰が曲らなくなるもんな。
ロ) お辞儀ができないってか。
マ) 見事に的を射抜いたな。
ロ) うがった解釈のご開陳、痛み入ります。
マ) 俺は礼節の鑑だからな。
ロ) 礼節の華か。
マ) 当たり。
ロ) 花なら俺の靴の透かし模様になってるぞ。
マ) 言ったな! その調子、お前の靴がすり減るまで、俺の洒落についてこい。靴底がすりへっても、洒落はへらずに立派に残る。
ロ) 底が薄けりゃ減りもするさ、減らず口の底なしの薄ら馬鹿だな!
マ) おい、ベンヴォーリオ、助け舟たのむ。俺の知恵は気絶しそうだ。
最初の何行かは、マキューシオがロミオをひやかしているのがわかります。しかし、「俺は礼節の鑑だからな」のあたりから、やりとりはどうもよくわからなくなってきます。なぜ「礼節の鑑」を「礼節の華」と言い換えるのか。「花なら……」のひと言が「言ったな!」というリアクションをとらせるのはなぜか。ロミオの「底が薄けりゃ……」のセリフは、どこがベンヴォーリオに助けを求めるほどのすごい洒落なのか。おそらく原文と比較して講義を聴けば「なるほど」と思えるのでしょうが、それでは読書、あるいは観劇とはいえないでしょう。でも、まあ、ほかの訳者のものを読んだときも、これまでは、「まあ、こういう部分はわからなくてしかたないんだよな。あきらめよう」と思って、ほとんど飛ばしていたのです。ところが、河合訳だと、ぜんぜん違う。
マ) 抜け駆けして俺たちに一杯食わせたろうが。
ロ) ゆるせ、マキューシオ、とても大事な用事があって、ああいった場合、礼儀を欠くのは仕方がないんだ。
マ) するとなにか、そういうご用事があると、使いすぎた腰が曲がらなくなるのか。
ロ) お辞儀ができないと?
マ) どんぴしゃ、命中、一発やったろ。
ロ) ごていねいな説明をありがとう。
マ) いや、俺は礼儀にかけちゃ、絶倫だからね。
ロ) 本腰を入れて尽くす礼儀か。
マ) ああ。
ロ) 退屈な洒落は苦痛だな。この靴みたいに窮屈だ。
マ) うまいね。一丁、洒落合戦といこう。おまえの靴底が擦り切れるまでやれば、底がなくなっても残った洒落は底なしとくらァ。
ロ) そこそこの洒落で底なしとは、底抜けに粗忽(そこつ)だね。
マ) 助けてくれよ、 ベンンヴォーリオ、俺の頭じゃ追いつかない。
わかる。わかるのです。大笑いとはいかなくても、ちゃんと日本語のやりとりになっていて笑える。「礼儀」が「絶倫」だということで、話の中心は「やった、やらない」のところからぶれていないのが、これでわかるし、ロミオの洒落もわかります。これは、ほんの一例ですが、既刊4作品のすべてにこういうわかりやすい訳文が見られ、すっとします。おそらく、ここまでこなれた文になるまでの苦労は並大抵ではないはず。それが、一冊500円の文庫だなんて。せめて、1回単行本にしてほしいのですが……。「いまさらシェイクスピアなんて」といわずに、河合訳を読んでみてください。(近ごろ評価が落ちている「ハムレット」も、もう一度生き返るのではないか、というような訳文です)
最後に、上の場面の続きを写しておきます。では、また来週。
(略)
マ) どうだ、恋にうめくより、こっちのほうがずっといいだろう。ようやくいつもの話せるロミオに戻ってくれたな。頭の冴えも機嫌のよさも、もとどおりのロミオ君だ。くだらねえ色恋沙汰なんざ、大馬鹿野郎がぶらさげたてめぇの竿(さお)をおったてて、穴につっこんで隠そうとするようなもんさ。
べ) そこでもうやめとけ。
マ) 竿を出したのに、陰毛直前でやめろというのか。本望じゃねえな。
べ) さもなきゃ話が落ちすぎる。
マ) わかってねえなァ。切り上げようってとこだったんだ。話も種切れ、赤玉が出て打ち止めだ。
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
先週予告した河合祥一郎訳のシェイクスピア作品について書きます。
シェイクスピア作品の翻訳は、新潮文庫の福田恒存訳(「ロミオとジュリエット」だけは、中野好夫訳)、白水社の小田島雄志訳、ちくま文庫の松岡和子訳、岩波文庫の野島秀勝(他)訳、光文社文庫の安西徹雄訳、角川文庫の河合祥一郎訳などが、現在入手しやすいものです。この中で、もっとも若い訳者は河合祥一郎さんで、なんと1960年生まれ。ほかの訳者たちの、孫か子どもといっていい年齢です。現在、河合さんの訳は、「ハムレット」「ヴェニスの商人」「ロミオとジュリエット」「リチャード三世」の4作品が出ていますが、どれも一読「すばらしい!」と感じる清新な訳文で、できれば、もっと間を空けずに出版されて、河合訳で主要作品を読み直したいと思わずにいられません。今日は、「ロミオとジュリエット」の一節を例に、河合訳がいかにすぐれているかを見てみたいと思います。
ほかの外国作家の作品でもそうですが、たとえば愛情のやりとりの場面や、怒り、悲しみ、憎しみを登場人物が独白する場面などでは、翻訳文でもそれほど「ここはよくわからないな」と思うことは少ない、と思います。おそらく、このような緊張状態になると、人間普遍の心理がはたらき、その内面を描いた言葉には国境も時代もないからだと思います(それがなにより古典となって残る理由でしょう)。しかし、逆に、「笑い」の場面はどうかというと、翻訳でこれを活かすのは至難でしょう。小説でも戯曲でも、「笑い」の場面ほど時代の制約や国の制約を受ける部分もないでしょう。ドストエフスキーがジョークとして書いているところをうまく訳せている訳者がどれくらいいることか。小説でさえ、「笑い」を訳すのはむずかしいのですから、戯曲ではなおさらでしょう。
しかし、特にシェイクスピア作品は、ジョークの部分がわかっているほうが、なお作品を深く感じられます(と、私は思います)。シェイクスピアのなによりすごいところは、下は「きんたま」の話からはじまって、最後は形而上的な苦悩に達したり、無上の純愛にまで達したりといった人間心理の振幅の大きさをそのまま描いていることにあります。どこかの国の純愛もの(?)のように登場人物が下品でかっこ悪いセリフはひと言もしゃべらず、「君と別れてからもずっと君の事を考えていたよ」などという嘘ばかりつく(あるいは自分の嘘に気づかない低能ばかりが登場する)、「しぼんだきんたま」みたいな作品たちとはまさに正反対です。
「ロミオとジュリエット」から。ロミオがパーティで、ジュリエットにひと目ぼれし、友だちをほったらかしてジュリエットのところへ向かう。ということがあったその翌朝、ほったらかしにされたマキューシオとベンヴォーリオと、ロミオ(神父のところからの帰り)が出会う場面です。河合訳を除いてもっとも新しい松岡和子訳は、こうです。[マ)はマキューシオ、ロ)はロミオ]
マ) 置いてけぼり、置いてけぼりだ、身に覚えがないのか?
ロ) ごめん、マキューシオ、大事な用があったんだ。そういう場合は礼儀を欠くこともある。
マ) そういう大事なご用があると、使いすぎた腰が曲らなくなるもんな。
ロ) お辞儀ができないってか。
マ) 見事に的を射抜いたな。
ロ) うがった解釈のご開陳、痛み入ります。
マ) 俺は礼節の鑑だからな。
ロ) 礼節の華か。
マ) 当たり。
ロ) 花なら俺の靴の透かし模様になってるぞ。
マ) 言ったな! その調子、お前の靴がすり減るまで、俺の洒落についてこい。靴底がすりへっても、洒落はへらずに立派に残る。
ロ) 底が薄けりゃ減りもするさ、減らず口の底なしの薄ら馬鹿だな!
マ) おい、ベンヴォーリオ、助け舟たのむ。俺の知恵は気絶しそうだ。
最初の何行かは、マキューシオがロミオをひやかしているのがわかります。しかし、「俺は礼節の鑑だからな」のあたりから、やりとりはどうもよくわからなくなってきます。なぜ「礼節の鑑」を「礼節の華」と言い換えるのか。「花なら……」のひと言が「言ったな!」というリアクションをとらせるのはなぜか。ロミオの「底が薄けりゃ……」のセリフは、どこがベンヴォーリオに助けを求めるほどのすごい洒落なのか。おそらく原文と比較して講義を聴けば「なるほど」と思えるのでしょうが、それでは読書、あるいは観劇とはいえないでしょう。でも、まあ、ほかの訳者のものを読んだときも、これまでは、「まあ、こういう部分はわからなくてしかたないんだよな。あきらめよう」と思って、ほとんど飛ばしていたのです。ところが、河合訳だと、ぜんぜん違う。
マ) 抜け駆けして俺たちに一杯食わせたろうが。
ロ) ゆるせ、マキューシオ、とても大事な用事があって、ああいった場合、礼儀を欠くのは仕方がないんだ。
マ) するとなにか、そういうご用事があると、使いすぎた腰が曲がらなくなるのか。
ロ) お辞儀ができないと?
マ) どんぴしゃ、命中、一発やったろ。
ロ) ごていねいな説明をありがとう。
マ) いや、俺は礼儀にかけちゃ、絶倫だからね。
ロ) 本腰を入れて尽くす礼儀か。
マ) ああ。
ロ) 退屈な洒落は苦痛だな。この靴みたいに窮屈だ。
マ) うまいね。一丁、洒落合戦といこう。おまえの靴底が擦り切れるまでやれば、底がなくなっても残った洒落は底なしとくらァ。
ロ) そこそこの洒落で底なしとは、底抜けに粗忽(そこつ)だね。
マ) 助けてくれよ、 ベンンヴォーリオ、俺の頭じゃ追いつかない。
わかる。わかるのです。大笑いとはいかなくても、ちゃんと日本語のやりとりになっていて笑える。「礼儀」が「絶倫」だということで、話の中心は「やった、やらない」のところからぶれていないのが、これでわかるし、ロミオの洒落もわかります。これは、ほんの一例ですが、既刊4作品のすべてにこういうわかりやすい訳文が見られ、すっとします。おそらく、ここまでこなれた文になるまでの苦労は並大抵ではないはず。それが、一冊500円の文庫だなんて。せめて、1回単行本にしてほしいのですが……。「いまさらシェイクスピアなんて」といわずに、河合訳を読んでみてください。(近ごろ評価が落ちている「ハムレット」も、もう一度生き返るのではないか、というような訳文です)
最後に、上の場面の続きを写しておきます。では、また来週。
(略)
マ) どうだ、恋にうめくより、こっちのほうがずっといいだろう。ようやくいつもの話せるロミオに戻ってくれたな。頭の冴えも機嫌のよさも、もとどおりのロミオ君だ。くだらねえ色恋沙汰なんざ、大馬鹿野郎がぶらさげたてめぇの竿(さお)をおったてて、穴につっこんで隠そうとするようなもんさ。
べ) そこでもうやめとけ。
マ) 竿を出したのに、陰毛直前でやめろというのか。本望じゃねえな。
べ) さもなきゃ話が落ちすぎる。
マ) わかってねえなァ。切り上げようってとこだったんだ。話も種切れ、赤玉が出て打ち止めだ。