麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第106回)

2008-02-10 18:38:22 | Weblog
2月10日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

筑摩文庫から、ジョイス「ダブリンの人々」の新訳が出ました。
これで現行の訳は、新潮文庫、集英社の単行本(旧・福武文庫の改訳)、岩波文庫と、あわせて四つになりました。けっこう画期的なことだと思います。とりあえず最初の二つの短編を読みましたが、とてもいい訳です。まだ読んだことがない、という方は、この新訳で読むことをおすすめします。



このブログでは、書いたことに「少し説明が必要かも」と思いながら、そのままにしている場合がほとんどなのですが、先週書いたことについてちょっとだけ付け加えようかと思います。先週、「郵便配達~」のことを「モーセの十戒」のようだと書きました。なにか話が飛びすぎている、と思った方もいらっしゃるかもしれません。でも、適当に書いたわけではないのです。

まず、ご存知のように、「モーセの十戒」は、出エジプト記で、モーセが神から授けられた、ユダヤ人への戒めを刻んだ石板です。モーセは預言者であり、預言者とはその言葉通り「神の言葉を預かる者」です。旧約聖書に登場する預言者たちは、皆神の言葉を預かって、人々に告げ知らせます。それは、つまり詩人のことであり、文学の起源だといえます。

逆に言うと、神の息吹がかかったものにのみ、詩という言葉は適用され、文学と呼ばれるものになる。作者が自分の商売の宣伝のために書いたり、自分の頭の良さをみせびらかそうと巧みに作り上げたりするものは、知的娯楽用の玩具であり、文芸と呼ばれるものではあっても、文学ではありません。それが、私の考えです。

私は文芸には、まったく興味がありません。読む必要を感じません。ほんのわずかでも神の息吹を感じさせないもの、全ページにわたって「俺を見ろ。俺の頭の良さを見ろ。この洞察力の鋭さを見ろ」「俺を見ろ。俺の美しい、語いの豊富な、言い回し巧みな文章を見ろ」「私を見て。私は顔はブスだけど、こんなに頭はいいのよ」「見なさい。私はこんなにきれいだけど、頭もこんなによくて、才能もすごいの」、そんな声しか聞こえてこない作品など意味も何もない。それは、一般には古典として読まれているものにもたくさんありますが、結局書いているほうも、それを大事に読むほうも「知的に見られたい」「知的なものに触れていたい」と考えている、いつの時代にもいる「知的ええかっこしい」の人々であり、文学とは何の関係もありません。もちろん、これは広い意味で文学といっているので、映画にも音楽にもマンガにも文学はたくさんあるし、文芸に過ぎないものもたくさんあるでしょう。なんにしても、思い上がった不敬な心に預言は授けられはしません(といって、私はなんの宗教の信者でもありません)。

このような考えに基づいて、先週、あの一行を書きました。



きちんと寒いですね、今年は。日の当たらない部屋の中で遭難しそうです。

では、また来週。
コメント
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