麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第25回)

2006-07-23 00:52:12 | Weblog
7月22日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「短編」のところに載せるネタが、そろそろなくなりそうです。
新しいものを書いて、このブログで連載していこうかということも考えていますが、自分の性格からして(何度も、前に書いたものに手をくわえるので)、むずかしいかもしれません。いちおう、もちネタとしては、表紙が布張りのノートが12冊ありますが、このうち約半分は長編『風景をまきとる人』の下書きで使用済み。そうして残りの半分は、別の創作の下書き、日記、アフォリズム、読書感想文、手紙の下書きなどです。おそらく、そのなかの、なにかいちおうまとまっていて少しはおもしろいと思えたものを、順次載せていくことになると思います。いずれにしても、このブログには、自分の書いたものはすべてあげようと思っています。あまりおもしろくなければ、読み飛ばしてください。
 しかし、長編『風景をまきとる人』は、とりあえず最後まで読んでみてください。
 なんにしても、自分のなかにあるすべての要素を(ある部分についてはほんの少ししか入っていないとしても)入れて書いてみたものなので。

 またまた宣伝ですが、ぶんりき文庫『風景をまきとる人』(彩図社)は、全国どこの書店からも注文していただけます。また、『風景をまきとる人』で検索していただければ、ネット販売で扱ってくださっているサイトがすぐに出てきます。よかったら、お求めいただき、本の形で読んでもらえたら、うれしいです。

 カメラマンM氏、つまり宮島径氏とのコラボレーション展は、12月中旬に新宿で開くことに決まりました。詳細は、また秋になったらお知らせします。

では、また来週。
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ノートから

2006-07-23 00:50:26 | Weblog
 キリスト

 旧約聖書は、時代がダレて信仰が薄くなったときにスーパースターが現れて、「緊張せよ!」と言い、世直しが行われたこと、しかし、そのあとまた時代がダレて信仰が薄くなり、そのときスーパースターが……という繰り返しの物語だ。テーマはそれのみだ。
 イエスはこの繰り返しに決着をつけたという点からも、キリスト教的には「最後のスーパースター」である。つまり、彼の言いたかったことは、「いつも緊張していろ!」ということだ。人生のダレた時期、いや、一日のうちのダレた時間、それは、時代がダレているのと同じこと、だから自分のダレた心に鞭を打ち、一瞬ごと最後の審判の一秒前だと知って緊張していろ、と。……しかし、こんなことは普通の人間にはできない。はっきり言えば、そんな奴ウザったい。だから処刑された。つまり、イエスは、自分の言うとおり実践できるすぐれた人間だったために、民衆の嫉妬で殺された。
 それはまるきりソクラテスの死と同じだ。しかし、福音書の書き方はあいまいで、プラトンの書き方は理知的だ。そうして、より神秘的に祭り上げられるのは、あいまいな書き方をされたほうなのだ。



 ブッダ

 ゴータマもまた、一秒ごとの緊張を説く。しかし、彼のすごいところは、「もうすぐそのときが来るから」とスローガンを繰り返し、「まだわからないのか!」と吠えたりするのではなく、人間の習性をよくとらえ、一秒ごとに緊張するためにはどのように考え、どのように生活するのがいいのか、つまり一秒ごと緊張できる脳の状態を保つには、体をどう使うかとか、なにをどう見ていくとそこから世界の別の様相が引き出され、脳を刺激することができるかとか、そういう実用的な知恵を静かに説くことだ。
 大きく手を振り上げて、「OH! あなたの話を聞いて私は感動しました。いまから私の人生は変わります!」という、改心パフォーマンスをしたくてたまらないアメリカ人のような愚民(現代の日本人もほぼすべてそうだが)は、ブッダの教えには、そういう芝居がかったものを引き出せる要素が少ないので幻滅する。彼らには初めから世界をありのままに見ようとする気がない。彼らは、現実に、実はとても満足していて、この世の中に寸法が合っているので、「救われたい」と口にしながらも、初めから救われる気などないのだ。
 ブッダの実用的態度を受け継いでいるのは、ブレーズ・パスカルただひとりだ。
 しかし、パスカルは、熱血スポ根型天才であるために、キリストのドラマをどうしても欲してしまう。「パンセ」が、キリスト教を誰でも信じるようになれる本として、つまり「試験に出るキリスト教信仰」として完成されていたら、それはそれでいやらしい本になったかもしれない。
 私も世界にドラマなど見ない。運命などあるものかと思う。「東京のプリンスたち」の作者同様、人間は屁と同じ作用で生まれ、屁と同じに消えると思う。
 しかしいま、あえてドラマ仕立てに世界を見るなら、「パンセ」が完成されずにパスカルが死んだのは、神意かもしれないということもできる。
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