麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第142回)

2008-10-20 00:36:44 | Weblog
10月20日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。



エネルギーがなくなるということは、「私が生きているのは意味のあることである」というおとぎ話に、「物」たちを巻き込む力がなくなっていくということだと思います。まず、体の中では、抵抗力が低下して、これまでなんともなかった菌に体が負けていく。菌のほうで力が強くなったわけではなく、「私」を成り立たせようとする結束力が弱まって、「私」という形がすでに崩れ始めたわけです。

体の外でも、同じことが起こります。
あるじいさんが、ずっと住んでいる家の、玄関先で転び、家と同じだけ昔からずっとそこにある中くらいの石で頭を打って死ぬ。この石は、彼が子どものころは、そこに上ってひなたぼっこを楽しんだ石であり、親に怒られて家を出たときには、くやしまぎれに蹴りつけた石です。自転車に乗り始めたころは足を支える石であり、青年のころは、何人かの女といっしょに座って話をした石です。じいさんは、石のことをとりたてて考えたことなどありません。石は長い間、じいさんの「私が生きているのは意味のあることである」というおとぎ話の中の端役であり、じいさんの「道具」だったのです。

しかし、じいさんのエネルギーがなくなるにつれて、石は凶器となる準備を始めていました。石は「存在」し、その「存在」は、エネルギーのあるころのじいさんにとってはじいさんの「道具」だったのですが、もともとじいさんとは無関係の「存在」であり、じいさんがおとぎ話に組み込むだけの力を失ったとき、そこにある「見知らぬ存在」としての自分の真の姿を現したのです。転倒したじいさんの後頭部に対しては、じいさんのおとぎ話から見れば悪意となって。

たぶん、日本に昔からある、その土地土地の神社に祈るという習慣は、キリスト教のように「神に対して善か悪か」というような難しいこととは関係なく、「私というおとぎ話を成り立たせるエネルギーが枯れてきたときにも、あなたのおとぎ話の結束力の元に物たちを相変わらず『道具』として封じ込め、私たちに対して『存在』を主張しないようにお願いします」ということなのでしょう。もし、さっきのじいさんが、そうやって神社に祈り、身をゆだねていたら、じいさんが転倒したとき、石は後頭部から15センチ離れたところに相変わらずじいさんのおとぎ話の端役としてあるだけで、夕食の席で「年なんだから気をつけなよ」という娘の忠告とともに、笑い話の材料にさえなったかもしれません。

その別の結果が、神社の前で自分を謙虚にしたことで、おとぎ話を傲慢に信じきる自分に新鮮な気分をひき起こし、その結果、ころんだときに、どうころべば傷つかないかのとっさの判断力をもたらしたからなのか、あるいは、本当に土地の神が「私はこの土地の神である」というおとぎ話の「道具」として石を封じ込めてくれたからもたらされたのかは、誰にもわからないでしょうが。

先週、ギターを3時間弾いたあとに、ふいに浮かんできたのが以上のことです。

これは、ある意味むき出しの創作なのですが、本当の創作をする時間はないので、書いておきます。



「罪と罰」の新訳、出ました。いいですね。
マルメラードフの話と、母親の手紙ですでに泣いてしまいました。
「これでもか」という感じで、犯行にいたるシチュエーションを重ねていく。
付録の読書案内もなかなか興味深いです。



では、また来週。
コメント
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