麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第141回)

2008-10-12 23:04:44 | Weblog
10月12日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。



「遺伝子」が見つかったことで、昔よりはっきり人間をとらえられるようになった顕著な例は、哲学の世界で、古代からずっと「体と精神の対立」というような言い方をされていたものが、つまりは、「遺伝子と自分との対立」であるとわかったことでしょう。

とにかくどんなことをしてでも遺伝子は、自分の複製を残すチャンスを狙い、そのために自分が宿っている個体が死滅しないようにあらゆる手を尽くす。だから、どんな無能な人間も、なぜか自分には生きる意味があるように感じ、つねに前向きでいられる。また、女を追い求め、手に入れた後はむなしさしか残らないと経験でわかったあとも、またしてもそれを繰り返す。老人になってもちょっとしたことで同類との競争に勝つことで優位を感じずにはいられない。それが死の5分前であっても。

このようなことをさせるのはすべて遺伝子の企みであって、それを、「またやられた!」と思い、むなしさを感じるのが「自分」でしょう。遺伝子を満足させても、自分はぜんぜん満足できていない。

ソクラテスが、「精神」とか「心」といっているのは、こういうふうに見るときの「自分」のことであって(当然、ソクラテスが「体」「肉体」と呼ぶものこそいまで言えば「遺伝子」に他なりません)、「パイドン」で、死ねば精神が肉体を離れて自由になる、といっているのは、遺伝子の企みによって生まれる欲望とは切り離された「自分」になれるということであり、それが永遠の命を持つといっているわけです。それは、普通に「不死」という言葉で思い浮かべられる、遺伝子による欲望もすべて持ったまま、死後に、いまと同じように存在するということとはまったく別のことなのです。

もちろん、そんなもの、元々あるのかどうかわかりません。宮沢賢治が言うように、「自分」という現象は、「仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明」にすぎないのかも知れず、そうならば、電源が供給されなくなったとたん、自然消滅するに違いないからです。

おそらく、危険から身を守るために発生した自意識の過剰が「自分」なのでしょう。つまり、「自分」は、遺伝子による欲望と切り離しては存在しないものなのかもしれません。でも、だからといって、遺伝子の奴隷になる必要はありません。こうしてぐだぐだと生きていって、遺伝子からすれば、私という個体を維持させ、自分の複製を作るチャンスを狙いつつ、でも私はその目を盗んで、微々たる量の「自分」の満足のために生き、最終的には、次世代を残さないことで遺伝子の努力を徒労にしてやりたい。それが私の考えです。なぜそうしたいのかは、もはや説明するまでもないでしょう。

なんとなく、今日は、そんな自分の確認をしてみたくなったので書きました。

では、また来週。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする