prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「かぐや姫の物語」

2013年12月11日 | 映画
資本主義化する前の60年代中国で水墨画を動かす「牧笛」とかいった短編アニメが作られたが、そういった伝統的絵画技法をアニメに生かす試みを2時間15分にわたってやっているようなものだから、ふつう考えて資本主義ベースで作るようなものではないが、ちょっとあっけにとられるような成果をあげている。
伝統的な美術・絵画技法をアニメに応用するという以上にひとつのスタイルとして完成しているのだから驚く。

予告編で使われていた疾走するかぐやの姿は川本喜八郎の能を人形アニメに展開した歴史的アートアニメ「道成寺」を思わせる凄みがあった。一種の物狂いが出ていて、そのあと一本の草を能の狂い笹風に持っているあたりもすごい。
全カットが個人アニメのように規格化や平準化から最も遠く離れている。

序盤の赤ん坊から幼児、児童といったさまざまな段階の子供たちの姿を見せるあたり、画そのものとアニメートともに神技といっていい。よくこんなのを作ったもの。とにかく背後にある学識教養と熟考の厚みがただごとではない。

月からの使者というのが白い雲の上に乗った仏像とかの極楽のイメージなのだが、これが俗流の極楽図そのままに生気がなく迫力もない。かぐやが成長する野山と仲間の子供たちとは対立する死の世界、ということになるだろう。
製作が故人である氏家齊一郎の名を第一に立てている。普通に考えてペイするわけないので、あるいは昔の芸術のパトロンのようなありかたに近いかもしれない。

去っていくかぐやがちらっと振り返ると、原作の時代では想像もできなかっただろう外から見た地球の姿が見える。「今」の世界そのものと考えていいだろう。

原作では求婚者たちに意地悪・理不尽としか思えないかぐや姫の態度がきちんと納得できるように描かれている。
姫は御簾の中にいて求婚者たちは顔を見ることもできないという難しい設定を崩さないのは、時代考証的にそうだということ以上に姫がやってきた場、主に仲間の子供たちと遊んだ野山から引き離されている表現でもあるだろう。それでもたせる芝居というか描写の説得力。
野山で遊ぶ幼馴染の二人はまるっきりハイジとペーターという感じ。
(☆☆☆☆)

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