prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ビートルジュース ビートルジュース」

2024年10月10日 | 映画
リメイクには違いないのだが、メインスタッフキャストがほぼ一緒で、しかし技術的な進歩はむしろ目立たないようにしているという、かなり異例のリメイク。
変わったところといったら、みんな年取ったというところかなあ。





「憐れみの3章」

2024年10月08日 | 映画
三話のオムニバス形式なのだが、キャストがほぼ完全にだぶってそれぞれ別の役をやっており、役者たちの芸達者ぶりを見せるとともに役の交換可能性とでもいうべきことを示していたのではないかと思える。
というのも、ランティモスはマット・ディロンが地下鉄で時間をきいただけの女性と役割を文字通り交代させるという妙な内容の短編「NIMIC/ニミック 」を撮ったことがあるからで、「ロブスター」にせよ「聖なる鹿殺し」にせよ、人間の個性とか人間たらしめているものとかを無視して動物扱いしているように思える。

細かいところだけれど水のないプールに走って飛び込んで死ぬのをワンカットで撮っているのはどんなトリックなのだろう。底だけ柔らかい素材にするにしてもかなり高さあるし。





「吼えろ鉄拳」

2024年10月07日 | 映画
出だしでいきなり香港で真田広之が殺されるので、あれれと思ったらすぐ西部劇調の設定で双子の弟の役で再登場する。製作は後だが、「男たちの挽歌2」とか、ぬけぬけとご都合主義を通すあたり昔の香港映画みたいだなと思った

真田の主演第一作「百地三太夫」も、それに続くこの主演第二作でも海外から日本に帰ってくる役をやっているのは今になってみると予感的。当時からあらゆる分野にまたがる身体訓練を積んでいて世界に通用する準備はすでに積んでいたのだろう。

アブドーラ・ザ・ブッチャーがかなりの見せ場が割かれているあたり、比べるのも変だが「デビルマン」のボブ・サップのムダ遣いと同じ東映の劇場で公開されたのだろうなと想像すると妙な気分になる。

後半、身体を張ったアクションまたアクションの連打と、それに挟まるいかにも鈴木則文調のかなりシモがかった笑いのサービス精神はうれしい。
こういうの、今ないよなあ。




「忍者武芸帖 百地三太夫」

2024年10月06日 | 映画
1980年の真田広之の初主演作で、当時20歳。日大在学中。
この時点で体技のレベルが違うのがわかる。演技表現の方はときどき稚さというか可愛らしさがのぞくのはアイドルとして売り出す事情もあるのだろう。

大海原を小舟で櫂を漕いで渡ってくるのが初登場シーンで(真田はタイトルバックの主題歌も歌っている)、それまで中国で身を隠していたという設定なのだが、おそらく少し前公開されたジャッキー・チェンの「酔拳」1978などを受けて中国服でカンフーアクション調を印象づけるという作戦がうかがえる。

本格的な(本当に本格的な)アクションスターにして、明るく爽やかなアイドルイメージも付与しているのだけれど、お話と展開の方は結構流血描写もあって残酷味が強い。
それにしても、当時の新人スターの売り出しにこれだけの物量を投入したのだから、「柳生一族の陰謀」とその余波の余裕がかなりあったのだろう。

音楽担当は(イギリスのとは違う)バスターという謎のバンドで、どうも軽くて安っぽい。

天守閣からのダイブというのが売りなのだが、惜しいかな追いつめられるまでのタメが弱いし、後始末もあっけない。

森の中で木の高さを生かしたアクロバットの手の数々はアクション監督・千葉真一のカラーが強く出ているように思える。
ここでは悪役にまわって映画の中でもストレートに師弟関係をうかがわせる。
この記事によると、「百地三太夫」自体、千葉の企画で、プロデューサーの日下部五郎を説得するのに真田をサーカスに預けたという。




「犯罪都市 PUNISHMENT」

2024年10月05日 | 映画
フィリピンに韓国から連れていった若いIT技術者を監禁しリモートでカジノをさせるのだが、これを日本にあてはめると若者を外国に置いて金のある高齢者に電話をかけさせるということになるだろう。
実際に韓国であった犯罪の手口を取り入れたそうだが、日本の特殊詐欺みたいなのは韓国にはないのだろうか。息子のふりをして母親に金を出させるというのは母子の縁が濃いだろう韓国にはありそうだが。

マ・ドンソクのぶっとい腕から繰り出されるパンチに悪者たちが消し飛ぶのが愉快痛快。ドンソクがずんぐりした体型で、周囲の刑事より背が低いのが逆にバランスがとれている。

ドンソク扮するマ・ソクト刑事は飛行機のファーストクラスまで犯人を追っていくのだが、もとより敵が二人だから有利なのをナイフを空港のボディチェックで取り上げられているのを調理場で手に入れるという段取りにして、あたまから一方的な力関係にしないよう工夫している。

マ・ソクトはおよそデジタルという柄ではないが脇に女性刑事でデジタルに強いキャラクターを置いて、それも彩りという扱いではないのがこれまた行き届いたところ。





「あの人が消えた」

2024年10月04日 | 映画
ホラー調で始まり、一転して宅配便の配達員の仕事の描写に移るのだが、配達の仕事ぶりにしても先輩との日常的な会話にしても、なんだか細かいところにリアリティがないな、あんなに配達員が荷物を取りに出た家の事情に首を突っ込んで会話をかわすものかなと思っていたら、たちまちリアリティが乏しいなんて段階はすっとばして、こんにゃく問答にはなるわ、画面に写っていたものがなかったことにはなるわで、いささか当惑した。

終盤の展開はどんでん返し自体が自己目的化しているというか、よって立つ前提が逃げ水みたいに逃げていくみたいで、ライトノベルというのは全然読まないのだが、転生ものとか勇者ものというのが受けているのはリセットというかチャラにできる設定や展開に需要があるからなのかな。

染谷将太・菊地凛子夫妻が両方とも出てるので、これも何かのトリックかと思った。





「Cloud クラウド」

2024年10月03日 | 映画
米アカデミー賞の日本代表になったわけだが、この映画の後半をほぼ丸々占める銃撃戦は銃の本場アメリカから見るとどう映るだろう。
もちろんいくらアメリカが銃で作られた国だからといって、アメリカ映画の銃撃戦が“リアル”なわけがなく大いに誇張してあるわけだが、ここに集まってくるのは明らかにプロの犯罪者ではなく、素人に毛が生えた程度の、「映画で」銃を扱うのを見たことがあるレベルの連中に過ぎない。
当然、物量で押すわけにはいかず、銃も弾丸もかろうじて寄せ集めている感じ。
グリップに星が捺されていたのは、トカレフか。いかにも中古品です。

撃たれた人間が弾着で血が出るのは抑え気味にして、黒沢清作品ではおなじみの、パン、と撃たれて、操り人形の糸が切れたみたいにぐしゃっと崩れて死ぬのをもう少し押して何発も撃ってとどめを刺すのはこれまでに押しを加えたということだろう。

ライフルで撃たれたコンクリートの盾がぼろぼろと崩れるのは目立たないが見たことがない。

荒川良々が再登場するときにしばらく頭の後ろしか映らないのだが、誰だかすぐわかる。髪型に特徴があるとか物語上にそろそろ出てくると予感させるという以上に、直観的にわかる。

前半の荒れた家屋の窓の外がすでに「CURE キュア」を思わせる妙な色と光のトーンを出している。





2023年9月に読んだ本

2024年10月01日 | 
読んだ本の数:23
読んだページ数:5417
ナイス数:5

読了日:09月01日 著者:バージニア ウルフ




読了日:09月02日 著者:沖田×華




読了日:09月02日 著者:沖田×華




読了日:09月02日 著者:沖田×華




読了日:09月03日 著者:鮫肌 文殊




読了日:09月04日 著者:久坂部 羊




読了日:09月04日 著者:秋本治




読了日:09月05日 著者:安彦 良和




読了日:09月05日 著者:安彦 良和




読了日:09月07日 著者:水木 しげる




読了日:09月10日 著者:ティム・オブライエン




読了日:09月10日 著者:小梅 けいと




読了日:09月13日 著者:溝上憲文



読了日:09月15日 著者:細田 昌志




読了日:09月17日 著者:池上 彰,佐藤 優




読了日:09月19日 著者:小宮山 功一朗,小泉 悠




読了日:09月20日 著者:さいとう・たかをプロ

読了日:09月21日 著者:中島らも




読了日:09月23日 著者:水木しげる




読了日:09月23日 著者:伊藤 理佐




読了日:09月25日 著者:伊藤理佐




読了日:09月26日 著者:フォークナー




読了日:09月29日 著者:前野ウルド浩太郎





「不都合な記憶」

2024年09月30日 | 映画
回転する宇宙ステーションとやはり回転する轆轤(ろくろ)とをカットバックするオープニングで、これ外宇宙の大きさと閉鎖系の内宇宙との対照を表わしているのかなと思ったら、だいたい当たった。

保存されている記憶=記録から女を再現するという筋はちょっと「ソラリス」を思わせ、他にも映画の作り手がどこまで意識してそうしたのかわからないが、地上の場面がかなり交錯するところや、無重力状態の描写など、いろいろと通じるところがちらちらと混じる。
はっきり違うのは女の立場・視点から見ることも可能になったこと。

同じ人間がずらっと並ぶ合成画面があるけれど、微妙にカメラが揺れている。固定画面にした方が手間はかからなかったろうけれど、何気に手をかけているのがわかる。
いかにも目立つスペクタクルでなしに大セットを組むというのも、贅沢な話。

伊藤英明が「悪の教典」以来のサイコパスぶりでおよそ感情移入しずらいキャラクターだが、かといって対する新木優子はアイデンティティ(自己同一性)が土台存在しないものでどちらにも入り込みにくい。

あと、このステーションの扉ってずいぶん簡単に開くのね。力まかせに開けたら開いてしまう。





「罪の天使たち」

2024年09月30日 | 映画
1943年のロベール・ブレッソン第一回監督作品。実は「公共問題」1934がその前にあるのだが、破棄されたのか自分の作品と認めてないのか、とにかくこれが第一作とされている。

のちのブレッソン作品に比べるとかなり普通の映画だが、ラスト・カットが手錠がかけられる手のアップというのが示唆的。

修道女たちの衣装が白か黒かくっきり塗り分けられているのが、清冽。
荻昌弘が「テレーズ」の批評でこれを思わせると書いていた。




「拳銃魔」

2024年09月29日 | 映画
上映時間35分過ぎあたり、銀行強盗の前段階で自動車の後部座席のアングルから前をずうっと撮っていて、運転席の男が下りて銀行に入っていき、警官が近づいて助手席の女が応対し、非常ベルが鳴って男が出てきて、女が警官を殴り、二人とも車に乗り込んで逃走する、というところまでワンカットで収めたのには驚いた。
その間カメラが前後退するだけというシンプルなカメラワークで、すごく経済的な演出。
製作当時は一般的な技法だったろうスクリーン・プロセスを使っていない(他のシーンではいくらも使っている)。

少年時代の拳銃魔をやっているのがラス・タンブリン。
ノンクレジットだが脚本の大半を書いたのはダルトン・トランボだという。

サーカスの見世物の出演者として登場する女(ペギー・カミンズ )が銃を撃つのにぴったりシンクロして的が割れるのは当たり前なようだが一続きのワンカットの説得力を高めた。
乗馬ズボン姿がセクシーで、女の方が主導権とっているみたい。




「ぼくが生きてる、ふたつの世界」

2024年09月28日 | 映画
聴覚障碍者の両親を持つ健常者の子供が主役という点で「コーダ あいのうた」とそのオリジナル「エール!」とモチーフはつながるわけだが、「コーダ」のラストで主人公が歌の才能を評価されて故郷から都会へ旅立つのというはっきりした区切りがつくのとは対照的に、宮城から東京へこれといった才能も学歴も将来の見込みなしに出てきた後の描写が後半を占めている。

中盤で吉沢亮の主人公が都会に出ていくところをことさらに区切って描かず、気がついたらいつの間にか都会にいる描き方で、ガラケーとかVHS、テレビデオなどが置かれていることで一昔前の時代とわかる。平成7年と書かれた書類が写ったりする

パチンコ屋でバイトしているところで客の二人が大きな声でケンカしているのをまるで気がつかない(聞こえない)で玉を打っている太った中年のおばちゃんが聴覚障碍者とわかり(やっている河合祐三子も本物 )、これまた後でいつの間にか絡んでくるなど、場面と描写を上手く省略しながら描いている。

これまた後で役者志望だったらしいと描かれるのだが、吉沢亮だと何せ本物の役者なのだからそのまま役者になるのではないかと期待というか予想させてしまうかも。

肩のあたりに入れ墨を入れたでんでん扮する祖父がヤクザで、酔ってやたら大きな声を出す。
これもヤクザであることも障碍者同士の結婚に反対していたことも初めから割らずに順々後からわかるように描いている。

ラストでここまで描かれた二つの世界が一目で見渡せるようになってから
タイトルの文字列が「ぼくが生きてる」「ふたつの世界」と左右に割って置かれ、なるほどと思った。





「ジガルタンダ・ダブルX」

2024年09月27日 | 映画
オープニングの字幕で動物は殺してませんとか、麻薬はいけませんといった言わずもがなの文言が並ぶのをぼんやり眺めていたらすぐ差し迫った意味があるのがわかる。
つまり、森で象が大量に殺されて象牙を切り取られるわ、役人がマリファナ(ガンジャ)をぷかぷか吸って村人を拷問するわで、いささか刺激が強い。

森に棲む精霊(にしては穢いね)みたいな男とか、象の群れとかを結びつけるのはわかるが、クリント・イーストウッドそれもマカロニウェスタンの彼とか、インド映画の巨匠サタジット・レイといった名前が並ぶもので、一体どう結びつくのか三題噺みたいで見当がつかなかったが、三時間近い時間をかけたラストでだんだんピースが積み上がって、ああそういうことかと腑に落ちた。
手足を一杯に伸ばしておいてもへたれず、徐々に態勢を立てていくよう。

ラストの発想は期せずして「シサㇺ」のラストにだぶる。





「スオミの話をしよう」

2024年09月26日 | 映画
一応誘拐事件を扱っているのだが、誘拐されたスオミ=長澤まさみの安否を本気で案じる人が一人もいないというのはどんなものだろう。
それも集まったのは元夫たちでしょ。現夫が真っ先に気にすることはないなどと言い張り、元夫たちがぐずぐず言いながら引き下がるのがなんとも不自然で、何かあるなと思ったら案の定。こういうの、伏線回収っていうのですか。

三谷幸喜にそういうのを要求するのはヤボか知らないが、最初の方で「天国と地獄」ばりに警察?が変装して豪邸に入り込んで外から見えないようカーテンを閉めてみせたりするもので、ああいう本格的な誘拐劇のスリルとサスペンスは求めないにせよ、いかにもお芝居くさく、先行作品の意匠だけ借りましたという感じ。そういうものだと割り切って見るのならいざ知らず、いったん気になりだすと、どうもいけない。

初めから警察を絡ませないで作ると決めて、オープンリールの逆探知の機械にせよ活字を切り貼りする脅迫状にせよ、わざと古めかしい趣向にしてあるのだろう。

スオミというのはフィンランド人が自分たちのことを指す言葉らしいが(「ゴルゴ13」で読んだ覚えがある)、なんでそう言うのか、子供の時フィンランドで過ごしたからという理由づけ?があるらしく、ラストでもフィンランドの首都ヘルシンキがネオン文字で出たりするのだが、なぜなのかどうもよくわからない。

長澤まさみが元夫たちに応じていろいろな顔を見せるという趣向というより、文字通り同じ顔を見せるシーンが見せ場になっている。

一番面白いのは舞台、それからテレビで、映画となると映り過ぎてリアリティの隙間風が吹き込む。





「ぼくのお日さま」

2024年09月25日 | 映画
吃音の男の子が同学年(翌年中学に上がって制服になるから小学六年)の女の子に一目惚れするのだが、そのもどかしい気持ちを表すのにスケートで滑ってばかりいたのが滑れるようになるのと、女の子と距離的に接近するのを結びつけたのが絶妙。何か言おうのとしたところですぱっとカットアウトするのが文字通り切れ味がいい。
白ずくめの背景が清冽。

対する女の子が「月の光」をBGMにフィギュアスケートを華麗にスローモーションをはさんだりして、背丈でも気持ちの上でも見上げるような感じで描かれている。この年頃は女の方が大きい。

単純に子供と大人という対照だけでなく、成長と性徴とを微妙に絡ませたのがニュアンス豊か。

食卓のシーンの両親と二人の男の子の配置で、両親が左側に並んで座り、兄が右側に弟が奥にそれぞれ一人で座るというのは、かなり変。両親がテレビを見やすいようにそうなっているということか?

最近、スタンダードサイズ(1:1.33)の映画が増えたなと思った。これがそうだし「愛に乱暴」もそうだったと思う。スクリーンサイズも映画データに入れておいて欲しいところ。

音楽担当のハンバート、ハンバートってナボコフの「ロリータ」の主人公の名前じゃない。