prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「アルジェの戦い」

2009年07月28日 | 映画

セミ・ドキュメンタリータッチでアルジェリア独立闘争を描いた1966年の映画だが、帝国主義側の拷問も含む手段を選ばない弾圧と、一般市民を巻き添えにするのも辞さない手段を選ばないテロとの連鎖は、いやでも今日のイラク戦争ほかを思い起こさせる。

アルジェリアを舞台にしたフランスからの独立闘争を描いているが、喋っている言葉はイタリア語で、監督のジッロ・ポンテコルヴォ、撮影のマルチェロ・ガッティ、音楽のエンニオ・モリコーネなど主要スタッフはイタリア人。イタリアとアルジェリアとの今で言うコラボの成果だろうか。

ヨーロッパではあってもイギリスやフランスのような先発の帝国主義国の後塵を拝してきた立場を逆に利用したようで、反帝国主義闘争を全編、ネオリアリズムの流れを汲む驚くばかりのリアリズムで描き出す。
群集シーンのスケールと、不気味なくらい生々しい爆破シーンなど、今なお目を洗うよう。

取り締まり側のフランス軍トップにナチに対するレジスタンス体験のある軍人が就任する、というあたりが皮肉で、抵抗する側が相手が変わると弾圧する側にまわることがありありとわかる。
抵抗勢力も美化はされず、いたるところで子供がテロに利用されるかあるいは自分から協力するのが、なんともいえず痛ましい。

初めのうちの警官を襲って拳銃を奪うといった手口は「牧歌的」にも見えるし、抵抗組織の構成がピラミッド型で頭を潰せば全体が死ぬ(フランスの将軍はサナダムシに例えたりする)あたりも古い感じはする。今だったら、武器の売り手はいくらもいるし(それは帝国主義国ほど多いだろう)、組織構成も不定形で、「頭」は存在しなくなっている。
それだけ「進化」したのは、今日に至るも南北問題の本質は変わらず、手段だけエスカレートしたということだろう。

特定の主人公を置かず、最後まで抵抗を続けた一味が追い詰められるシーンを冒頭に置き、抵抗と弾圧のせめぎあい描写の連鎖の末、彼らが爆殺されるシーンをクライマックスにし、これで抵抗勢力は滅んだかと思わせて、唐突に「誰」と特定しない群集が主役として立ち上がり猛烈な抵抗を始める飛躍をもって締めくくる作劇が鮮やか。概念ではなく、それ自体情念と肉質を持った「群集」を描ききった。
目に見える相手を押さえつけて一安心と思った時こそが危ないのは、今でも一緒だろう。
(☆☆☆☆)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。